愛しいあなたへ
体育館の壁には紅白の幕が張られて、壇上の奥の壁には『第75回 高山中学校卒業式』と掲げられていた。
もうすでにみんな着席していて、卒業生は少し丈の短くなった制服を着て静かに座っていた。在校生はその後ろだ。
さらにその後ろが保護者席だ。黒や紺色のフォーマルな装いなのに、各々自分の子供を撮るべく、スマホやビデオを手にベストポジションを探ってピントを調節しているのが、なんとなくミスマッチに感じる。
横の壁の前には、普段はジャージやラフな格好の先生方がピシリと黒いスーツやワンピースを着ていて、女性の先生は化粧がいつもよりしっかりめにしてある。
三年生の女性の先生は袴姿で、男性の先生はスーツの胸元にコサージュが飾られていた。
私は厳かな空気の体育館の、後ろの保護者席ではなく、卒業生の席に座る娘の前にそっとしゃがんだ。
少し垂れ目がちな優しい目は、小さな頃の面影がそのまんまだ。
しかし、真っ直ぐ前を見て、真面目な顔をして座っている娘は、背が私と同じくらいで、その顔も、もう子供の顔をしていない。
小さな頃はあんなにぷくぷくしていたほっぺはすっきりと締まり、輪ゴムをはめていたようにお肉とお肉の凹みのあった手首は細っそりしていた。
この子は人見知りが激しくて、私から絶対に離れなかった。
だから、幼稚園の時は苦労した。
毎朝わんわん大泣きして私の腕にしがみついていたのに、いつのまにか笑顔でお別れできるようになっていた。
悩む私に園長先生が、「木の実がストンと落ちるようにちゃんといいタイミングで離れますよ」と言っていたのは本当だった。
小学生になると、新しいお友達がたくさんできた。
ランドセルを置くと、すぐにお友達が遊びに来てうちで遊んだ。
相変わらず、私にべったりだったから、外に行くよりうちで遊ぶ方が好きな娘だった。
中学校は自転車通学だ。娘と自転車を並べると、自転車が大きすぎるように見えてちゃんと乗って行けるのか心配した。
ダボダボの真新しい制服を着て、娘は意外にスイスイ自転車を漕いでいた。
受験は大変だった。
のんびりした娘がやる気を出したのは、部活を引退してからだ。
夜食が作れない私は見守るしかできなかったけど、11時にはあっさり眠っていたから夜食はどちらにしてもいらなかったみたいだね。
受験の日、こっそりお守りに私の写真を入れて「受かりますように」って言ってたけど、ごめんね……お母さんにそんな力はありません。
そして、お母さんは一足早く結果を知っている。
まだ内緒だけど、合格しているよ!
コツコツ勉強したあなたの力だね。
私もとても嬉しい。
娘の顔を見ながら、つらつらといろいろなことを思い出していると、いつの間にか、長い祝辞と校長先生の話が終わっていた。
そうして、一人ずつ名前を呼ばれ、卒業証書を渡される。
娘の名前が呼ばれると、娘が「はい!」とはっきり返事をした。
恥ずかしがり屋の娘は、前日に部屋で返事の練習をしていた。
どれも同じ「はい」に聞こえたのに、娘にとっては違うみたい。何度も「はい!」と言っては首を傾げていた。
満足そうなその横顔は、どうやら練習の成果が出たようだ。
私は娘の横に並んで立ち、その横顔を見つめた。
校長先生から卒業証書を渡される時の娘は、緊張したような顔をしていた。
あ、今、返事だけでなく卒業証書の受け取り方の練習もすれば良かったって思ったね。
少しくらい間違ったって誰も気にしないのに、真面目な娘だ。
そんなところも愛しくて、思わず頭を撫でてしまった。
はぁ……あの小さかった娘が卒業だ。
涙がじわりと滲んで、今は鼓動を刻まない胸が熱くなる。
卒業式が終わると、娘がパパに手を振った。
雲ひとつない青空が広がり、桜の木には、白に近い薄ピンクの蕾が柔らかく綻びはじめている。
「ママ、見ていたかな?」
「もちろん見ていたよ」
パパが私の遺影を娘に見せた。
私はその遺影を見るたびに、その写真じゃなくて、もっといい写りの写真があったのに!と思う。
まあ、急だったし、パパは大雑把な人だからしょうがない。
娘が遺影の私をそっと抱きしめた。
もちろん、あなたのそばでずっと見ていたよ。
世界で一番大切な宝物。
夜空に瞬く星の数よりも、どこまでも広がる青い海よりも、もっともっとたくさん愛しいあなたへ。
卒業、おめでとう!
この作品に気づき、読んでくださりありがとうございました。