奪うものと奪われるもの
暗い洞窟の奥、うさぎがぎりぎり入れるほどの狭い空間に身を潜めていた。
水底の冷たさが骨にまで染みこみ、心臓の鼓動が耳の奥を打つ。
その時、微かな水音が聞こえた。
――来る。
泳ぐ音の質でわかる。相手は、さっきの中型の魚ではない。もっと小さな、俊敏な動き。水を切る音が鋭く速い。
背中を冷たいものが走った。
やはり、小型の魚の体を持っていたのか。
水音が近づくにつれ、その気配が変わった。
これは――自分より少し大きい。
中型よりは小さいが、自分の魚の体よりは明らかに強い。
隠れ場は分岐が少ない。すぐにこの空間に到達するだろう。心臓がますます高鳴った。いよいよ追い詰められたのか。
しかし同時に考える。
変身速度の差――そこにまだ勝機は残っている。相手は少し遅い。広がった空間だからこそ、別の形態を取る余地がある。
その瞬間。
水面を裂くように、小魚の影が勢いよく飛び込んできた。
牙をむき出しにした敵の瞳が光る。
男は迷わなかった。
一瞬で意識を反転させる。
体が伸び、骨がくねり、うろこが硬くしなる。
蛇。
反射よりも速い速度で頭部を振り下ろし、小魚をばくりとひとのみにした。
水を切る音と同時、体内に重みが走る。
蛇の獲物を捉える速度は尋常ではない。
噛みつき、逃がさぬまま呑み込む。それがこの形態の強みだ。
だが、男は慎重だった。
丸呑みにすれば、腹の中で変身されるかもしれない。それは最悪の展開だ。
だから、鋭い歯でしっかりと貫いた。小魚の体にその幅の半分くらいの大きさの穴が空いた。
肉が裂け、血の味が広がる。水の冷たさと混ざり合い、口の中で鉄のように広がった。
痛みを与えれば、集中などできまい。
変身どころではない。じわじわと意識を奪い、胃の奥へと送り込む。
蛇の体内で、小魚の動きは次第に弱くなっていった。
尾が震え、鱗が擦れる感触が消えていく。
――勝った。
心臓が大きく鳴った。全身に力が満ち、冷たい水すら甘美に感じる。
追われ続けた日々に終止符が打たれたのだ。
もう、怯える必要はない。
もう、逃げなくていい。
蛇の眼差しが暗い水の奥を見据える。
自分が生き残り、相手を喰らった――その事実が胸に焼きついていた。
***
コンクリートの隙間から伸びる緑は頼りなく、ベンチの足元には枯葉が溜まっていた。
昼休みの公園。
女は背中を丸め、コーヒーの入ったカップを手にしたままため息をつく。
スーツは少し皺が目立ち、目の下には疲れの影。
カップから立ちのぼる湯気は、秋風にあっという間に散っていく。
「......はあ」
思わず声に出した。
通りを歩く人々のざわめきや、子どもの笑い声が耳に届く。
けれど、そのどれもが遠く感じられた。
胸の奥で、何かに追われているような感覚が消えない。
理由はわからない。ただ心臓が妙に騒ぎ、落ち着くことができなかった。
コーヒーを見つめ、女は小さく首を振った。
その感覚は、夢の残り香のように確かだった。
第一部[完]
次回から場面が転換します。




