追うもの
狭い水路に飛び込んだ瞬間、全身を冷たい水が締め付けた。
息が詰まりそうな圧迫感。岩肌がすぐそこに迫り、尾を打つたびに鱗が擦れる。小魚の体は細い流れに翻弄され、何度も岩壁へ叩きつけられた。それでも進むしかない。
後ろを振り返ると、大型の魚は姿を消していた。代わりに、そこにいたのは鋭い歯を持つ中型の魚。体格は自分よりも二回り大きく、筋肉は硬く締まり、ひと噛みで肉を裂ける力を宿している。目は血走り、暗闇でもぎらついていた。
――やはり、あいつも読んでいたか。
自分が大きな体を避けて細い水路に逃げ込むと踏んで、相手はあらかじめ中型の魚を準備していたのだ。追跡に最適な形態を選び取る、その冷静さと狡猾さ。ぞわりと背筋を冷たいものが走った。
しかし、振り返って気づく。
相手の変身は、自分よりわずかに遅い。ほんの一瞬ではあるが、必ず「間」がある。水の流れの中で、その差は大きい。
慌ててさらに小型の魚に変身する。
骨が縮み、視界がぐにゃりと歪み、体は指先ほどの大きさになった。鱗は柔らかく、流れに煽られればすぐ吹き飛ばされそうだ。それでも、これで狭い水路の奥へ進める。
後ろで、中型の魚が壁に激突した。硬い音が水を伝い、耳の奥を震わせる。
男はさらに奥へ進んだ。
やがて水路の終点に辿り着く。そこには自分がかつて拡張しておいた岩陰の空洞がある。小魚の体でなければ入れない狭い隙間だが、内部はちょっとした籠城ができる広さになっている。
水草が揺れ、流れはほとんど届かない。光も差さず、ひんやりと静かな場所だ。
男はその奥に身を潜め、体を丸めた。心臓の鼓動がゆっくりと落ち着き、泡が小さく弾ける。
――やっと......一息つける。
そう思った瞬間、全身を氷の刃のような圧が貫いた。
水の温度が一気に下がったように感じる。背中の鱗が総毛立ち、尾の先が震える。
これは風でも音でもない。もっと原始的な感覚――「殺気」だ。
背筋に冷たいものが流れ落ちる。
暗闇の奥で、水がわずかに揺れた。
目を凝らす。泡が一つ、二つ、ゆらりと浮かぶ。
その背後に、影が――いた。
心臓が暴れる。呼吸が乱れ、泡が弾けて上へ昇る。見つかってしまう――そんな恐怖が頭を満たす。
必死に体を小さく丸め、岩の陰に押し込む。だが殺気は消えない。
むしろ、ますます濃くなっていく。
水の流れが逆巻く。小魚の体は簡単に流されそうになる。
それでも、動けない。少しでも動けば、確実に目を付けられる。
考える。
狼の転生者、あの金色の目。確かに恐ろしい。だが、今感じている圧力はそれ以上だ。比べものにならない。
まるで、檻そのものが意志を持って迫ってきているような......。
視界が滲む。水中の光が歪み、影がこちらへにじり寄る。
呼吸を忘れる。心臓の鼓動だけが耳に響く。
――近い。
頭の奥で警鐘が鳴る。今すぐ逃げなければ。だがどこへ?
出口は封じられているかもしれない。上も下も壁。変身すれば突破できるかもしれないが、その瞬間を狙われる可能性が高い。
どうすればいい――。
水が裂けた。
影が動いた。
刹那、全身の毛穴が開き、意識がひっくり返りそうになる。
――来る!




