最強の牙
私は母ぐまの隙を突いた。
小熊の脇をかすめるように走り抜け、わざと鼻先で軽くちょっかいをかける。爪も牙も立てない。殺しはしない。ただ、母ぐまを怒らせるための「振り」だけだ。
効果はすぐに現れた。森に響く轟音のような咆哮。母ぐまが、凄まじい勢いでこちらへ突進してくる。あの質量があの速度で迫ってくるのを、私は初めて見た。地面が揺れ、木々が軋み、空気が震える。オオカミの私ですら、油断はできない。むしろ一歩でも誤れば、その巨体に押し潰されるだろう。
予定は少し狂い始めていた。罠の位置を計算し、誘導するはずだったが、相手の速度は私の想定を上回っている。小さな穴など無いものとして、母ぐまは直進してくる。枝や葉に引っかかるどころか、ただ力で押し潰し、前へ前へと突き進んでくる。
「想像以上だな…」
頭の片隅でそう思いつつ、私は全力で森を駆けた。足が土を蹴り、低木が弾けるように飛び散る。呼吸のリズムを保ちながら、クマを振り返り、再び前を向く。背後の轟音は途絶えない。
小高い丘に出たとき、視界の端で木々の密度が変わった。葉が濃く重なり、足元の地形が複雑になる。私はそこを目指して走る。丘の上は周囲を木々や葉っぱが覆い、逃げ道などほとんど見えない。行き止まり――そう見せかけるには絶好の場所だった。
目の前に母ぐまがいる。距離はほとんどない。大きな肩、血走った目。怒りが形を持って迫ってくる。
私は木々の小さな隙間を見つけた。細い、しかし狼なら通れるくらいの空間。息を整える暇もなく、そこに飛び込む。
「来い」
心の中で呟く。母ぐまも追うようにその隙間に突っ込んできた。枝で引っかかってくれればいい。相手の体重と体格なら、そこで勢いが削がれるはずだった。しかし現実は違った。枝も葉も、ただの飾りに過ぎないかのように押しのけ、何もないように突き抜けてくる。
だが、そのときだった。
母ぐまが見た景色に、もう狼の姿はなかった。
あるはずの地面もなかった。
体重と速度に任せて突き進んだ先は、岩の斜面だったのだ。母ぐまの巨体はそのままバランスを崩し、岩肌を転がるように落ちていく。ごうん、と鈍い音が谷に響いた。
私は木の影に身を潜め、その光景をじっと見ていた。
落下地点の方角を確かめ、地面を蹴って走り出す。
近づくと、母ぐまが必死に立ち上がろうとしているのが見えた。血と埃にまみれ、その大きな体が震えている。しかしもはや身体に力は入らないようだった。あの巨体が、今はただの獣に戻っている。
「......これでも生きているのか?」
思わず呟く。
下手に手負いの獣に近づくべきではない――その理屈はわかっている。だが、ここで立ち去ることはできなかった。私の胸には、オオカミとしての僅かな矜持があった。
私は静かに、しかし確実に跳躍した。
ふわりと、空気を裂いてその首筋に回り込む。
最後は首をひと噛み。牙が肉を裂き、母ぐまの息が止まる。魂が抜ける瞬間の、あの深い沈黙が森に広がった。
すぐに変身が始まった。
爪が太くなり、筋肉が膨張し、毛がより深く濃くなる。視界が広がり、匂いの世界がさらに鮮明になる。四肢の重さが頼もしさに変わり、鼓動が力の音になって胸の奥を響かせた。
私は――最強の力を手に入れた。
しばらく、その場に立ち尽くした。
巨大な体。圧倒的な力。そして人間の知性。
これで、もう誰も私を倒すことはできない。
だが、母ぐまの亡骸を見下ろしたとき、胸に小さな痛みが走った。
あの小熊は、もう母を失った。
私が奪ったのだ。
――いや、違う。
これは生き残るためだ。
私が悪いわけじゃない。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、心の奥底で何かが軋む音がした。
人間だった頃、私は誰かを押しのけたことがあっただろうか。
いつも押しのけられる側だった。
言い返すこともできず、ただ耐えるだけだった。
だが今は違う。
今度は、私が押しのける側になった。
それが正しいのか、間違っているのか。
もうわからなかった。
ただ、生きるためには、こうするしかないのだ。




