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裕福貧乏

作者: P4rn0s
掲載日:2025/11/05

夜の静けさが、まるでガラスのように冷たく張り詰めていた。

部屋の明かりは天井の一灯だけ。白く乾いた光が机の上を照らしていて、その上にはスマホとマグカップと、読みかけの本。

ページを開いても内容は入ってこない。読んでいるのか、ただ眺めているのか、自分でもよくわからない。


ふと、息を吐く。

ああ、自分は恵まれているんだよな、と頭のどこかが囁く。

明日のご飯に困ったこともないし、雨風をしのげない夜なんて一度もなかった。

欲しいものがあれば、少し考えてから買える程度の余裕もあった。

冷蔵庫を開けば何かしら食べるものがあるし、財布の中には小銭が並んでいる。

そのどれもが、当たり前のようにそこにある。

けれど、その「当たり前」がどこか遠く感じる。


幸せって何だろう、と思う。

言葉にすれば安っぽくなるけれど、考えずにはいられなかった。

ふとした拍子に襲ってくる虚しさ。

夜道を歩いている時、信号が青に変わるのを待ちながら、どうしてか泣きたくなる瞬間がある。

泣く理由なんて何ひとつないのに。

ただ、心の奥で何かが擦り切れていく音がして、それが自分を落ち着かなくさせる。


誰かに相談すれば、「贅沢な悩みだ」と言われるだろう。

そんなことわかっている。

わかっているから、余計に言えない。

だって、自分より苦しんでいる人なんて世界中にいる。

その人たちの痛みを想像すれば、自分の憂鬱なんて、ほこりみたいなものだ。

でも、ほこりだって目に入れば痛い。

それを取り除く方法を、誰も教えてくれない。


いつからだろう。

笑っている時も、心のどこかが冷めているように感じるようになったのは。

友達と飲みに行って、冗談を言い合って、笑い声が響く。

でも、その瞬間に「自分はここにいるのかな」と思ってしまう。

声は出している。

笑顔も作っている。

だけど、感情がそこに追いついてこない。

まるで、自分を演じることが日常になってしまったみたいだった。


「幸せ」って、結局、どこにあるんだろう。

手に入れるものじゃなくて、気づくものだと誰かが言っていた。

けれど、その「気づき」すらも鈍ってしまった気がする。

便利になった世界、何でも手に入る生活、数秒で届く情報。

その中で、いつのまにか何も感じなくなっていた。

嬉しいニュースを見ても、心が跳ねない。

悲しい話を聞いても、涙が出ない。

「感じること」が、少しずつ壊れていく音がする。


そして、夜が来るたびに思う。

このまま生きていって、何を掴むんだろう。

明日の予定をこなして、週末には好きなものを食べて、気が向けば映画を見る。

そうして何年か経てば、少し年を取って、今よりも静かに生きていくんだろう。

それでいいのか?

いや、それが普通なんだ。

そう思うたびに、自分の中の「何か」がかすかに軋む。


ベランダに出て、夜風を吸い込む。

遠くで車の音がする。

街の光はやわらかく滲んで、まるで誰かの記憶みたいに揺れていた。

あの光のひとつひとつの下で、人が生きている。

笑ったり、怒ったり、泣いたりしている。

そのどれもが現実で、自分もその一部であるはずなのに、どこか他人事のように感じる。


「傲慢だな」と、呟いた。

こんなにも満たされているのに、足りないと感じるなんて。

世界のどこかでは、今日を生き延びることに必死な人がいる。

それを知っているのに、自分の小さな孤独を抱えてうずくまる。

その矛盾が、胸の奥を焼くように痛い。


でも、たぶん人は、そうやって生きていくんだろう。

満たされていても、空白を探してしまう。

幸せの中に、不幸の影を見つけてしまう。

足りないものを埋めるために何かを求め、それでも完全には埋まらない。

その繰り返しの中で、ようやく人は「生きている」と感じるのかもしれない。


夜風が少し冷たくなってきた。

部屋に戻ると、机の上のスマホが光っていた。

通知を開けば、友人からの何気ないメッセージ。

「今度、またご飯行こうよ」

その一文を見つめながら、小さく息を吐いた。

少しだけ、胸の奥が温かくなる。


──多分、幸せって、そういうものなんだろう。

完璧に感じるものじゃなくて、ほんの一瞬、心がやわらぐこと。

その瞬間がある限り、自分はまだ大丈夫だと思えた。


部屋の明かりを少し落とす。

窓の外には、今日と変わらない夜。

だけど、ほんの少しだけ、世界が優しく見えた。

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