それぞれの夏
陽が傾く道を歩いていた私は、ふと立ち止まった。
此処は、省吾と別れた橋の上だった。
そうだ、あれから一年が経ったんだ。あれから……。
私は、橋にもたれ目をつぶった。
省吾は、進学塾の掲示板を見ていた。
「嘘!」
掲示板を見ていた省吾は、立ち尽くしてしまった。
「手話なんて覚えようとするから、そう言う目にあうんだよ!」
背後で、高木の声がした。
掲示板には、最近行われたテストの結果が、張り出されてあった。
省吾の成績は、僅差ながら高木に負けていた。
省吾と高木は、この春から小学六年生に進級していた。
二人は来年、私立中学を受験する為、お互い必死で受験勉強をしていた。
これまでは、いじめっこといじめられっこだった二人だったが、私立中学を目指すと言う、同じ目標をもった良きライバルに成長した。
「高木君!」
「そんなこっちゃ、同じ中学に行けないぞ」
そう言い残し、高木は教室に向って歩いて行った。
高木が持っていたカバンには、私が高木のお土産にと選んだキーホルダーが揺れていた。
「高木君、まってよ!」
慌てて省吾は、高木を追いかけた。
「前田先生。そろそろ会議室に行く時間ですよ」
同僚の教師に声をかけられ、前田は書き物をしていた手を止め、顔を上げた。
「はい!運動会の話し合いでしたね」
「夏休み過ぎたら、すぐですからね」
前田は机の引き出しを開け、ファイルを取り出す。
ふと、机の上に飾ってあった小さなクマのぬいぐるみに目がいった。
私が前田のお土産にと選んだ、小さなクマのぬいぐるみだ。
クマのぬいぐるみは「ファイト!」と書かれた旗を持っていた。
前田は、そっと微笑んだ。
「おまたせしました」
前田は、声をかけてくれた同僚の教師のところへ行き、二人並んで職員室を出た。
去年まで、省吾と高木の担任だった前田は、四月から別の小学校へと赴任した。
新しい学校では、小学二年生のクラスを受け持っていた。
学校にも慣れ、新たな気持ちで頑張っている。
「ただいま!」
アパートの玄関から、元気一杯の夏の声が聞こえた。
「お帰り!」
夏が台所に行くと、源さんが夕飯を作っていた。
「どれどれ」
味見をする夏を、源さんは心配そうに見守っていた。
「ん、おいしい!源さん腕上げたね!」
「本当に!良かった~」
源さんは、胸を撫で下ろした。
夏と源さんはこの夏に結婚し二人とも家を出て、アパートで暮らしている。
昼間はそれぞれの家に行って、今までと同じように家の仕事をして、どちらかが早くアパートに帰ると、その人がその日の食事当番。
今日は、源さんが早く帰ってきたので、源さんが食事を作っていた。
食事が出来あがり、二人で食べる。
「早く家を建てて、なっちゃんのご両親と一緒に、暮らしたいですね」
「そうぉ?私は、今のままがいいな」
「駄目ですよ!ご両親を安心させないと」
「そんなことより、私早く赤ちゃんがほしいな」
うっとりする夏に、源さんは顔を赤らめた。
「ほ・ほ・ほホントですか!いいな~赤ちゃん!」
「ちょっと、まだ出来てないわよ!」
「赤ちゃんかぁ~きっと、なっちゃんそっくりな、かわいい赤ちゃんだろうな!男の子も良いなぁ~。やっぱ、三人はほしいよな。まてよ、そうなると……なっちゃん!」
「は、はい!」
「やっぱ、家を建てた方が良いよ。子共、三人できるんだから!」
「も~源さん!」
「いらっしゃいませ!」
正人の元気な声で、健一の父親は迎えられた。
「あれ、今日も来たの?」
「おう、邪魔するぞ」
健一の父親は、カウンターの席に座った。
「どうぞ」
マスターがおしぼりを差し出し、健一の父親はおしぼりを受け取った。
「此処は、いいなぁ。いつまでたっても変わらなくて」
「嬉しいですね。最高の褒め言葉ですよ」
健一の父親は、ビールを注文した。
ビールはすぐ来て、グラスに注いで飲み干す。
「あーうまい!」
カウンターの中に入った、正人が言った。
「お姉さんのとこには、行かないんですか?」
「行かないよ。いつもと変わらないから」
「淋しくないですか?」
マスターの問いに健一の父親は、首を横に振った。
「淋しいなんて、あるものか。一人になって、清々する」
「おーおー、無理しちゃって」
正人がつぶやいた。
(また……ある……た……)
健一が、不思議そうな顔をした。
私は、ため息をついた。
「向、違うよ。こうだよ」
私は、健一に向かって手を動かした。
(また、明日)
「あーなるほど!では」
(また……明日……)
ぎこちなく手を動かしながらも、今度は健一に通じたようだ。
健一は、笑顔で応える。
(また、明日)
「わー出来た!健一さんと、会話が出来ましたよ!」
両手を上げ、向は喜んだ。私は、ため息をついた。
「あのね……」
今のを、会話と言うのだろうか。
私は、あきれてしまった。
向が帰って行き、健一と二人きりになる。
(寝よっか)
私は健一に、声をかけた。
(そうだね)
二階の部屋へ行き、二人で布団を敷く。
健一が電気を消して、布団の中に入る。
部屋の中は、豆電球のオレンジ色に染まった。
しばらくしてから、健一が私を揺さぶり手を動かした。
(本当に、写真だけで良いの?)
(良いの、写真だけで)
(でも……)
(私、毎晩健の顔見て〖おやすみなさい〗を言えるのが、嬉しいんだ)
健一は、そっと微笑んだ。
(おやすみなさい)
(おやすみなさい)
私と健一は、夏と源さんの後を追うように、結婚した。
これまで、一人で暮らしていた家に、今は健一と二人で暮らしている。
結婚しても、今まで通り健一は実家の花屋の仕事をしていた。
いつもの名札の付いた、エプロンを着て。
相変わらず、向は私の家に出入りしている。
省吾に負けまいと、手話を覚えているのだが、省吾の方が向より先に健一と会話が出来そうだ。
パソコンが置いてある机の上には、駅ビルの土産屋で買った小さなクマのぬいぐるみが置いてある。
そのクマは、「いつもいっしょ」と書いた旗を持っていた。 そしてその隣には、写真立てが置いてある。
結婚式を挙げる代わりに撮った写真だ。
ウェディングドレスの私と、タキシードの健一が笑っている。
「ばいばいアイカ!またね」
不意に省吾の声が聞こえ、私は目を開けた。
河の向こうでは、ゆっくり夕陽が沈んでいく。
私は、家に向って歩きだした。
省吾と初めて出会った一年前のあの夏の日から、いろんな人たちと出会い、いろんな人生を私は見てきた。
私にとっていつもの夏が、特別なものになっていた。
たぶん、きっと、これからも。
ねっ、そう思うだろ。
省吾……。




