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なつのかけら  作者: kagari
24/27

健一

「僕より、ずっとつらい思いをしてきたんだね」

 省吾が言った。

「省吾は、強いよ。ちゃんと目を開いて、現実を見ているんだから。私は、逃げてばかり」

「じゃ、もう逃げないで。健一さんと結婚して」

「省吾」

「僕、みんなと出会えたから、逃げるのをやめることが出来た。今度は、僕がおばさんの力になる番」

 出会った頃より、少したくましくなった省吾を私はみつめた。

「ねぇ、健一さんとつきあうきっかけって何?」

「あの日は、雨が降っていたなぁ」

「雨が降っていた日に、知りあったの?」

「うん」

 健一と初めて出会った頃のことを、懐かしく思い出しながら私は頷いた。


 突然の雨に、私は慌てて商店街の屋根の下に入り、雨宿りをした。

 まいったな。

 振り向くとそこは、花屋だった。

 店の中では中年男性と、若い男性がいた。

 中年男性は楽しそうに客と話をしていて、若い男性は黙々と花に水をかけていた。

 私は、空を見上げた。

 雨は、一向に止みそうもない。

 此処にいつまでいても、仕方がない。

 濡れて帰るか。

 そう思った時だった。

 背後に人の気配を感じ、振り向くと店の中にいた若い男性が立っていた。

 黙ったままその男性は、私に傘を差し出した。

 私は、その男性をじっとみつめた。

 男性は、エプロンをしていた。

 店の人だからエプロンをしているのは当然だが、私が気になったのは、エプロンについていた名札だった。

 男性は「さぁ」と言うように、傘を差し出した。

 傘を受け取った私は軽く頭を下げ、傘を差して雨の中を歩いた。

 後ろをそっと振り返ると、若い男性がまだ立っていて、私を見送っていた。

 私は、小さく手を振った。

 若い男性も、笑顔で手を振ってくれた。

 突然の雨。

 それが、健一との初めての出会いだった。


「映画みたいな出会いだね!」

 省吾が、ため息混じりに言った。

「そうかな?」

「で、その後、どうなったの?」

「その後?ちゃんと傘、返しに行ったよ」


 傘……玄関の隅に、あの若い男性の傘が置いてあった。

 傘を受け取ってからもう、一ヶ月が経っていた。

 すぐ返そうと思ったけど、あの名札が頭から焼きついてはなれない。

 あの名札に書いてあった文字を、何度も思い出す。

「私は耳が聞こえません。でも笑顔は絶やしません」

 名札には、そう書いてあった。

 私はそれから、半年経ってから傘を返しに行った。

 店の中をのぞくと、あの日と同じように中年男性とあの若い男性がいた。

「いらっしゃいませ」

 店の中に入ると、中年男性が声をかけた。

 私が手にしていた傘に気が付いた若い男性が、私に近寄ってきた。

 私は黙ったまま、傘を差し出た。

「あの……えっとぉ~」

 私は、ぎこちなく手を動かした。

(傘を、ありがとうございます。返すの遅くなって、ごめんなさい)

 若い男性は驚いていたが、すぐ笑顔になり、手渡された傘を立てかけるとゆっくり手を動かした。

(わざわざ、ありがとう)

 そう、言ったのだった。

 それから私は花屋にちょくちょく顔を出し。

 健一が休みの日には二人で図書館に行き、健一から手話を教わり、会話が出来るまで上達したのだった。


「手話を覚えるために、傘を返すのが遅くなったの?」

 省吾の問いに、私は頷きながら答えた。

「うん。耳が聞こえないとわかって、ちゃんと手話で話してみたいと思ったんだ」

「笑顔は、絶やしませんか……健一さんの笑顔、本当に良いもんね!」

「そうだね。また、あの笑顔を見たい。そう、思ったんだ」

「結婚すれば、健一さんの笑顔が、毎日見れるんだよ」

 結婚したら、毎日笑顔が見れるか。

 そんなこと、毎日考えていた。

「さぁ、もう寝よう。明日は、帰るんだから」

「うん。おやすみなさい」

「おやすみ」

 省吾は、布団の中に潜り込んだ。

 やがて、静かな寝息が聞こえてきた。

 おやすみ……か。寝る時こんな言葉を掛け合ったことなど、もう何年もなかった。

 おやすみ……なんてやさしい言葉だったんだろう。

 初めて知った気がした。

 健と一緒になったら、寝る前に言うんだろうな。

 そんなことを思っていたら、私はあの日のことを思い出していた。

 あの日……。

 私は、健一を裏切った。

「予定がないなら、この後もつきあってくれませんか?」

 そう言った前田の言葉に、私は前田と一緒にいた。

 それは、お互い言葉のある世界。

 あの時の私は、健一の存在を忘れていた。

 別れ際、前田は私を抱きしめ「ずっと一緒にいてください」と言った。

 前田と一緒にいた時間。

 それは、言葉がある世界。

 一番あこがれていた世界かもしれない。

 でもそこに、健一はいない。健一……。

 私は前田を突き放すように、やっと前田から離れた。

「すみませんでした!今のことは、忘れてください!」

 我に返った前田が、深く頭を下げた。

 私は、小さく「ごめんなさい」とつぶやき、思い切り走り出した。


 健一のもとに走った私は、思い切り健一の胸の中に飛び込んだ。

 何も知らない健一は、私をやさしく抱きとめてくれた。

 健一に抱きしめられながら、私は健一のエプロンに付いている名札の文字を目で読んだ。

「私は耳が聞こえません。でも笑顔は絶やしません」

 初めて出会った時と同じ文字が、そこにはあった。

 もう二度と、健一の側を離れないと誓ったのだった。

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