Ⅲ.魔女服の罠
ルドさんはどうして、ここまで親身になってくれるんだろう――
一人きりの空間で、泡立て器を握る手を止め、ぼんやりとクリームの白を見つめる。
気づけばまた、同じ疑問に行き着いていた。
最初から、謎の多い人だった。
視界が塞がれていても、そのことを欠片も感じさせないほどの身のこなし。
武道に長けていて、さらにはハロウィン祭の出店許可証まであっさり取ってきてしまう。
どう考えても、普通の人じゃなかった。
それなのに、どうして私なんかに……。
彼にとってのメリットなんて、どこにもないはずなのに。
――私が好き、とか?
頭の中に浮かんだ瞬間、顔が一気に熱くなった。
「な、ないないないっ!」
思わず大げさに首を振り、両頬を手で挟み込む。
天井を仰いで「落ち着け、私!」と心の中で叫んだ。
いくらなんでも、それは夢見がちすぎる。
天と地がひっくり返ってもありえない。
ルドさんは例えるならば、絵本から抜け出した王子や騎士のような完璧な人。
そんな彼が田舎の冴えない娘に惹かれるだなんて、奇跡どころか幻だ。
「……集中、しなきゃ」
小さく呟いて、頬を軽くぺちんと叩く。
けれど、その頬はますます赤くなるばかりだった。
◇ ◇ ◇
作業に没頭するあまり、ハロウィンの仮装準備をすっかり忘れていた。
ハロウィン祭では毎年、仮装して参加するのが暗黙のルールとなっている。
過度な衣装は求められないが、手を抜けば逆に浮いてしまう。
気づけば祭りは目前。新しく買う時間も、もちろん予算もない。
ダメ元で物置を漁ると、懐かしい布の感触が指に触れた。
両親と一緒に参加していた頃の、魔女風の黒いワンピース。
「さすがに……この歳じゃ、きついかな……」
それでも一縷の望みに賭け、そっと袖を通してみる。
ひやりとした布地が肌をなぞり、昔より少し変わった体の線をなぞった。
「……う、ん……入った、けど……」
布は伸びきり、少しでも動けば裂けそう。
背中のファスナーは悲鳴を上げ、ウエストのリボンは息苦しいほどに食い込む。
「う、うぅ……やっぱ無理……!」
諦めて脱ごうと両腕を引き抜く……が、今度は肩が引っかかってしまい、まったく動かない。
視界は布で覆われ、呼吸が熱くこもる。
完全に身動きがとれなくなってしまった。
と、その時――
コツ、コツ……と、扉を叩く音がした。
間を置かず、低く落ち着いた声が耳に届く。
「……ニーナさん? いないんですか?」
――あ、戸締まり、してない。
「ル、ルドさんっ……た、たすけて……!」
「……!?」
急ぎ足の音。
扉が開き、駆け込んできたルドさんが目にしたのは――パツパツの衣装に身を詰め込み、両腕を宙に上げたまま動けない私。
「っ……一体、何を……」
「ぅぅ……ぬ、脱げないんですぅ……!」
息を乱しながら訴えると、彼は短くため息をつき、距離を詰めてきた。
その足音に合わせて、わずかに香るコーヒーのような匂い。
「……引っ張りますよ」
「お、お願いします……!」
袖口に触れた彼の手は、思ったより熱くて大きい。
その熱が、布越しに腕から肩へと伝わってくる。
「せーの……」
スポン、と音がして一気に解放される。
空気が肌に触れた瞬間、全身の血が一気に巡るのを感じた。
「はぁっ……助かりました、ルドさ――」
言いかけて、彼の視線に気づく。
わずかに逸らされたその顔は、頬が薄く赤い。
そこで、ようやく自分の格好を思い出す。
乱れた髪に熱を帯びた頬、そして――下着姿。
「っ、ご、ごめんなさい!」
慌てて腕で体を隠すと、彼は無言で自身の上着を肩に掛けてくれた。
その布越しに残る、彼の手の温度が逃げない。
「……もし、今ここに来たのが私じゃなかったら?」
「え……?」
「女性ならまだしも、あの日、店で暴れていたような男だったら……どうしたんですか?」
喉がひくりと動く。
答えられない私に、彼は視線を落としたまま続けた。
「……お客さんが少ないからって、気を緩めすぎです」
「……」
静かな声。けれど、その奥に冷たい刃のようなものが潜んでいた。
「……少しは、身をもって知ったほうがいい」
頬をかすめる、ひとすじの熱。
撫でるようでいて、境界を探る指先が、あまりにもはっきりと肌に残る。
「こんなふうにされても……文句は言えませんよ?」
吐息がこぼれ、耳の奥まで届く。
視線が絡み合い、逃げ場を失う。
その奥にある光は、冗談めいているようで、決して軽くはない。
「……私は言いましたよね。あなたを襲わないという保証は、どこにもないと」
声は低く、柔らかい。
それなのに、胸の奥をかき混ぜられるようで抗えない。
笑うべきか怒るべきか――その境界線は、霧のように溶けていく。
首筋に落ちる視線が、熱を孕んで這い上がる。
背筋を伝うその感覚に、息が詰まった。
「……もっと危機感を持ってください。じゃないと、次は……こんなものじゃ済みませんよ」
耳まで熱くなる。
喉はきゅっと締まり、言葉は出ない。
胸の奥で鳴る鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
――やっぱり、この人はずるい。
危うくて、優しくて、そして、どこまでもかっこよくて。
その余韻は、しばらく消えなかった。




