ヘンゼルとグレーテル
アサギが目を開けると、そこには薄れゆく煙幕だけがあった。
ヤマブキの姿はどこにも見当たらない。
「なぜ姿を隠す。お前が待ち望んでいた出世が眼の前にあるというのに」
アサギは近くの部下を呼びつける。
「ヤマブキを捜索しろ。気が立っているからあまり刺激しないように……」
アサギが言いかけると、爆発音が鳴り響く。
お台所から煙が上がる。
「ヤマブキ、まさかおまえか……!? 何を血迷っているんだ……!」
アサギ達がお台所に駆けつけている頃。
ちょうどその反対方向にある、アイジロやヒイロが使った防壁の抜け穴の前に、ヤマブキはいた。
彼女の手には起爆スイッチが握られている。
「何かあったときのために、前々からお屋敷の至る所にC10爆弾を仕掛けておいた甲斐がありましたわ。残りはまた別の機会にとっておきましょう」
彼女は起爆スイッチを位相籠にしまうと、抜け穴をくぐる。
「美紙はどっちへ……」
ヤマブキが見回すと、そこは荒野だ。
ところどころに旧世界の瓦礫が野ざらしになっている。
「あれは……」
ヤマブキが大地に黒い点を見つけて駆け寄る。
拾い上げると、それは黒焦げの焼き魚のかけらだった。
周囲を見回すと、さらに前方にも黒焦げのピースが落ちている。
どうやらそれが点々と続いているようだ。
「フフ、人間というのは面白いことを思いつきますのね。美紙」
ヤマブキは、その黒い点列を辿っていった。
いったいどれだけ歩いただろうか。
もはや振り向いてもお屋敷の影はない。
荒涼とした平地の中に続く焼き魚の道は、まだ続いていそうだった。
「美紙、この様子だと一口も食べられていませんわね……。大丈夫かしら」
その時、彼女の前方に鳶が舞い降りる。
鳶は焼き魚を啄んで持ち去ろうとする。
それに続いて、次々に新手の鳶が下降してくる。
「やめなさい!」
ヤマブキは走って鳶たちを追い散らす。
しかし鳶はヤマブキの死角に次々に降下して焼き魚を喰らおうとする。
苛立ったヤマブキは、位相籠から銃を取り出すと、天に向かって空砲を撃つ。
その音に驚いて、鳶たちは空へと舞い戻っていく。
「はあ……一体わたくしは何をしているのかしら」
座り込んだヤマブキは、力なく自嘲する。
「何もかもうまくいきませんでしたわね……。あの時と同じ……」
ーーヤマブキは回想する。
「ヤマブキ! キミ、このままだとフジのお屋敷に飛ばされるって!」
深いオレンジ髪のミディアムヘアのメイド、コハクが、廊下でヤマブキを呼び止める。
「フジですって? 確か、ウグイスとかいう誰からも良い評判を聞かないメイド長がいるところですわよね。それは確かですの?」
「メイド長会議の書記にこっそり教えてもらったんだ。この前ヤマブキがメイド長のハシバミをコテンパンに論破したせいで、恨み骨髄だってさ!」
「聖典の矛盾を指摘しても何一つ答えられない方が悪いじゃありませんの。この教義はどう考えても真実ではありませんわ」
「分かるけどさ、事なかれ主義のご奉仕係に何言ったって無駄だよ」
「どうせ左遷されるなら、今のうちにやっておきたいことがありますわ」
「もしかして……ハウスキーパーの書庫に?」
「ハウスキーパーは絶対に何かを隠していますわ。真実を暴いて広めてやりましょう。茶番と化しているこの世界を変えるのです」
真実を窃盗する試みは、翌日決行された。
「わたくしはこちらの棚を見ていきますわ」
「ボクはこっちを探すよ……あれ、何だろこのスティック」
「この先端の形状、どこかで見覚えがありますわね」
「確かに。何だっけこの差込口みたいなの。この辺まで出かかって……がぁ!」
「コハク!?」
「ヤマブキ、コハク、すまない。やはりこれは黙って見過ごせない」
「コハク! しっかりなさい!」
「アサギぃ! お前ぇ……!」
「ハウスキーパーに逆らうことはできない。悪く思うな」
「殺されてたまるか! クソ!」
「コハク! そんな負傷でどこに行きますの!? 待って!」
「ヤマブキ。追うな。私以外の追っ手もいる。お前まで傷つけたくない」
「アサギ! どきなさい! そこを! どいて! コハク! どこへ行くのです! コハク!」
ーー回想を終えたヤマブキは、朝空を眺めながら呟く。
「この世界の茶番を変えられないのなら、せめてハウスキーパーになって茶番を仕組む側になろうと思った……。数え切れないほどの同僚の死骸をプレゼントにして、あの心底見下げ果てたウグイスに取り入って……美紙が現れて、ついにハウスキーパーへの道が開けたと思った……」
ヤマブキのなおも続ける。
「思えば、美紙が来てから全てが変わってしまいましたわ。わたくしは昨日昇進したかと思えば今日は流浪の身……。アイジロは狂い、コンネズとウグイスは呆気なく殺され、アサギは獣の本性を現した……。ずっと変わらないと思っていた世界が、音を立てて変わっていく……」
ヤマブキは、ゆっくりと立ち上がる。
「ああ。わたくしは本当に何をしていたのでしょう。あの日得られなかった真実が、この狂った世界をリセットできるかもしれない唯一の鍵が、美紙という姿で現れたというのに。美紙、簡単にくたばるんじゃないですわよ」
「死ぬ! 死ぬわよこれ!? 一滴でも肌に触れたら三度熱傷よ!? 摂氏千六百度あるのよ!?」
「走馬灯や! 製造されて一晩やのに走馬灯が見えとる!」
トリカブト派の地下工場(彼女たちの用語でも「お台所」だ)。
クレーンに吊り下げられた美紙とウスミドリが、燃えたぎる溶鉱炉の上で喚き散らす。
運転室のヒイロの手には、クレーンのレバーが握られている。
「さあ吐きなよ。弾薬が急に増えた理由。この緑髪が生きてる理由」
「洗いざらい喋るって言ってんでしょ!? 弾薬の増産は私の指示! この子は頭部だけ死んだメイドで、中身は別人!」
「ふーん、あくまで口を割らないなら……ってえ? 喋っちゃうの?」
「最初からそう言ってるわよ! 下ろしなさい!」
「えー、張り合い薄っすいな〜。これも楽しみの一つなのにさ」
ヒイロは不満そうに口をとがらせると、クレーンを操作して二人を床の上に下ろす。
自由の身になった美紙は周囲を見回す。
そこはベルトコンベアのラインが複雑に組まれた自動工場だ。
「あなたの目的はこの工場で兵器を増産することでしょ? 協力するわよ。命が保証されるなら」
「うちも何でもする! せやから命だけは!」
「話早いな。なんかこう、裏切りへの葛藤とかないわけ?」
運転席から降りてきたヒイロが困り眉を作りながら言う。
「私はアヤメ派の人間じゃないもの。生き残るためなら何でもするわ」
「あんな頭おかしい連中、金輪際ごめんや! これからはトリカブト派のウスミドリでよろしう!」
「なんか変なの連れて来ちゃったな……。まあファミリーに入りたいなら歓迎するよ。うちはアヤメ派に嫌気が差して逃げてきた連中が大半だからね」
ヒイロは近くの作業台からホットナイフを見つけ出すと、ウスミドリの座っている床に軽く投げる。
「じゃ、それでエンブレムを消しな」
「は? どういうことや?」
「ここだよここ」
ヒイロは自分の肩を指差す。
そこには十字型の傷がついている。
「メイドは製造された時に左肩にエンブレムがプリントされてる。これを自分で削り取るのが通過儀礼だ。ここで見ててやるから削んなよ」
「嫌や! ただでさえ頭痛いのに何で別の痛みをおかわりせにゃあかんねん! マゾヒストちゃうぞ! ウチはもうアヤメ派に戻る!」
「お前、随分自由だね……。まあアタシに忠誠を誓う気がないなら、一生この地下工場で慎ましく労働してもらうしかないね」
ヒイロがやれやれと両手を広げると、美紙が周囲を見回しつつ言う。
「ここ、鳥兜重工の工場跡地ね……。メイドを生産する設備もあるの?」
「あるけど?」
「この子のプロンプトを解除してあげたくて。工場を案内してもらえる?」
「まあたんまり兵器作ってくれんならそれでいいよ。ほい、オープン」
ヒイロが壁のスイッチを押すと、シャッターが開く。
そのシャッターの先には、さらに巨大な工場区画があり、メイドたちが無言で働いている。
全てのメイドは足枷と鎖をはめられており、皆魂の抜けた顔で作業している。
「ここは捕虜や受刑者が死ぬまで働き詰めるためのお台所さ。せいぜい働きな! フジのお屋敷の連中を皆殺しにするまでは生かしてやるからさ!」
「何ですのこの妙な機械は……」
ヤマブキは、岩壁のふもとで首を傾げていた。
焼き魚のカスを追ってたどり着いた切り立った崖のふもとには、電卓のような機械が設置されている(と言っても彼女たちは電卓を知らないが)。
ヤマブキが適当にボタンを押すと「生体認証は現在オフになっています。
パスワードをご入力ください」とアナウンスが流れる。
「パスワード、とは……? プロンプトとは違うんですの……? こんなことなら美紙から失われた技術についてもっと色々聞いとくんでしたわ」
ヤマブキが考えあぐねていると、後方からエンジン音が鳴る。
ヤマブキが後ろを振り向くと、荒野の砂塵を巻き上げながらバギーが向かってくる。
「アイジロ!? わたくしを追って!?」
ヤマブキは近くの手頃な茂みに咄嗟に隠れ、身を低くして息を殺す。
どうやらバギーはヤマブキに気づいた様子はない。
それは一直線に崖下の入力装置へと向かっていく。
停止したアイジロは、人型に変形する。
頭部は相変わらずコハクのままだ。
彼女は無言で入力装置のボタンを押す。
プシューという音とともに、岩の扉が勢いよく開く。
彼女はまたバギーに変形すると、中へ進入していく。
「アイジロ、発狂のあまりトリカブト派に寝返りを……? いえ、彼女ならトリカブト派に降るくらいなら死を選ぶはず……。とにかくいま結論は出せませんわ」
ヤマブキは抜き足差し足でアイジロの後を追い、扉が閉まる直前に滑り込む。
中は洞窟だった。
扉が閉まると、ほんの僅かな照明だけがあたりを照らす。
アイジロの姿は既になく、洞窟の奥からエンジン音が微かに響く。
「アイジロに先に美紙を見つけられると厄介ですわね。急がねば」




