生き残るための線引き
湖の底に横穴を見つけてからも、男の胸の奥には重い石が沈んでいた。
あれは最後の籠城にすぎない。潜り込めば一時は耐えられるかもしれない。だが逃げ道がなくなれば、ただ閉じ込められて終わるだけだ。
――別の手を探さなければ。
水の中にとどまっていても、いずれは行き詰まる。
ならば、いざという時に逃げ込める「ルート」を森の中に複数用意しておくほうがまだましだ。捕まりそうになった瞬間に飛び込み、時間を稼ぐ。少なくとも、一度きりで終わらずに「やり直せる」。それだけでも生存率は上がる。
男は再びうさぎの姿に戻り、森の奥を駆け始めた。
枝が折れ、草が散る。
森を何日も、何日も探し回った。
目を凝らし、耳を澄まし、鼻をひくつかせる。
獣道、倒木の隙間、岩肌の裂け目。
小さくて、素早くて、柔らかい体なら通れるが、あの狼や熊の巨体では到底入れない。
そういう場所を、一つでも多く。
倒れた大樹の下には、雨に削られた浅い洞があった。うさぎの体なら潜り込める。中は狭いが、外からは見えにくい。印をつけ、頭に刻む。
崖際には、根がむき出しになった木があり、その下に人ひとりほどの窪みが口を開いていた。身を縮めれば潜れる。追う側にとっては危険な足場になる。
さらに森を抜けていくと、大きな岩がいくつも積み重なった場所があった。
その隙間をうさぎの体で試しに潜ってみる。ひんやりとした石肌が腹を擦り、闇の中に息を殺す。背後を振り返れば、すぐには入ってこられない構造だった。
――使える。
男は少しずつ、森を「逃げ場の網」で塗りつぶしていった。
だが探索の間、気配は常に背後にあった。
風が止んだとき。
鳥の鳴き声が急に途絶えたとき。
草の揺れが風向きと噛み合わないとき。
耳の奥で、確かに囁くものがあった。
――来ている。
振り返っても姿はない。
それでも、「視られている」と感じる。
胸の鼓動が早まり、脚の震えを無理やり押さえ込む。
ある晩は、森を横切る最中にその気配が強まった。
木の枝の上、影がわずかに動いた気がした。
男は即座に草陰に身を投げ込む。
鼻先に土の匂い。耳に草の葉が擦れる音。
息を止め、動かない。
......上空を、大きな影が横切った。
羽ばたく音が短く響き、すぐに消える。
見つかれば終わっていた。
汗のように体毛が湿る。震える足を、必死に押しとどめた。
また別の日。
遠くで獣の咆哮が木々を震わせた。
それを聞いた瞬間、男はモグラへと変わり、土の中へ潜った。
暗闇。湿った土の重み。
だが土の壁越しに、足音のような振動が確かに伝わってくる。
自分を探している。確信があった。
全身を小さく丸め、じっと耐える。
やがて振動は遠ざかっていった。
土を掘り返して地上に出た時には、背中まで冷や汗で濡れていた。
そうして日々は過ぎた。
逃げ道は確かに増えている。
だが同時に、檻の境界は縮んでいた。
森の外れに近づくたび、見えない壁に弾かれる位置は前よりも内側になっている。
逃げ道をいくら増やしても、檻の中が狭まれば意味はなくなる。
それでも男は諦めなかった。
一歩でも多くの逃げ場を、網のように張り巡らせる。
気配に怯えながら、森を這い、駆け、掘り進める。
いつ来るかわからない瞬間に備えるために。
次に狙われた時、わずかでも生き残れる可能性を残すために。
――これは勝つための準備ではない。
ただ、生き延びるための線引きだ。
夜の森に身を潜めながら、男は息をひそめ、次の気配を待った。




