裕福貧乏
夜の静けさが、まるでガラスのように冷たく張り詰めていた。
部屋の明かりは天井の一灯だけ。白く乾いた光が机の上を照らしていて、その上にはスマホとマグカップと、読みかけの本。
ページを開いても内容は入ってこない。読んでいるのか、ただ眺めているのか、自分でもよくわからない。
ふと、息を吐く。
ああ、自分は恵まれているんだよな、と頭のどこかが囁く。
明日のご飯に困ったこともないし、雨風をしのげない夜なんて一度もなかった。
欲しいものがあれば、少し考えてから買える程度の余裕もあった。
冷蔵庫を開けば何かしら食べるものがあるし、財布の中には小銭が並んでいる。
そのどれもが、当たり前のようにそこにある。
けれど、その「当たり前」がどこか遠く感じる。
幸せって何だろう、と思う。
言葉にすれば安っぽくなるけれど、考えずにはいられなかった。
ふとした拍子に襲ってくる虚しさ。
夜道を歩いている時、信号が青に変わるのを待ちながら、どうしてか泣きたくなる瞬間がある。
泣く理由なんて何ひとつないのに。
ただ、心の奥で何かが擦り切れていく音がして、それが自分を落ち着かなくさせる。
誰かに相談すれば、「贅沢な悩みだ」と言われるだろう。
そんなことわかっている。
わかっているから、余計に言えない。
だって、自分より苦しんでいる人なんて世界中にいる。
その人たちの痛みを想像すれば、自分の憂鬱なんて、ほこりみたいなものだ。
でも、ほこりだって目に入れば痛い。
それを取り除く方法を、誰も教えてくれない。
いつからだろう。
笑っている時も、心のどこかが冷めているように感じるようになったのは。
友達と飲みに行って、冗談を言い合って、笑い声が響く。
でも、その瞬間に「自分はここにいるのかな」と思ってしまう。
声は出している。
笑顔も作っている。
だけど、感情がそこに追いついてこない。
まるで、自分を演じることが日常になってしまったみたいだった。
「幸せ」って、結局、どこにあるんだろう。
手に入れるものじゃなくて、気づくものだと誰かが言っていた。
けれど、その「気づき」すらも鈍ってしまった気がする。
便利になった世界、何でも手に入る生活、数秒で届く情報。
その中で、いつのまにか何も感じなくなっていた。
嬉しいニュースを見ても、心が跳ねない。
悲しい話を聞いても、涙が出ない。
「感じること」が、少しずつ壊れていく音がする。
そして、夜が来るたびに思う。
このまま生きていって、何を掴むんだろう。
明日の予定をこなして、週末には好きなものを食べて、気が向けば映画を見る。
そうして何年か経てば、少し年を取って、今よりも静かに生きていくんだろう。
それでいいのか?
いや、それが普通なんだ。
そう思うたびに、自分の中の「何か」がかすかに軋む。
ベランダに出て、夜風を吸い込む。
遠くで車の音がする。
街の光はやわらかく滲んで、まるで誰かの記憶みたいに揺れていた。
あの光のひとつひとつの下で、人が生きている。
笑ったり、怒ったり、泣いたりしている。
そのどれもが現実で、自分もその一部であるはずなのに、どこか他人事のように感じる。
「傲慢だな」と、呟いた。
こんなにも満たされているのに、足りないと感じるなんて。
世界のどこかでは、今日を生き延びることに必死な人がいる。
それを知っているのに、自分の小さな孤独を抱えてうずくまる。
その矛盾が、胸の奥を焼くように痛い。
でも、たぶん人は、そうやって生きていくんだろう。
満たされていても、空白を探してしまう。
幸せの中に、不幸の影を見つけてしまう。
足りないものを埋めるために何かを求め、それでも完全には埋まらない。
その繰り返しの中で、ようやく人は「生きている」と感じるのかもしれない。
夜風が少し冷たくなってきた。
部屋に戻ると、机の上のスマホが光っていた。
通知を開けば、友人からの何気ないメッセージ。
「今度、またご飯行こうよ」
その一文を見つめながら、小さく息を吐いた。
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
──多分、幸せって、そういうものなんだろう。
完璧に感じるものじゃなくて、ほんの一瞬、心がやわらぐこと。
その瞬間がある限り、自分はまだ大丈夫だと思えた。
部屋の明かりを少し落とす。
窓の外には、今日と変わらない夜。
だけど、ほんの少しだけ、世界が優しく見えた。




