Ⅱ.救世主
ハロウィン祭に向けて、本格的な準備が始まった。
朝から晩まで厨房にこもり、焼いては飾り、試作を繰り返す。
町では噂のライバル店が派手な宣伝で人々の視線をさらっているというのに、こちらは材料も時間も、そして人手すらも足りていない。
結果を出せなければ、両親が残したこの店は本当に潰れてしまう。
瀬戸際に立たされた状態で、私は必死に手を動かし続けていた。
「かぼちゃペースト……あと三分の一……」
独り言は、もはや癖。その声は、どこかかすれて頼りない。
それでも、手を止めることはしなかった。
通常業務と並行しての作業――限界は、とうに超えていた。
「あっ……!」
視界がぐらりと揺れ、手の中の皿が宙を舞う。
白いクリームが弧を描きながら落下する光景は、まるでスローモーションのように感じられた。
「――今度は、どこへ投げるおつもりですか?」
世界を静止させたのは、低く響く声の持ち主。
皿が床に落ちるより早く、私の身体は強い腕に抱きとめられ、ケーキごと器まで易々とすくい上げられていた。
一瞬の出来事に、胸の鼓動は爆ぜるように鳴り響く。
広い胸板から伝わる体温、石鹸とコーヒーが溶け合った香り。それらが鼻先をかすめるたび、理性が危うく揺らいでいく。
……やっぱり、この人は人間じゃない。
颯爽と現れては、難なく他人の窮地を救ってしまうのだから。
「ル、ルドさん……!」
「顔色が悪いですね……まさか、寝ずに作業していたわけではありませんよね?」
至近距離で見下ろされ、その瞳に呑み込まれる。
喉が詰まり、返事が遅れた。
「ど、どうしてここに……?」
「これを届けに来ました」
差し出されたのは、金色の封蝋が押された一通の書状。
封を切ると、《ハロウィン祭 出店許可証》の文字がはっきりと刻まれていた。
「ほ、本物……!」
「疑っていたんですか?」
冗談めいた声に、思わず首を振る。
胸を締めつけていた不安が一気にほどけ、嬉しさが全身に駆け巡った。
歩けばスキップでもしてしまいそうなほど。
「本当に……本当に、嬉しくって……!」
証書を何度も見返すたび、肩の重みが剥がれ落ちていく。
ただの紙切れなのに、実物を手にしただけで、心持ちは大きく違った。
「ルドさんは、まるでヒーローですね」
「ヒーロー?」
「いつも助けてくださるから。物語の救世主みたいに」
自然と笑みが溢れる。
「あ、今日はお時間ありますか? ずっとお礼がしたくて……よければケーキでも」
「それはとても魅力的なお話ですが……」
彼の瞳が、わずかに鋭さを帯びた。
「ニーナさん、あなたは今すぐにでも休むべきです」
「え?」
「焦る気持ちは分かりますが……今の状態で、納得のいくお菓子が作れますか?」
「それは……」
「ハロウィン祭、成功させたいんでしょう?」
図星を突かれ、言葉が喉に詰まる。
「でも、お店を休むわけには……」
「それなら私が店番をしましょう」
驚く私を見て、彼は目元をやわらげた。
「安心してください。壊したり盗んだりはしません。……ただ、信用できないというのなら話は別ですが」
「そ、そういう心配はありません!」
思わず声を張り上げていた。
私がルドさんを疑う理由なんて、どこにもない。私はもう、すっかり彼を信じてしまっていた。
だからこそ、ルドさんの申し出はありがたいけれど、やっぱりそこまで甘えてはいけないと、断ろうとした。
けれど――彼はふと視線を伏せ、低く呟く。
「……訂正しましょう。私が“あなたを襲わない”保証は、どこにもありません。それでも、信じますか?」
「え……?」
数秒の沈黙。絡み合う視線。
やがて彼はふっと笑みを浮かべ、軽く私の背を押した。
口にしようとした言葉は消え、意味を飲み込むより先に、休憩室へと送り出される。
扉が閉まると同時に、限界を迎えた身体が椅子に沈み、まぶたが落ちた。
真っ白になった頭では、もう何も考えられなかった。
最後に胸をかすめたのは、あの含みを帯びた声だった。
◇ ◇ ◇
少し横になるつもりが、思いのほか深く眠ってしまっていた。
店に戻れば、すでに太陽は傾きかけていて――
「……完売?」
ショーケースは空っぽ。誇らしげに揺れる「売り切れ」の札が、夢みたいに映る。
カウンターの奥では、ルドさんが静かに笑んでいた。
「おはようございます。休めましたか?」
「は、はい……それより、ルドさん……これ……」
「最初にご来店されたマダムが宣伝してくださったようで、助かりました」
「そ、そのマダムって……口元にホクロのある、お喋り好きの方ですか?」
「えぇ。あなたが不在なのを心配されていましたよ。ずいぶん慕われていますね」
「常連さんなんです……」
こんなふうに空っぽのショーケースを見たのは、一体いつ以来だろう。
もしかすると、両親が健在だった頃が最後かもしれない。
――ああもう。イケメンって、ずるい。
「ルドさんが、うちに来てくれたら……」
「……それは、婿入りをご所望ですか?」
「っ、は、はいっ!? ち、違います! そういう意味じゃなくて……!」
顔が一気に熱を帯び、まともに目も合わせられない。
どうしてそんなことを口にしてしまったんだろう。
お客様を呼ぶために彼を利用したいだなんて――卑しいにもほどがある。相手に失礼だ。
……でも、ほんの少しだけ。
もし彼がこの店に関わってくれるのなら、デイジーを立て直すきっかけになるのかもしれない。
とはいえ、それで店を守り抜いたと、胸を張って言えるのだろうか。
ルドさんの優しさに甘え過ぎている自分が嫌になる。
自己嫌悪とやるせなさに心が揺れる。
ルドさんは、そんな迷いを見透かしたように目元をやわらげた。
「残念。あなたのケーキが毎日食べられるなら、それも悪くないと思ったのですが」
一拍置いてからかうように告げられ、心臓が跳ね上がる。
恥ずかしさと気まずさで、今にでも逃げ出したい気分だった。
「か、からかわないでください! もう、忘れてください……!」
楽しげに笑うその表情。
――まるで、私の反応を観察して、わざと弄んでいるみたい。
「忘れろと言われても……あんなに慌てた顔、どうしても思い出してしまいそうです」
さらりと落とされた一言に、また心臓が跳ね上がった。




