透明な壁
クマの体は、想像以上に使い勝手がよかった。
力が強いのは当然として、意外にも足が速い。重い体を支えてなお、地を蹴れば大地が震える。短い距離ならオオカミに劣らぬ速度で走れるのだ。
二足歩行は長くは保てないが、立ち上がることはできる。両手が使えることで、自由度は格段に増した。岩を動かすのも、木を薙ぎ倒すのも容易い。人間のころに味わった「道具を扱う感覚」と獣の体が奇妙に融合し、私は万能感に酔いしれていた。
森の中で、もはや敵は存在しないのではないか。そう錯覚するほどだった。
だが、そのとき――ふと、最初に逃したあの獲物が頭をよぎった。
小さな白い影。ぎこちなくも鋭い動きを見せ、最後には崖から身を投げたうさぎ。
なぜだろう。数え切れぬほどの獲物を追ったはずなのに、あのうさぎだけは忘れられない。倒し損ねたからか、それとも他に理由があるのか。高所から落ちたとしても、死体を見つけたわけではない。生きているかもしれない――そう考えると、胸の奥にざわめきが広がった。
「見つけなければ」
野生の勘が、確かにそう囁いていた。あの獲物を仕留めることが、私の存在を完成させる最後の儀式のように思えてならない。
匂いは覚えているが、それでも森は広い。闇雲に探すのは非効率だ。ならば端を目指すのがよいだろう。境界に近づけば、地形が変わる。森の全体像を捉えるためにも有効だ。私は進む方向を一つに定め、ひたすら歩き始めた。
半日ほど進んだだろうか。樹々の密度が薄れ、風の流れが変わった。空気が開け、緑の海が途切れる気配を感じる。やがて木立の隙間から光が強く差し込み、視界がぱっと広がった。
――森の切れ目だ。
その先には、平原が広がっている。背の低い草が風に揺れ、陽光を反射してきらめいていた。その先には小さな村落が見えた。炊煙が見える。人が住んでいるようだ。ギュッと胸が締め付けられるような気がした。惹かれるように私は一歩、森から踏み出そうとした。
しかし――
「......っ?」
体に衝撃が走った。硬いものにぶつかったような感触。目の前には何もない。ただ透明な壁があるかのように、それ以上先へ進めなかった。
私は鼻先を押し付け、爪で引っ掻いてみる。確かにそこには見えない何かが存在していた。音は鈍く響き、表面はつるりと滑らかだ。
「一体、これは......?」
息が白く曇るように壁に滲み、だがすぐに消える。匂いも味もなく、ただ存在だけが不気味に確かだった。
森の端。平原の入口。そこに立ち塞がる透明の壁。
世界の境界に触れたのだと、直感が告げていた。




