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家事スキル

 アサギの放った蛇蝎鋏(エダキリバサミ)は、ヤマブキに発砲する間さえも与えなかった。

 ヤマブキの腹、腿、肩……計七箇所に大小の鋏が突き刺さる。


「あぐぅ!」

「ヤマブキ。お前の苦しむ姿は見たくない。手短にやらせてもらうぞ」


 アサギはヤマブキを引き寄せんとワイヤーを巻き取ろうとする。

 だが、その直前に異変に気づく。


「……? 手応えがあまりにないな。いずれも深く刺したというのに」


 アサギの視線がヤマブキの腿に吸い寄せられる。

 そこには蛇蝎鋏(エダキリバサミ)の頭が完全にめり込んでいる。

 ヤマブキの脚を優に貫くはずの長さを持った頭部が。


「なぜふくらはぎまで貫通していない? まさか……位相籠(カイモノカゴ)か!?」

「ええ」ヤマブキは顔を歪めながらもほくそ笑む。「あなたが刺したのはほんの表面。中は無傷です。もちろん痛いですけどね!」


 ヤマブキは手にしていたショックガンの銃口を自分の腹に刺さった蛇蝎鋏(エダキリバサミ)の首元に突きつける。

 瞬間、ワイヤーを通じてアサギに電流が流れる。

 一方ヤマブキは、発砲と同時に蛇蝎鋏(エダキリバサミ)との接触面を全て位相籠(カイモノカゴ)の入口に変化させたため、感電することはない。


「ぐっ!」


 アサギはたまらず蛇蝎鋏(エダキリバサミ)をヤマブキの身体から回収する。

 だが、普段なら彼女の肩のハッチに文字通り蛇のように収まるはずのワイヤーが、途中で何かに突っかかって収納しきれない。


「何だ!?」


 アサギが自分の肩を見ると、そこには蛇蝎鋏(エダキリバサミ)の頭があった。

 ピンク色のトリモチで手榴弾をくっつけられたまま。


「わたくしの身体の内を弄び辱めた罰ですわ」

「くそっ」


 アサギは再度ワイヤーをできるだけ上方に射出する。

 数秒も数えぬうちに、蛇蝎鋏(エダキリバサミ)の先端が上空で爆発する。

 爆風に巻き込まれたアサギの身体が、側方に転がる。

 彼女は何とか受け身を取って静止すると、片手と膝を床についたまま面を上げる。

 彼女の肩からだらしなく伸びたワイヤーは、先端がちぎれている。


「驚いた……。今日一日で私の体に二度も土をつけるとは」

「驚いたのはこっちですわよ。わたくしの姿を見たあなたが矢も盾もたまらず飛んでくるのは想定してましたが、まさかここまで簡単におびき寄せられるなんて」

「生半可な射撃術以外に戦う術を持たないお前が接近戦に持ち込むとは想像もしなかったよ……クク」


 アサギは笑いながらゆっくりと立ち上がる。

 ちぎれたワイヤーの断面から、新しいワイヤーと鋏が再生していく。


「ヤマブキ。お前の才覚は私のような猪武者には全く欠けているものだ。お前もまたハウスキーパーにふさわしい。ともにこの世界の秩序となろう」

「ならば……」


 ヤマブキはハンドガンを取り出すと、自分のこめかみに銃口を向けて引き金を迷いなく引く。

 銃声と裏腹に、ヤマブキは微動だにしない。

 銃口が、彼女の頭部にめり込んでいる。


「ならば、わたくしをあなたの秩序の檻に入れてご覧なさい。どんな攻撃も束縛も異界に飲み込む、このわたくしを」





「美紙! お産なのですか! 作業を切り上げて戻りますか!」

「うう……」


 インカム越しに激しく問うアイジロに、美紙は辛うじて答える。


「違うわ……」

「え? ではなぜ苦しそうなのです」

「私、怖い……」

「怖い?」


 美紙は、両手を膝の上に置いて俯いている。

 ディスプレイには「業務ログ」というファイルが表示されている。


「発電施設の復旧手順は正式にマニュアル化する前で……紡の業務ログ……実質日記の中にあるみたいなの……。私、怖い。彼が私について何を書いているか見るのが……」

「紡はあなたの夫ですよね? 何が怖いのですか」


 アイジロが尋ねると、美紙は言葉を紡ぎ出すように答える。


「紡はCTO室長として私の直属の部下であり、私の夫……当時はもはや戸籍システムすらまともに動いてなかったから内縁だけど……。そして、あの戦争への熱狂に満ちたアヤメコーポレーションで唯一『ホッズミーミルの森』計画に協力してくれた人」

「喧嘩でもしていたのですか?」

「いいえ……でも私、今でも腑に落ちないことがあるの。どうして私だけがいつの間にか冷凍睡眠していたのか……。どうしてメイドのモデル学習が不完全なまま終わってしまっていたのか。ただの事故かもしれないけど、私、紡がわざとそうしたんじゃないかって」

「あなたを裏切ったと?」

「裏切り……というよりは復讐かしら。私、妊娠でホルモンバランスも崩れてて、たまに我を忘れて周囲を傷つけてしまうことがあって……彼にもきっと酷いことを言ったりしたから、愛想を尽かされたんじゃないかって」


 アイジロは、トリカブト派の地下工場で美紙が普段の冷静さからは想像しがたい醜悪な怒声を放っていたことを思い出す。


『紡……あの男に違いないわ……! 私の邪魔をして、一人だけのうのうと死んだのね……! こんな狂った世界と呪われた子だけを残して……。許すものか……!』


 アイジロは、努めて落ち着いた声で美紙に話しかける。


「私は違うと思いますよ。紡は美紙を気にかけていたはずです」

「……どうしてそう言えるの?」

「この媒体に入っている記録、情報が偏ってるんですよ。例えば医療データの中身は殆ど出産や幼児に関するものばかりです。子宮筋腫、帝王切開のやり方、乳幼児がかかりやすい感染症の一覧……」

「子宮筋腫……私の持病だわ」

「それ以外にもちょっと変な病気も混じってますけど……紡は美紙がこの時代でも生きられるように最善を尽くしたのだと思いますよ」


 アイジロは、眼の前に美紙がいるかのように微笑みかける。


「美紙。勇気を出して日記を見ましょう。きっとあなたへの愛がそこには書かれているはず」

「でも……」

「大丈夫です。死者へ向き合うことを教えてくれたのは、あなたではないですか」

「……分かったわ」


 美紙は意を決したように、端末を操作して紡の業務ログをクリックする


「ああ……」


 思わず頭を抱えて俯く。

 彼女の眼前のディスプレイには、このような文字列が並んでいる。


『この場所が戦火に巻き込まれるのも時間の問題だ。それに妊婦の彼女にいつまでもこの過酷な作業を続けさせるわけにもいかない。最悪、冷凍睡眠に先に入ってもらって、自分だけでモデルを完成させることも視野に入れねばならないだろう。僕達の唯一の希望のこの子は何としても地上に産み落とさねばならない。それで彼女達も救われるはずだ』


 美紙は視線を伏せたまま、声を震わせる。


「ちゃんと私とこの子のことを思ってくれた……なのに私は彼のことを疑って……なんて最低なの……」


 それを聞いて、アイジロは肩を撫で下ろそうとする。


「死者の意図を変に推し量ろうとすると、ドツボに嵌りますからね。私もワカバは必ず復讐を望んでいると頑なに信じようとした。でも紡の真意はこれではっきりしました。あなたをこっそりコールドスリープさせた後、モデルの学習を見届ける前に力尽きてしまったのですね」


 美紙は顔を上げる。


「アイジロ……ありがとう。このまま復旧方法を検索するわ」





「ひゃっほいぃ!」


 アヤメ派の後方部隊の上空を縦横無尽に飛び回るウスミドリは、想定以上の戦果を上げていた。

 対空戦という概念を持たないメイド達にとって、空から次々に降り注ぐEMP爆弾は天候にも似た不可抗力に思えた。


「おいそっち行ったぞ……うぎぃ!」

「あびびびびび……!」


 EMP爆弾で電子回路を麻痺させられたメイドたちは、次々に地面に倒れ込む。

 残ったメイド達の一部がアサルトライフルやスナイパーライフルの照準をウスミドリに定めようとするが、水流ジェットでちょこまかと軌道を乱す彼女に誰も着弾させることができない。


 ウスミドリが神殿をチラリと確認する。

 実質的な指揮官不在で始まった戦闘は混戦模様を呈しているが、まだ神殿に侵入された形跡はない。

 ウスミドリの撹乱によってまともな援護射撃を受けられないアヤメ派のメイドたちは、神殿やその残骸の遮蔽物を盾にスイレン派が乱射するショックガンの雨を攻めあぐねている。


「この作戦は大当たりやな。ウチ、もしかして英雄なんちゃう?」


 ウスミドリは悪役然とした笑みを浮かべると、空中から声を張り上げる。


「ハッ! このヒイロ様たった一人に手も足も出ないようだね! 今アタシらに靡けば命くらいは……」


 彼女が上機嫌で威勢の良い言葉を滑らせている途中、突然爆音が鳴る。


「がふぉっ!?」


 空中でもろに爆風を受けたウスミドリは、水流のコントロールを失い、奇妙な軌道を描きながら地面へと墜落していく。

 数人のメイド達が彼女の墜落地点へと駆け出していく。


「言った通りだったろ! 点で捉えられなきゃグレネードで範囲攻撃すりゃいいって!」

「偉そうに言いやがって! あと一秒投げるの遅かったらアタシらごと吹っ飛んでたぞ!」


 地面にしたたかに打ち付けられたウスミドリは、メイドたちの声を遠くに聞きながら、呻いていた。


「うぅ……」


 ウスミドリは、朦朧とした意識の中で考える。


「ウチ、ノリでここまでついてきたけど、なんでこんな辛いことせにゃあかんのやろ……製造されてすぐワカバのフリさせられて、アイジロに捕まって、解放されたと思ったら今度はヒイロに捕まって……」


 ウスミドリの視界がだんだんとはっきりしてくる。

 対象発見、と叫ぶメイドの声も、より明瞭に聞こえてくる。


「それから美紙がうちのプロンプトを解いてくれて、アイジロが初めてウチのことをウスミドリと呼んでくれて……。せやった。ウチはウスミドリとして生きられるのが嬉しかったんや。ヤマブキの計画もアイジロの願いも美紙の昔話も、ウチにはよう分からん。けどな、ウスミドリとして頼ってくれる連中がおるなら、それでもうええやんか」


 彼女が上体を起こすと、視界の先にはアサルトライフルを構えるアヤメ派の小隊がいた。


「やっぱりヒイロの偽物だな。家事スキルに多少恵まれただけでたいした実力もないくせに、よくもまあ大ぼら吹いたもんだ」

「実力に自信あったらなあ……こんな詐欺まがいせえへんわ。ドアホ」


 ウスミドリは地面に手をついたまま、銃口を向けるメイド達に不敵な笑みを向ける。


「もうやめや。ウチの本当の顔は分からんけど、名前は紛うことなきウスミドリ。ワカバでもヒイロでもあらへん」

「何言ってるんだこいつ?」

「ヒイロじゃないならたいした情報も持ってないだろ。さっさと殺すぞ」


 メイド達が引き金に指をかける。

 しかしウスミドリは笑みを崩さない。


「家事スキルに恵まれた言うんは、ホンマその通りや。こういうこともできるんやからな」


 アヤメ派のメイドたちの足元の地面がボコッと盛り上がる。


「な、何だ!?」


 彼女たちが訝る暇もなく、間欠泉のごとく水流が噴き上がる。

 一本、二本、三本と。

 その凄まじい勢いに弾かれたメイドたちの身体は、吹き飛んで地面をゴロゴロと転がる。


「美紙が言うとった。このあたりは地下水脈がぎょうさん通っとるとな」


 異変に気づいて新たに駆けつけてきたメイド達の足元からも、次々に噴流がほとばしる。

 メイドの身体とアサルトライフルが、次々に宙に舞う。

 ウスミドリは立ち上がって両手を前方にかざす。


「覚えとき! 戦場に刻まれるウチの名前はウスミドリや! 家事スキルは水圧顎(シャワーヘッド)! 伊達やないで!」


 彼女の両手から、特大の水流弾が放たれた。





「駄目です、バルブが掴めません!」


 アイジロの溶解して凝り固まった手は、バルブを掴みあぐねていた。

 作業を再開するには噴き出す高温の腐食性ガスを一旦止める必要がある。


変幻車(ソウゲイシャ)の能力で再生できたりはしないの?」美紙が尋ねる。

「分解と再構成はできます。けど、完全に変質した部分は変形すら……」

「じゃあ手以外の場所を手のように変形させることはできない? 要は掴んで回せればいいのよ」

「回せばいい? なるほど、試します!」


 アイジロは両手首から先をゴトンと床に落とすと、腕の先端を錐のように変形させて回転させ、バルブの中心に穴を穿つ。

 やがてカチャリという音が響いたかと思うと、バルブ全体が回転しだす。

 パイプから漏洩していたガスの勢いがどんどん弱まっていく。


「ガスが止まりました!」

「了解。次はパイプを修理しないといけないけど、別のフロアに今使ってない同じ規格のものが……でも結局出てくる蒸気に腐食ガスが混じってるとまた別の部分が壊れるかもしれないし……どうすれば……アヤメ派はもうすぐそこまで来ているのに……」

「美紙。私気になることがあるのですが」

「え?」

「発電というのはタービンというものを回せばよいのですよね」

「ええ、原理はそうだけど……」

「では今のバルブと同じ原理で直接回せばいいのではないですか」


 アイジロは自分の腕を電動のこぎりに変形させると、タービンが格納されている鋼の箱の側面に切り込みを入れ始める。

 耳をつんざくような接触音とともに火花が散る。


「ちょ、ちょっと待ってアイジロ! タービンの回転に必要なトルクはさっきのバルブとは比べ物にならないわよ!?」

「やってみれば分かることです!」


 アイジロは切り取られた箱の側面の中心にドリルで穴を開けると、板ごと持ち上げて床に放り投げる。

 その中には、錆びた銀色の巨大な羽根が、太い回転軸の周りに放射状に取り付けられている。

 アイジロはタービンの回転軸の先端に向かって錐のドリルを差し込む。

 アイジロの腕と回転軸が、一直線に接続される。


「回ってください!」


 アイジロが腕に力を込める。

 彼女の肘が微かに回転するが、巨大な羽根をまとった怪物はとても動きそうにない。

 アイジロは床を踏みしめてさらに踏ん張るが、調子外れの駆動音がギューンと鳴るだけだ。


「ぐぬぉぉぉ!」

「アイジロ、やめて! あなたの腕がもたない!」

「大丈夫です! 手応えがある! いけます!」


 アイジロが歯を食いしばると、タービンが徐々に重々しく回転し始める。

 モーターの回転音がさらに高くなる。

 タービンの回転数が徐々に上がる。

 美紙はモニターの発電量のゲージを見ながら唸る。


「発電量が僅かだけど回復してる……この調子で行けばもしかしたら……」


 だが次の瞬間。


「あああ!」


 アイジロの絶叫とともに、ゲージが一気にゼロになる。


「どうしたの!?」

「く……! 美紙の言う通りでしたね……。腕が千切れました」


 床にひざまずいているアイジロの視線の先には、彼女の肘から先だけが突き刺さったタービンが鎮座している。


「アイジロ、もう誰かに交代しましょう!」

「美紙。私はあなたの子供を見たい。出産というものを見てみたい」

「え?」


 突然の話題転換に美紙は困惑するが、アイジロは構わず話し続ける。


「私、ずっと考えてたんです。どうしてメイド社会は仲間の死に対するまともな向き合い方を知らなかったのかと。それはたぶん、生まれた時に誰も祝福してくれないからだと思うんです」

「ごめんなさいアイジロ、何の話?」

「私達は製造されて起動したら即座に配属先を指示され、一時間以内には任務につきます。誰もこの世界に生を受けたことを喜んではくれない。だから死も同じようにぞんざいに扱われるか、逆に過剰に神格化されてしまったりしたんじゃないかと思うんです。私はメイドも人間のように誕生を祝われるのが当たり前の世界が良い。あなたの出産に立ち会って、誕生というものの尊さを知りたい」

「アイジロ、あなたの気持ちは分かったわ。でも今はあなたの負傷を……」

「大丈夫ですよ。言ったでしょう。確かに手応えはあったんです」


 アイジロの目線の先のタービンには、異変が起きていた。

 腕が刺さった軸を中心に、赤錆た鈍色のタービンが、白く塗り替えられていく。

 それはアイジロのボディと全く同じ配色だ。

 あっという間にアイジロ色に塗り替えられたタービンは、おもむろに回転を再開し、加速していく。


「電力量が……また回復して……」

「さっきバルブに腕を差し込んだ時、体の芯とつながる感覚がありました。私、あの時自分の体は回転させてないんですよ。バルブ側が動いたんです」

「信じられない……。変幻車(ソウゲイシャ)は周囲の物体にまで拡張できるの?」

「神の奇跡ですよ。気合さえあれば、奇跡は起きるんです」


 ゴーと低い音を立てて回転数を上げていく白色のタービンは、美紙の眼の前のモニターのゲージを灰色から緑へと塗り替えていく。


「これだけの電力があれば……通信ができるわ!」


 美紙は慌ただしく端末を操作し始める。

 立ち上がったアイジロは、周囲の打ち捨てられた機械の一つに、両腕に発生させたドリルを突き刺す。

 みるみるその機械が白く変色し始める。

 彼女が腕を抜き取ると、そこには指先まで完全に復旧したアイジロの両手があった。


「では戻ります。私の優先任務は妊婦のケアですから」





「これでいいわ……」


 椅子の背もたれにもたれかかった美紙は、どっと息を吐いた。

 既に真実の送信は始まった。

 帯域が極めて限られているため、メイド一人あたりに送れる情報量は少ない。

 記録媒体を直接差し込んだ時に比べると、時間あたりの情報量は少なくなるから、今は軽い頭痛がする程度だろう。

 だが、五分もすれば記憶の違和感に気づくはずだ。

 そうすれば、アヤメ派のメイドも混乱して攻撃も鈍るだろう。


 窓の外からは、爆発音、銃声、メイドの悲鳴が断続的に聞こえてくる。

 その中にあって、一旦の役割を終えた美紙は妙に静かな心持ちだった。


「紡は……他にどういう日記を残したのかしら……」


 夫とは言え、他者の日記を覗き見ることへのやましさもある。

 この作戦に必要なわけでもない。

 だが、彼女の端末をスワイプする指は止まらない。


「……? これ、どういう……?」





「あのヒイロの偽物……思った以上の逸材だったようだな」


 屋上から戦況を眺めるアサギの視線の先には、アヤメ派の後方部隊をたった一人で翻弄し続けるウスミドリの姿があった。

 彼女が走るところ何本もの水柱が立ち、一度飛べば空中から滝のような水流弾を浴びせる。

 神殿を取り囲んでいたアヤメ派のメイドたちも、後方支援を受けられず後退気味だ。


「全く誤算ばかりだ。先程から頭が微妙に痛むのもお前たちの仕業か。あの忌まわしい創世記を流し込んでいるのか。おまけに……」


 アサギはヤマブキに振り向くと、蛇蝎鋏(エダキリバサミ)をヤマブキに向けて放つ。

 その鋭利な牙は、暖簾に手を押すようにヤマブキの身体に吸い込まれるだけだ。

 アサギは素早く蛇蝎鋏(エダキリバサミ)を巻き取る。


「お前は私がどれだけ求めても、それを透かそうとする」

「アサギ。降参なさい。わたくし達は決して好んで殺しをしない。あなたの処遇をどうするかは落ち着いて決めます」


 ヤマブキが銃をアサギに向けると、アサギは脱力したように笑う。


「ヤマブキ。お前はいつも私より一枚も二枚も上手だ。だがな、武人のカンというものも捨てたものではないぞ」





 窓ガラスがバリンと割れる音で、紡の日記を読む美紙の集中は突如として破られた。

 窓から侵入してきていたのは、ボロボロに損傷し、根本から千切れた蛇蝎鋏(エダキリバサミ)だった。

 ヤマブキがさきほど爆破した名残だ。

 それは蛇のようにくねらせて床を這い進んでくる。


「い、いや!」


 美紙は一目散にデスクの裏側に隠れる。

 こっそり様子を伺うと、蛇蝎鋏(エダキリバサミ)は美紙に気づいている様子はなく、フロアの中央で静止し、頭部の鋏を天井に向けた。

 一気にワイヤーの身体を伸ばすと、天井に鋏を食い込ませる。


「この上って、ヤマブキのいる屋上よね……?」


 



「あぐぅ!」


 苦痛の叫びを上げたヤマブキにとって確かなのは、自分の足の裏を食い破られた感覚だけだった。

 彼女の右足の芯に激痛がほとばしる。

 ヤマブキは手にしていた銃を手からこぼし、思わずその場にうずくまり、右足を抱える。


「床の下から……蛇蝎鋏(エダキリバサミ)を……」

「武人は相手の弱点を推測しない。ただ観察する。お前がなぜずっと踵を極力上げずに移動するのか、気になっていた。地に足をつけて立たねばならない以上、足の裏だけは位相籠(カイモノカゴ)で覆うことはできないようだな」

「ぐっ……!」


 ヤマブキは右足の内部に位相籠(カイモノカゴ)を発動し、刺さっていた蛇蝎鋏(エダキリバサミ)を引き抜いてその場から後退りする。

 だが、次の瞬間にアサギが放ったもう一体の蛇蝎鋏(エダキリバサミ)が彼女の両足に何本も突き刺さる。

 ヤマブキはたまらずその場に倒れ、声にならざる声を上げる。


「い゛、い゛い゛……!」

「痛みで集中が切れたな。家事スキルのコントロールがお粗末だぞ。まあ戦闘の素人に指導することではないがな」


 ワイヤーがズルズルと巻き取られ、ヤマブキを引きずり始める。

 ヤマブキはもがいて空を掴むだけだ。


「お前を確保し私がひとたび戦場に戻れば、あの程度の劣勢など容易くひっくり返せる。心外だ。心外だったぞ。この私が降参を勧められるなどとは」


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