健一
「僕より、ずっとつらい思いをしてきたんだね」
省吾が言った。
「省吾は、強いよ。ちゃんと目を開いて、現実を見ているんだから。私は、逃げてばかり」
「じゃ、もう逃げないで。健一さんと結婚して」
「省吾」
「僕、みんなと出会えたから、逃げるのをやめることが出来た。今度は、僕がおばさんの力になる番」
出会った頃より、少したくましくなった省吾を私はみつめた。
「ねぇ、健一さんとつきあうきっかけって何?」
「あの日は、雨が降っていたなぁ」
「雨が降っていた日に、知りあったの?」
「うん」
健一と初めて出会った頃のことを、懐かしく思い出しながら私は頷いた。
突然の雨に、私は慌てて商店街の屋根の下に入り、雨宿りをした。
まいったな。
振り向くとそこは、花屋だった。
店の中では中年男性と、若い男性がいた。
中年男性は楽しそうに客と話をしていて、若い男性は黙々と花に水をかけていた。
私は、空を見上げた。
雨は、一向に止みそうもない。
此処にいつまでいても、仕方がない。
濡れて帰るか。
そう思った時だった。
背後に人の気配を感じ、振り向くと店の中にいた若い男性が立っていた。
黙ったままその男性は、私に傘を差し出した。
私は、その男性をじっとみつめた。
男性は、エプロンをしていた。
店の人だからエプロンをしているのは当然だが、私が気になったのは、エプロンについていた名札だった。
男性は「さぁ」と言うように、傘を差し出した。
傘を受け取った私は軽く頭を下げ、傘を差して雨の中を歩いた。
後ろをそっと振り返ると、若い男性がまだ立っていて、私を見送っていた。
私は、小さく手を振った。
若い男性も、笑顔で手を振ってくれた。
突然の雨。
それが、健一との初めての出会いだった。
「映画みたいな出会いだね!」
省吾が、ため息混じりに言った。
「そうかな?」
「で、その後、どうなったの?」
「その後?ちゃんと傘、返しに行ったよ」
傘……玄関の隅に、あの若い男性の傘が置いてあった。
傘を受け取ってからもう、一ヶ月が経っていた。
すぐ返そうと思ったけど、あの名札が頭から焼きついてはなれない。
あの名札に書いてあった文字を、何度も思い出す。
「私は耳が聞こえません。でも笑顔は絶やしません」
名札には、そう書いてあった。
私はそれから、半年経ってから傘を返しに行った。
店の中をのぞくと、あの日と同じように中年男性とあの若い男性がいた。
「いらっしゃいませ」
店の中に入ると、中年男性が声をかけた。
私が手にしていた傘に気が付いた若い男性が、私に近寄ってきた。
私は黙ったまま、傘を差し出た。
「あの……えっとぉ~」
私は、ぎこちなく手を動かした。
(傘を、ありがとうございます。返すの遅くなって、ごめんなさい)
若い男性は驚いていたが、すぐ笑顔になり、手渡された傘を立てかけるとゆっくり手を動かした。
(わざわざ、ありがとう)
そう、言ったのだった。
それから私は花屋にちょくちょく顔を出し。
健一が休みの日には二人で図書館に行き、健一から手話を教わり、会話が出来るまで上達したのだった。
「手話を覚えるために、傘を返すのが遅くなったの?」
省吾の問いに、私は頷きながら答えた。
「うん。耳が聞こえないとわかって、ちゃんと手話で話してみたいと思ったんだ」
「笑顔は、絶やしませんか……健一さんの笑顔、本当に良いもんね!」
「そうだね。また、あの笑顔を見たい。そう、思ったんだ」
「結婚すれば、健一さんの笑顔が、毎日見れるんだよ」
結婚したら、毎日笑顔が見れるか。
そんなこと、毎日考えていた。
「さぁ、もう寝よう。明日は、帰るんだから」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
省吾は、布団の中に潜り込んだ。
やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
おやすみ……か。寝る時こんな言葉を掛け合ったことなど、もう何年もなかった。
おやすみ……なんてやさしい言葉だったんだろう。
初めて知った気がした。
健と一緒になったら、寝る前に言うんだろうな。
そんなことを思っていたら、私はあの日のことを思い出していた。
あの日……。
私は、健一を裏切った。
「予定がないなら、この後もつきあってくれませんか?」
そう言った前田の言葉に、私は前田と一緒にいた。
それは、お互い言葉のある世界。
あの時の私は、健一の存在を忘れていた。
別れ際、前田は私を抱きしめ「ずっと一緒にいてください」と言った。
前田と一緒にいた時間。
それは、言葉がある世界。
一番あこがれていた世界かもしれない。
でもそこに、健一はいない。健一……。
私は前田を突き放すように、やっと前田から離れた。
「すみませんでした!今のことは、忘れてください!」
我に返った前田が、深く頭を下げた。
私は、小さく「ごめんなさい」とつぶやき、思い切り走り出した。
健一のもとに走った私は、思い切り健一の胸の中に飛び込んだ。
何も知らない健一は、私をやさしく抱きとめてくれた。
健一に抱きしめられながら、私は健一のエプロンに付いている名札の文字を目で読んだ。
「私は耳が聞こえません。でも笑顔は絶やしません」
初めて出会った時と同じ文字が、そこにはあった。
もう二度と、健一の側を離れないと誓ったのだった。




