渇き
目を開けると、そこは明らかに都会ではなかった。
見渡す限り木々が立ち並び、幹と幹の間から射しこむ光が地面の苔にまだらな影を落としている。湿った土の匂い、風に揺れる枝のざわめき――どれも都会の公園で嗅いだことのない、濃く、重く、野生そのものの空気だった。
視界も違っていた。
人のころの目よりも、色彩はわずかに浅く、だが輪郭が鋭い。葉脈や小さな虫の動き、木の皮の割れ目までが鮮明に浮かび上がる。耳の奥に届く音は、遠くの鳥の羽ばたきや、どこかで枝が折れるかすかな響きまで拾っていた。
夢にしては、リアルすぎる。
足先に伝わる土の冷たさ、体毛を撫でる風、鼻腔に入り込む草の匂い。これが夢なら、なぜこんなに細部まで感じられるのだろう。
ゆっくりと立ち上がり、歩き出した。
足音が柔らかく森に吸い込まれる。自分の体は人間ではない――歩くたびに爪が地面をかく音がした。
喉が渇いてきた。
水道などあるはずもない。とりあえず水辺を探そうと思う。
その時、耳に微かな水音が届いた。
耳を澄ますと、風に乗って確かに聞こえる。流れのある水の匂いさえした。
幸いにも、この耳は人間のころよりもずっと優れているようだった。
音を頼りに森を進む。木々の間を抜け、シダの葉を押し分ける。やがて、小さな小川に出た。
水は澄んで、底の石まで見える。流れの上には落ち葉がくるくる回っていた。
水に顔を映した。
そこにあったのは、金色の目のオオカミの姿だった。
鼻先まで濡れた毛並み、耳の先まで張りつめた気配。目だけが、不自然なほど光を宿している。
信じられない気持ちとともに、奇妙な覚悟が胸に湧き上がる。
――私は、本当に変わってしまったのだ。
前脚を水に浸し、ゆっくりと喉を潤した。
水は冷たく、体に染みわたるようだった。
その時、視界の隅に動くものがあった。
うさぎ。
柔らかそうな白色の毛並み。耳が震え、足がぎこちなく動いている。どこか不自然な動きだ、と本能が告げる。
気づけば、胸の奥から熱いものがこみ上げていた。
空腹だけではない。もっと原始的な衝動――獲物を捕らえたい、という強い欲望。
自分でも驚くほどの殺意が全身にみなぎる。
「チャンスだ」と思うより先に、体が動いていた。
後ろ脚に力をため、一気に飛び出す。
うさぎも気づいたらしい。
ぎこちなかった動きが一変し、勢いよく走り出した。
森の木々の間を縫うように、獲物と自分が走る。
スピードは互角か、あるいはこちらの方がわずかに速い。距離は徐々に詰まっていく。
鼻先にうさぎの体温の匂いが届く。
爪が土をかき、枝が跳ね、風が体毛を切る。
胸の奥で鼓動が重く響く。
背後には崖があった。
追い詰めた――そう確信した瞬間だった。
うさぎが、崖から飛び降りた。
目の前で消える灰色の影。
慌てて足を止め、崖の縁に身を乗り出す。
だが、そこには何もなかった。
岩肌の下には木々が生い茂り、薄暗い谷が広がっている。落ちれば無事では済まない高さだ。
それなのに、崖下にうさぎの姿はなかった。血も毛も、何の痕跡も残されていない。
――そんなはずはない。
息を荒げながら崖下を探すが、見えるのは枝葉の影と深い闇だけ。
鼓動が耳を叩き、喉の奥で低いうなり声が漏れる。
まるで、最初から存在しなかったかのように。




