獣の舌
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野生の体になって気づくことは、まず――「力」の重さだった。
走るだけで地面が震える。牙を剥けば獲物は一瞬で崩れ、爪を立てれば枝が簡単に裂ける。筋肉の収縮は機械のように精密で、皮膚の感覚は人間のころの何倍も鋭い。息遣いひとつで周囲の空気を支配してしまうような、そんな万能感が胸に満ちてきた。
頭の中で何かがはじける音がした。
――これは、強い。圧倒的に、私は強い。
かつての自分を思い出すと、眩暈がする。会社員だったころの不安定な足取り、事務机に張り付いて数字を打つ手、気力の枯渇。あの小さな人間が、今の私の一部だったなんて信じられない。あのときの涙や虚しさが、遠い夢のように思える。
不思議なことに、「人間に戻りたい」という気持ちは、今はもう湧いてこなかった。戻る理由が見つからないのだ。人間の生活が与えてくれた安定や社会的な役割よりも、ここで得られる自由と力の方がずっと鮮烈で魅力的に映る。生存本能が、日常的な煩わしさをかき消してしまったのだろう。
変身の手応えも、少しずつ掴めてきた。意識の切り替え方、獲物の匂いの追い方、体のパーツをどう使うか――それらを反射的に選び取れるようになっている自分がいる。まるで、体が自分の思考に追いつき始めたような感覚だ。自由度は高い。もっと遠くへ行ける気がした。
そんな高揚の真ん中で、私はある気配を感じ取った。最初は小さな振動だった。木々の間を伝わる重い息、地面に響く低い足取り。音というよりは「存在の重さ」が伝わってくる。鼻先に入る匂いは、草の匂いでも獣の匂いでもない。もっと原始的で、圧倒的な「大きさ」を帯びている。
――クマだ。
思わず体が固まる。クマ。森の王者ともいえる存在。しかも近い。足元の土が微かに鳴るのを感じた。視界の先に、影が動いた。大きな肩、太い前脚、ふさふさの毛。あの体躯は、オオカミのそれとは次元が違う。
率直に言って、あれは私よりも強い可能性が高い。力と体重、叩きつける力。それらは、私の牙や爪が相手にならないほど有利に働くだろう。直面すれば、勝ち目が薄い――本能がそう警告する。
だが、私は元は人間だ。動物的本能だけに頼る相手に、私には人間の「知恵」がある。冷静に考えれば、単純に正面からぶつかるよりも勝算のある方法はあるはずだ。人間時代に身につけた観察力、計画の立て方、相手の行動パターンを読む癖――それらは今の体でも使える。
まずは情報を集める。匂いの濃淡、足跡の方向、木に残された擦り跡。クマが何をしていたのか、どこへ向かうのかを見極める。大きな獲物を探しているのか、単に移動しているだけなのか。巣を守るために攻撃的なのか、それとも餌を探す徘徊なのか。状況次第で戦術は全く変わる。
次に、地形を利用する。ここは木の密度が高い場所だ。太い木々の間に入り込み、枝や根を使って相手の動きを制限することも可能だ。クマは直線的な突進に強いが、細かな障害物や不規則な地形には弱い。逆に、私の俊敏性や機敏さを活かせる。狭いルートを利用して視界を切り、背後や側面からの小さな打撃で相手を撹乱することも考えられる。
さらに、心理戦だ。人間のときに学んだ「牽制」「偽の動き」「誘導」を、獣の動きとして応用する。相手に無理に噛みつくのではなく、動きを誘って疲れさせる。クマは大きなエネルギーを使う者だ。消耗戦に持ち込めば、その巨大さは逆に不利になる。
そして最後に、最も大事なことを自分に言い聞かせる。無駄な誇示はしないこと。不要な危険を冒さないこと。力があるからといって突っ込めば、それはただの無謀になる。知恵を使って、相手を「調理」する――すなわち、こちらが有利に事を運べるように仕向けるのだ。
私はゆっくりと息を整え、耳を動かして相手の位置を探した。クマの気配は確かに近いが、まだ決戦の時ではない。まずは観察だ。人間のころの習慣が、今、獣の行動に理路を与える。
森の奥で、影が再び動いた。私は身体を低くし、毛を逆立てずに静かに構えた。力はある。知恵もある。これで足りないものは、おそらく時間だけだ。
――さて、どう調理してやろうか。




