第4話 破滅の入口
6日目の朝――というより昼、桜に起こされて布団から出て、ぼくたちはまたいつもの暮らしを始めようとした。
だが昼食をとろうとした時、それはついに崩れた。
この頃ぼくたちには「ちょっと贅沢しよう」という魔法の言葉があった。その魔法を使うのが楽しかったぼくたちは、上等の食料と決めていたカップ麺を何度か食べてしまっていた。回数は覚えていないが、問題はそれではない。カップ麺を作るために、飲用の水を多く使っていたのだ。
空のペットボトルが台所の隅に並んでいたが、ぼくたちはそれを無視していた。残りのペットボトルの数も数えていなかった。ぱっと見て、まだある、と思ってそれで良しとしていた。
この日も早々と「魔法の言葉」を使ったぼくたちはペットボトルを手に取ろうとして――
そこで、初めて手が止まった。
少ない――
サッ――と、夢が覚めていく感じがした。
生じた沈黙は、重かった。
しばらくして、桜が「やっぱり、やめとこっか。ね、優くん。今日はカレーにしようよ」と言ったが、「やめとこっか」という言葉は、この暮らしをしていて初めて出た「不可能」を意味する言葉だった。
しかしそのカレーも、ぼくたちに「現実」を突き付けてきた。
湯煎をしようとポリタンクから水を出したが、タンクの中身は目に見えて少なかった。
ペットボトルだけでなく、ポリタンクもすでに空になったものが台所の目立たない場所に置いてあった。
ポリタンクの水は雑用と決めていたが、湯煎に洗濯に洗い物、さらに身体を拭くのにも使っていたため減りが激しかった。それでもたくさんあるからと、残りを気にせず使っていたのだった。
水が、もうまもなく尽きる――
その夢のような暮らしには絶対必要な、水が――
ぼくたちは現実を見ていなかった。一緒に暮らすことが楽しくて、もう人類社会は崩壊してしまったという現実を見ることができなくて――
いや違う、見たくなかったんだ。
見たくないから、見なかった。なまじ備蓄が多かったから、水も食料もたくさんあるように見えて――だから、見ないふりができてしまった。
いくら備蓄があっても、その暮らしを続けていけばいずれは尽きる――それは簡単に分かることだったが、それを考えたらふたりの楽しい暮らしは送れない。だからお互いそれを頭の隅に追いやって、絶対に考えないよう抑え込んでいた。
その日はとりあえず湯煎をしてカレーを食べたが、会話はなかった。ぼくは足りない水をどうしようか考えていたが、桜が何を思っていたかは分からない。
ぼくは、水道から補給しようと一瞬思って、すぐ頭を振った。
慣れというのは恐ろしい。蛇口をひねれば、欲しいだけ飲める水が出てくるという考えがまだ頭の中に残っていたのだ。
食事の後は皿を流しに置いたが、洗い物はやめておいた。これはこの暮らしで二番目の「不可能」であった。狭い流しでふたりでする洗い物は楽しかったが、その夢がはじけて消えたのを思い知った。
洗濯もやめ、身体を拭くこともその日はやめた。2日に1回にしようと決めたが、今考えればそれでもだいぶ甘かったと思う。
これで「不可能」は4つに増えた。どの作業も、ぼくたちが楽しみにしていたものだった。
仕方がないのでトランプをして遊んだが、ふたりとも上の空だった。ぼくはもうルールを忘れたふりができなかった。
トランプをやめてオセロに変えたが特に意味はなかった。いちおうゲームは進んだが、勝って喜ぶ桜の様子はとても嬉しそうには見えなかった。
どこまでもこそばゆい桜の布団、洗濯や「入浴」で桜が見せた無防備さへの胸の高鳴り、桜の吐息が肌をなでた時のくすぐったい感触――ふたりで暮らして感じたこれ以上なく幸せな気持ち。
その全てが、もう感じられなかった。桜は、まだすぐ目の前にいたのに。
桜は、今思えばどこかおかしかった。水が足りなくなってからではない。ふたりの暮らしを始めた時からだ。
学校にいた頃の桜は優しいだけではなくて、頭がよくしっかりしたひとだった。それがどういうわけか、ふたりで桜の家に入った瞬間からおかしくなった。優しいのは変わらなかったが、あのしっかりしていた桜が備蓄の残りを把握もせず、特に水を多く使う洗濯を、毎日やったのはおかしかった。
たぶん、桜は夢を見ようとしていたのだろう。ぼくと同じように。
せっかく会えたふたりで、誰からも邪魔されずにじゃれあいながら送る日々――その甘くて楽しくて幸せな日々が、いつまでも続くと思いたかった。覚めると分かっているそんな夢を、覚めないと信じ込んで見続けようとした。
ふたりで暮らしている間、桜はどんな夢を見ていたのだろう。
それは――ぼくと同じ夢だっただろうか。
オセロもやめてなんとなく畳の上に手足を伸ばしたが、あまり気持ちよくはなかった。どうすればもっと桜と暮らし続けられるかを考えていた。この時ぼくは、まだ夢の続きが見られると思っていた。
桜は急にぼくの方を向いたが、その表情は悲痛そのものだった。桜は洗濯や洗い物などを提案して水を無駄遣いしたことをぼくに謝った。そしてぽろぽろと、涙を流した。
確かに、提案したのは桜だった。桜だけが負うべき責任ではない。一緒にやっていたぼくだって、それくらい分かるはずだったのだから。
その事を伝えはしたが、桜は「優くんは悪くない」と言って、自分が悪かったと謝り続けた。
そんな桜の姿を見るのは、初めてだった。
それまでの5日間の暮らしで毎日、目を覚ましてから夜の闇に包まれるまで、ずっと見ていられた桜の笑顔――それをどうにか取り戻したい。
そう思って――
そしてついに、ぼくは破滅の扉を開いてしまった。
・・・・・・
「だめ、絶対行っちゃだめ!」――桜は強硬に反対した。
ぼくは飲料水の確保のために、あの警察署へ侵入することを考えたのだ。
警察署内で錯乱患者が発生したのは突然だった。その日の朝はのんきに食料の配給を行っていたくらいだった。警察は配給用の水や食料を署内に保管していただろう、そしてその残りはおそらくそのまま置いてある、それを取ってくれば――そう考えたのだ。
桜は、署内は絶対に錯乱患者であふれていると言い、ぼくの袖をぎゅっと握りながら、重ねて「行かないで」と言った。
ぼくは、署内はそれなりに安全だと思っていた。内部で錯乱患者が発生した時に警察はパトカーの拡声器を使って避難民に呼びかけ、逃げさせた。そしてその後、桜とその家族が、警察署員がバラバラの方向へ退避していくのを見ている。混乱した様子ではなかったらしいから、その時まだ署内は錯乱患者であふれてはいなかっただろう。それに署員が出て行ったということは、おそらく中に残った人間はいない。だから侵入は可能だ――そういう考えだった。
桜はぼくの袖をぎゅっと握って、涙を浮かべながら「だめ、だめ……行かないで」と言った。さすがに、見ていられない表情だった。
ぼくは、分かった、やめとこう、と言ってその場は収めた。
夕食は水を使う気になれず、乾パンで済ませた。いつも桜がぼくに押し付けて食べさせたのと同じもののはずだったが、なんだかパサパサしていてまずかった。
夜はなかなか眠れなかったが、それは桜の布団がこそばゆかったからではなくて、翌日のことを考えていたからだった。
・・・・・・
その日も目を覚ますと桜が枕元にいて、起きるといつも通り乾パンと金平糖を差し出してくれた。桜はまるで前日のことがなかったかのように微笑んでくれていた。ぼくはその微笑みを消したくなくて、その日は素直に受け取ってぼりぼり食べた。食べている途中、ぼくはいつ家を出て行こうかと考えていた。
乾パンばかり食べるのはあまりよくないという桜の言葉にぼくは賛成し、昼食はレトルト食品で済ませることにした。ぼくは即座に牛丼を選び、出発前に肉を食べることに成功した。
桜は「今日は身体拭こうね、ちょっと待ってて」と言って風呂場へ向かった。桜はいつもこの時、脱衣所の扉を開けっぱなしにしていた。それまで、ぼくは絶対に服を脱いでいる桜を見ないようにしていたが、この日だけは気付かれないようこっそり見ていた。さすがにまともに見るのはよくないと思って、横目で桜がそこにいるのだけを見ていた。
桜が風呂場に入ったのを確認して、ぼくは行動に出た。昨日から目をつけていた、居間の隅に置きっぱなしの大きなショルダーバッグ――そいつが使えると思い肩にかけた。
忘れ物はないか確認したが、むしろ忘れるようなものがなかった。とりあえず身ひとつで出発すればよかった。
そして出て行こうと思って振り返ると、居間の入口に白いタオルを巻いた桜が立っていた。
全く気付いていなかったぼくは驚いて、思わず一歩下がった。普段ならどきり程度では済まない場面だったが、この時はそういう場面ではなかった。桜の方も「そういうつもり」で来たわけではないことは、その険しい表情から明らかだった。
桜が何か言う前にぼくは、ごめん、と言った。
桜は少し低い声で「だめ、って言ったのに……」と言って、ぼくをにらんだ。
桜はぼくの計画に気付いていた。一日の中で「入浴」の時間だけは、桜はぼくを見ていられない。その隙にひとりで出て行くつもりだと予想がついていたらしい。だからあえて風呂場まで入ったうえで、ぼくが油断して目を離し、出発の準備を始めたところへ戻ってきたのだった。
……ぼくは何としても水が欲しかった。食料の備蓄はまだある。家もあるし布団もある。ガスコンロも使える。水さえ持ってこられれば、明日からはまた今までと同じ暮らしができる、だから――
ぼくは桜の同意を得ずに、警察署へ向かうつもりだった。後でめちゃくちゃ怒られるだろうとは思ったが、それでもその先の笑顔が見たかった。
桜がこれに気付いたのはぼくが食料を食べている時だったらしい。起きた後の乾パンと、昼食の牛丼。桜から見るとぼくは完全に上の空だったらしく、昼食を決める時も相談なしに勝手に決めた。最後に肉を食べて力をつけていこうとでも思ったんでしょ、と言われぼくは言葉もなかった。ぼくの性格を勘案すれば、確実に警察署へ行くつもりなのだと分かったそうだ。
桜に立ちふさがれぼくは計画が破綻したと悟ったが、桜は「……私も行く」と言ってきた。
桜は、本当は行ってほしくない、と言ったうえで、「優くんが行くのなら私も行く。優くんひとりで危ない場所へは行かせない」と強く言い切った。
優しくしっかりした桜らしい言葉だった。
――だが、それは桜の思いとは裏腹に、閉じかかった破滅の扉を押し開いてしまった。もし桜が立ちふさがったまま「行くな」と言ったら、ぼくはそれ以上反抗するつもりはなかったのだから。
これは桜が悪かったんじゃない。あまりにも……巡り合わせが悪すぎたのだ。この後数時間で起こる出来事を、予測できる者など居やしないだろう。
桜が服を着る間、ぼくは居間にいることを許されず、脱衣所から視線の通る位置に座らされていた。この時ぼくは桜の信用をだいぶ失っていたらしい。もしぼくが立ち上がる気配を見せたら、出て行く前に取り押さえるつもりだったのだろう。
桜が服を着終わってから、玄関にふたりで並んで立った。互いに顔を見てうなづいて――
そしてぼくたちは、7晩に渡ってふたりを守ってくれた玄関を、自らの手で開けてしまった。
・・・・・・
いつもは桜の兄の服を着せられていたが、どれもぶかぶかで桜が笑ってくれる意外にメリットがなかった。だからこの日は久々にぼく自身の服を着ていた。身体に合っていて動きやすいと思ったからだ。
桜は自分も行くのだからと、空にしたリュックを背負っていた。桜に重たいものを背負わせたくはなかったが、降ろせと言っても絶対降ろさないだろうからぼくは何も言わなかった。
慎重に曲がり角の先を覗いて安全を確かめ、少しずつ進んだ。ぼくは桜の前に出ようとしたが、桜はそれを手で押さえ、ぼくの左隣に並んで離れなかった。
警察署前の通りは屋根代わりだったバスが並んだままだった。視線が通りにくく身を隠しやすいが、もし錯乱患者が紛れていたら見落とす可能性が高く、危険でもあった。
動かないバスの車列をすり抜けて、ぼくたちは警察署の前へたどり着いた。左右と前方に動くものはなかった。
通りをヘッドライトで照らす役割だったパトカーが数台、斜めに止められていた。車内には誰もいなかった。ぼくたちはほとんど声を出さず、ハンドサイン――と呼べるか分からない拙い手の合図で動作を知らせ、目を合わせうなづくことで「同意」を確かめ合って先へ進んでいった。
警察署の入口は北向きであり、建物の影に入ると急に暗くなった。ガラスのドアまでは見えていたが、その中までは見えなかった。
まずい、懐中電灯が要る――
忘れ物はないか確認したくせに、そういう必要な物を持ち出し忘れたぼくはまぬけと言ってよかった。そしてこのまぬけは、もし一人だったならここで引き返したはずだった。
ぼくの左腕を、桜がとんとんと叩いた。見ると桜は、肩越しに親指で自分のリュックを示していた。何のことか分からなかったが、すぐ桜はリュックを降ろして、中から懐中電灯を取り出した。
桜はそれをぼくに差し出した。やっぱり、しっかりしたひとだった。ぼくが忘れているだろうと思って、持ってきてくれたのだ。
――でも、どうしてそのことをここまで伝えなかったのだろう。
もしかしたら、あれは桜なりにぼくに格好をつけたかったのかもしれない。
でもそのせいで、その懐中電灯があったせいで、ぼくたちは破滅の扉をくぐることができてしまった。
入口の自動ドアは通電しておらず動かなかったが、最初から半開きで止まっていた。署員の出入りのため、ロックを外して手で開けてあったのかもしれない。
懐中電灯を下向きに照らし、身を低くしながら署内へと入った。内部は意外に整っていて、ただ暗いだけで静かだった。南側の窓からは、外の光が差し込んでいた。
カウンターや机など、障害物の多い室内を進むのには時間がかかった。そこで今さらのように怖くなったが、そばに桜の気配を感じて、乱れた気持ちはすぐ鎮まった。もし一人だったなら、怖気づいて逃げ帰っただろう。
署員たちは正気を保っていたらしく、署内は全く荒れていなかった。書類の1枚すら落ちてはいなかった。
途中、パイプ椅子に囲まれたホワイトボードを2つ見かけた。1つは、重点的に警戒すべき死角のある曲がり角が細かく書かれていた。もう1つは食料の配給計画と調達計画だった。ただ、配給用食料の保管場所は書かれていなかった。
本当に紙の1枚すら落ちていない署内だったが、1ヶ所だけ……いくつかの鍵がひとまとめに、グシャッと乱暴に置いていったように残っていた。整然とした署内で、それだけが妙な違和感を放っていた。
ぼくがそれに近付くと、桜もくっつくように隣についてきた。使えそうだな、と思ったぼくはちょっと桜の顔を見て、そしてその鍵を手に取った。
――手にしてはいけないものを、この手に取ってしまった。
先に進むうちに、窓のない暗い一角に入った。桜が持ってきてくれた懐中電灯が唯一の明かりになった。
白い無機質な壁が続く廊下――ドアの一つを照らすと「取調室1」と書かれたプレートが付いていた。
それは本来なら取り調べに使う部屋だったわけだが――錯乱患者があちこちに現れ警察のパトロールすら不十分な状況で、「取り調べ」というのが行われたかは疑問だった。実際はそれは行われず、むしろ倉庫代わりに使われてもおかしくない――そんな事を思って、ぼくはとりあえず開けてみることにした。
持ってきたいくつかの鍵が幸いにも――不幸にも――取調室の鍵だった。暗いのでぼくは桜に身を寄せて鍵を見せ、それから顔を見た。桜がうなづいたので、ぼくもうなづいて「取調室1」の扉に鍵を差し込んだ。
……その部屋の鍵は、元から開いていた。少し拍子抜けだった。鍵など要らなかった。
狭い扉を抜けるので、ぼくは桜に、手で後ろに回るよう合図した。見ると桜はふるふると首を振っていたが、並んでは入れない。ぼくも首を振って強く手で押し留めると、物分かりのいい桜はするりとぼくの背中に回ってくれた。
室内に踏み込んでみると、窓のない狭い部屋の中には机と椅子以外何もなかった。狭い空間に桜とふたりきりになったが、面白くもなんともなかった。
それから「取調室2」を調べ、何もなかったので「取調室3」に移った。ドアノブに手をかけ――
……そのドアノブは、回らなかった。
なぜかそこだけ、鍵がかかっていた。
ぼくは不思議にこそ思ったものの、あまり考えずに鍵を握ってきた手を開いた。
桜が懐中電灯を持ってくれて、ぼくは照らされた手のひらから「取調室3」と書かれた鍵を見つけ出した。
ああ、いっそそれだけ、どこかに落としてきてしまえば……
懐中電灯を受け取って桜を後ろに回らせ、鍵を開けたぼくは無造作に扉を開いた。たぶん何もないんだろう、と思って――