絶望の穴を掘る
檻の境界がじりじりと迫る音は聞こえない。だが、男の内側ではそれと同じくらい確かな時限が鳴っていた。朝だろうと夜だろうと、風の向きが変わるたびに境界線は一歩内へ縮む。数日、数十日の感覚が歪み、残された時間という概念が粉々に砕けてゆく。
考えれば考えるほど、勝ち目は見えなかった。
自分のストック――うさぎ、羽虫、亀、蛇、モグラ、ネズミ、中型魚、小型魚。どれも必死に役に立ったが、いずれも根本的に力の差を埋められない。狼やクマ、ワシが相手では、どの形を選んでも致命的な穴がある。速さでは追いつかれ、力では潰される。毒も、鎧も、空の支配も手に入れていない。猿のように道具を振るえる体もない。勝てる未来が思い描けない。
そして、最も恐ろしい思考が湧いた。
このバリアは、人為的だ。誰かが設計し、監視し、縮めている。じゃあ――彼らはいつ止めるのか。途中でわざと止めて「勝者」を決めるのか。あるいは、最後の一点まで狭めて、両方を潰すつもりなのか。どちらにしても、自分が助かる道筋など描けない。可能性の帳尻は、冷たく虚しかった。
絶望は静かに、だが確実に心を覆った。
「ここで終わるのか」――何度もその言葉が頭をよぎる。しかし、終わるにはまだ早い。皮膚が震え、毛が逆立つほどの恐怖が、生きるための最も原始的な反応を呼び戻す。考えるだけで終わるのなら、最初から死んでいる方が楽だったろう。だが体はまだ動いた。卑小な希望が、まだ一つだけ残っている。
だから、足掻く。どんなに無意味に見えても、1秒でも延ばすために足掻く。
男は穴を掘ることを思いついた。大がかりなものではない。重機も道具もない。うさぎの前脚で掻き、爪で土を掘り、可能な限り浅くても相手の足を引っかけられる溝を作る。全身を埋めるような大穴は掘れない。だが、足を止められれば、その分逃げる時間が稼げる。爪を立てて土をひっかく感触は、今までの狩りの延長線だった。
何日もかけて、少しでも多くの場所に同様の溝を仕掛けた。倒木の下、岩場の隙間、草むらの入口。深くはないが、鋭い根や石が隠れる場所を選び、相手の足を引っかける確率を上げた。怪我をさせられれば、多少は優位に立てるかもしれない――それが現実的な期待の上限だった。
だが、現実的ではない思考が頭を埋め尽くす。
「もしも自分が人間に戻れるなら」「もしも誰か仲間がいてくれれば」「もしもこの力を別の形に変えられれば」――ありえない仮定を延々と弄ぶ。無数の『もしも』が、砂嵐のように脳内を巻き上げる。どれも実行不可能だと分かっているのに、思考はそこへ逃げ込む。逃避と希望の混じった薄い煙のような慰めが、ほんの一瞬だけ心を暖める。
掘る作業は、やがて身体と心を同じリズムに落ち着けた。土の匂い、湿り気、筋肉の痛み。生きている実感がそこにあった。穴の側でうずくまり、息を切らしながら、男は自分がなぜここまで頑張るのかを自問する。答えは単純だった――生きたいから、生き延びたいから。名誉でも勝利でもない。単純な欲望だ。それだけが残っている。
夜、風が冷たくなると、男は掘った溝の一つに身を潜めた。耳を澄まし、胸の鼓動を聞く。遠くで木が軋み、何かが近づく気配がした。全身が固まる。息をしないようにするにはどうすればいいのか、それすら分からなくなるほどの緊張だ。影が通り過ぎ、爪の音が土を擦る。時折、風がざわめき、葉が擦れる音が命取りになる。
逃げ道が網の目のように張られている感覚は、確かに少し安心をもたらした。だが同時に、檻が縮む速度は止まらない。どれだけ穴を増やしても、最後は同じ地点に押し潰される可能性が高い。それでも男は掘り続ける。一瞬の勝ち筋でも、心の中に光が差す限り、手を休められない。
絶望は深い。だが行動がある限り、その絶望は完全ではない。泥だらけの前脚を抱え、男は暗闇に向かって小さくつぶやいた。
「まだ、終わらない......少しだけでも、あと少しだけでも」
その言葉が、冷えた夜を少しだけ切り裂いた。




