第3話 ふたりだけの暮らし
開いた玄関の扉――今考えれば、それは夢の入口だった。
これは少し後の話になるが――この家で暮らすようになって、急に高山が名前で呼び合いたいと言ってきた。なのでぼくは高山のことを「桜」と、高山はぼくのことを「優くん」と、それぞれの名前で呼ぶようになった。初めの頃は「桜」と呼びかけるのもぎこちなく、「優くん」と呼ばれただけでくすぐったく感じたものだった。
そういう夢のような暮らしが、その扉の先に待っていた。この時ぼくたちは、そのスタート地点に並んで立っていたのだった。
さすがに他人の家に入るのをためらったぼくに、桜はちょこちょこと手招きして、ぼくを家に入れてくれた。
人の気配がないので桜の家族は戻ってきていないのだと分かったが、口には出せなかった。
桜は特に気にしていない様子で、ぼくを畳敷きの居間まで連れて行った。真ん中にはまだ布団を乗せていないこたつが置いてあった。
家の中はぼくの知らないにおい――つまり、桜がいつも過ごす空間のにおいがしていた。
桜はぼくを見て微笑み、「岩永くんが家に来るなんて思わなかったな」と言った。ぼくもまさか、このひとの家に上がってふたりきりになるなど、考えたこともなかった。
日が傾き、辺りが暗くなり始めたのはそれからすぐだった。
電気がつかないので、まだ明るいうちに夕食をとってしまおうと言ったら、桜は急に目をそらして表情を陰らせた。それは見たことのない、辛そうな表情だった。
その表情の理由は、ぼくに対してのうしろめたさだった。
そして、それはぼくにとって大したことではなかった。
桜の家にはまだ多くの備蓄食料があったのだ。さらに開けられていない段ボール箱が複数――描かれているイラストから、中身は水のペットボトルとすぐ分かった。非常持ち出し用とは別に、家に置いておく常備用の生活物資も用意してあったのだ。
桜が後ろめたく思っていたのは、これらの備蓄を隠して警察の配給を受け取っていたためだった。これは父親の発案だったらしく、なるべく自分たちの備蓄食料を温存しようとしていたらしい。
桜は、食料の備蓄があるのにそれがない人たちと同じように配給を受けていたのが辛かったらしい。さらにぼくが路上生活だったと知って、余計に後ろめたく思ってしまったようだった。ぼくが路上に寝ていた時、自分は家の布団で寝ていた――そう言っていた。
ぼくからすれば、大したことではなかった。確かにアスファルトの路面は硬かったが――こんな事態になっては、他人に配慮してやる余裕も、その必要もない。せめて自分の家族だけでも助けようという桜の父親の考えは、ぼくからみれば正しいと思えた。
それを伝えても桜は目をふせたままだったが、そうやって食料を守ってくれたおかげで今ぼくたちが食べるものがあるんだから、と言ったらやっと顔を上げてくれた。
むしろ部外者であるぼくがその食料を食べてしまっていいのかと引け目を感じ、それでいいのかと桜に聞いたが、桜はほとんど即答で「いいよ」と答えてすたすたと台所へ行ってしまった。ぼくは引っ張られるように桜についていった。
台所の戸棚にあった備蓄食料は、意外にもカップ麺やレトルトのご飯やカレーなどが多数を占めていた。
電気もガスも水道もないのにどうやって食べるんだ――と思っていたぼくの隣で、桜はやかんにいくらかペットボトルの水を入れてから、ガスコンロに火をつけた。
当たり前のように火がついたガスコンロを見てぼくは戸惑ったが、桜の説明を聞いて、また翌日「それ」を家の外へ確かめに行って、ようやく納得できた。
ぼくの家は都市ガスを使っていたから、ガスというのは必ず地下のガス管から来るものだと思っていた。
対して桜の家はLPガスを使っていた。家の外に灰色のガスボンベがあって、その中のガスを使うからボンベ内にガスがある限りは火が使える。桜は、この家は地下のガス管とは繋がっていないと言っていた。
確かに同じようなボンベは見たことがあったが――あれがそういうものだったと知ったのはこの時だった。
とにかく、その時はガスコンロが使えて口にしていい水があって――なかなかいい生活が出来そうだった。桜がぼくに微笑みをみせながら「今日はちょっといいもの食べよ」と言ったので、夕食はカップ麺になった。
熱いお湯を注いでから、台所より明るい居間までそれを持っていって、こたつの上に置いて向き合って座った。久々に座る畳は柔らかかった。立ちのぼる食べ物のにおいについ腹が鳴ったのは恥ずかしかったが、桜がなんだか楽しそうに笑ったからそれでよかった。
キッチンタイマーはあったが音が鳴るのは避けたかったので、ぼくたちは居間の時計を見ながら3分計ろうとした。だがぼくは時計よりもすぐそこにいる桜が気になって目が行ってしまい、時間を計り損ねた。頼みの綱の桜も時計から目を離していて、時間は分からなくなった。
ぼくたちはふたりで顔を見合わせてから、桜の「まあ、いっか」との言葉にぼくがうんと答え、ふたを取った。桜は妙に楽しそうで、身振り手振りも少し浮かれて見えた。ぼくもつられて、浮かれた気分に浸っていった。
熱いカップ麺は久しぶりの贅沢だった。こんなに濃い味だっただろうか――ぼくたちはそう言いながら懐かしいまともな食事を味わった。
日暮れはそれからすぐだった。桜の背負っていたリュックには抜かりなく懐中電灯が入っていて、この日からぼくたちを助けてくれた。
ぼくは懐中電灯を桜に預けて居間で寝ることにした。桜は二階に自分の部屋があるというから、そちらで寝てもらうよう伝えたが――この時は、桜にしては珍しく、強く反対した。
停電し真っ暗な家の中で、ぼくに何かあって明かりが必要になったらに困る――そんな理由だった。ぼくは、そんな時は桜が明かりを持って助けに来てくれればいいよと、ちょっと格好をつけて言ってみたが、あっさり拒否されてしまった。
結局それからぼくたちは、毎晩ふたりで居間で寝ることになった。
桜はどこからか布団をふたり分引っ張ってきた。「わたしはお母さんのを使うから、岩永くんは私のを使って」と言われた時はおそらく人生で一番たじろいだ。同じクラスの女子生徒、それも――
桜はなんだか歯切れ悪く「知らない人の布団より、その、知ってる人の方が、いいかな、って」と言った。ぼくは元々座布団を並べて寝ようかと思っていたが――桜のことだから、自分だけ布団で寝ることはできないと言うだろうし、ぼくが要求したんじゃなくて桜が差し出してきたんだし、それを拒絶したら傷つけるかもしれないし――等と色々考えて、結局は桜の布団で寝ることにした。桜の希望が通り、ぼくも納得した――はずなのに、この時はなぜだか気まずい空気になった。
こたつを挟んで両側に布団を敷いて、それから早々と寝ることになった。電気がつかないなら暗くなったら何もできない。懐中電灯は電池を節約したいから点けない。電気のない時代に戻ったようなものだった。
家には雨戸があったが開け閉めの際に音が出るので開けたまま、障子は細めに開けておいて外の様子がうかがえるようにした。
それから桜の布団にくるまったわけだが――それで眠れるわけがなかった。いつも桜の身体を包んでいた布団――それに全身を包まれてはあまりにこそばゆく、ただ時間だけが過ぎた。退屈ではなく、こんな時に不謹慎とは思ったが――その優しい感触を、ぼくは秘かに楽しみ続けた。
だから翌日の朝は起きられなかった。桜に声をかけられたが、「眠い?」と聞かれてうんと答えたら「いいよ、ゆっくり寝てて」と言われた。寝ぼけていたぼくは桜の布団をぎゅっとつかんで縮こまったが、それを桜はどんな思いで見ていたのだろう。
結局ぼくは昼前になってようやく布団から這い出した。桜は枕元に座っていて「まだ寝てなくていいの?」と甘やかすように言った。いや、実際甘やかされていたんだろう。
ぼくがのそのそと起きあがると、桜は「お昼ご飯まであと1時間くらいだから、ちょっと我慢して」と言いながら乾パンと金平糖をいくつか手に乗せて差し出してきた。
糖分を補給できるように金平糖も少し置いてあったと言うのだが、今それを食べたら「我慢」とは言わないだろうと思った。
しかし受け取るのを拒否しても、昨日出会った時のように押し付けられるだけだな、と思って、ここは素直に貰っておくことにした。
ぼくは桜の手から受け取った食べ物をぼりぼりと食べたが、このとき桜がどんな表情だったかは見ていなかった。
昼食はレトルトのカレーにした。ご飯のパックもレトルトの袋も湯煎で温められるから、コンロが使えさえすれば問題なかった。
ちなみにレトルト食品は、飲料水をぜいたくに使うカップ麺よりは低ランク――ぼくたちの間ではそうなっていた。
湯煎に使う水は飲料水でなくていい。それなりにきれいな水なら使える。そして桜の家には大きめのポリタンクがいくつか置いてあった。数は数えなかったが、桜が言うには20リットルのタンクで、水道水を溜めてあるものだった。桜の父親は災害対策をかなり徹底していたらしく、必要な物資が必ずあった。
水道水だったなら飲用としてもいけそうだったが、もっといい水のペットボトルがたくさんあるので、ポリタンクの水は雑用で使う、ということにした。
桜の家には飲用・雑用ともに水が豊富にあり、食べ物も見たところたくさん――それらを使い切るイメージは湧かなかった。ぼくたちは相談したわけではなかったが、何となくこのままこの家で過ごすことになった。ぼくはそうしたかったし、桜も家を出ようとしなかった。
実際、錯乱患者や無法者に襲われる恐れのある外へ出るより、飲み物も食べ物もあって、火も水も使えて、柔らかい布団で寝られて、雨風を心配する必要もないその家の方が、ずっとよかった。
カレーを食べてしまってから、次の食事――すなわち夕食まですることがないのに気付いた。宿題はないし、働こうにも何もできることがない。ネットは繋がらないしテレビもつかない、ラジオも電波を拾わなかった。
空き時間のあまりの長さにぽかんとしていたぼくに、桜が声をかけた。「ね、洗濯しておこう」と。
さすがに洗濯なんてできるものかと思ったが、桜はポリタンクの水と洗面器を使えばできると言った。ついでに「天気もいいから、夕方までには取り込めると思うよ」とも言った。
一緒に食事して、一緒に寝て、そして洗濯も一緒にして――なんだかふたりで暮らしているみたいだと思って、ぼくは浮かれた。このひととふたりで――まるで夢を見ているようだった。
洗濯するのはいいとして、その後に着るものはどうするか。桜の着替えは当然あったが、ぼくの着替えはなかった。
少し考えた桜は、兄が使っていたという部屋へ入り込み、「これなんかどう?」と知らない服をぼくに渡してきた。着ていいものか――と思ったが持ち主はいないし、逆にここにいるぼくは着るものがない。それならまあ仕方ないか、と思って着替えてしまった。
ぼくはもともと身長が低く、身体は小さめだ。だから渡された服は案の定ぶかぶかだった。それを見た桜はくすくす笑って、「ちっちゃなお兄ちゃんみたい」と言った。
着替えを済ませた桜と風呂場に行って早速服の洗濯をしたが、洗面器程度の大きさでは当然全部は入らず、洗濯には意外な時間を要した。
だが特に娯楽のない生活だったし、そもそも桜と一緒に過ごすのが楽しいので、いくら洗濯に時間がかかっても別によかった。ただ桜がすぐ隣にいたので、洗うものによっては目のやり場に困った。
今思えば、それは幸せな困りようだった。
水はたくさんあるのだから、ということで、洗剤だけでなく柔軟剤まで使って洗濯した。柔らかい服を着て暖かな暮らしがしたかった。
意外に時間がかかった洗濯を終えて、ふたりで洗濯物を干した。外に干したのでやや周囲を警戒し、互いにほとんど声を出さなかったが、錯乱患者は来なかった。無防備に自分の服を干す桜にどぎまぎされられたが、「誰も見てないからいいよ」と言っていた。ぼくがいるんだけどなあ、と思ったが言わずにおいた。
天気は快晴だったから、桜の言う通り夕方までには何とかなりそうだった。
それから桜が、「ね、タオルで身体拭いとこうよ」と言ってきた。ぼくは思わずどきりとしたが、もちろん別々にだった。
水は雑用のものを使った。さすがにタオルを鍋て温めるわけにはいかず、冷たいけど我慢しよう、と言ってそのまま使った。ひとりずつ風呂場で済ませることになり桜が先に入った。
一人残されたぼくはすることがなく、何だか気になって脱衣所の方へ顔だけ出した。脱衣所の扉は、予想に反して開けっ放しだった。
その開いていた扉のせいで、ぼくはその先にいる桜のことを思ってずっとそわそわさせられた。今ぼくが行ったら――どうせ咎める人もないし――と思いはしたが、思うだけに留めた。
桜の「入浴」は思ったよりだいぶ長かった。
次にぼくが服を脱いで風呂場に入ったが――さすがに脱衣所の扉は閉めておいた。鍵はかけなかった。
こうして悶々とした「入浴」が終わると、何もすることがなくなった。洗濯物はまだ乾きそうになかった。
桜がどこからかトランプとオセロを持ってきてくれて、それ以来ぼくたちはこたつを挟んで、これで遊びながら暮らした。
ぼくはオセロは一応できたがトランプは全く知らなかった。オセロは初めはボロ負けを繰り返したが、しばらくすると急に勝てるようになった。たぶん、桜が優しくしてくれたんだろう。
トランプは全く分からなかったのでお互い楽しめないだろうと思ったが、桜がぼくの隣に来て手取り足取り教えてくれた。ぼくはなかなかルールを覚えなかったが、それは半分わざとだった。そばに寄った桜の息が肌にかかるのがくすぐったく、間近で聞くその声に胸が暖かくなった。桜も別に不機嫌にならず、ずっと優しく接してくれた。だからぼくは分からないふりをし続けた。
そのせいで、気づいたときには陽が傾きかけていた。ぼくたちは持っていたカードをこたつの上に放り出し、いそいそと洗濯物を取りこんだ。
居間に入ってふたりで洗濯物を畳んでから、夕食をとった。前日はカレーだったので、ふたりで相談して今度は牛丼にしようと決めた。パックのご飯は他に比べると数が少なめだったが、もともと桜の家族4人分のものをふたりで消費するので問題ないと思った。
食事が済んでから雑用の水を使ってふたりで洗いものをして、まだ少し明るかったのでふたりでちょっと金平糖をつまんでから、こたつを挟んで布団を敷いた。この日もまた桜の布団に入ったが、すでに一晩くるまっていたはずなのに、やっぱり全身がこそばゆかった。
だいぶ暗くなって、その時にぼくはちょっとこたつの下から桜の姿を見ようとしたが、見た瞬間に目が合ってぎくりとした。桜はにこりと笑ったように見えて、ぼくもとりあえず笑顔を返したが、だいぶぎこちない表情だっただろう。
その日から、これがぼくたちふたりの一日の暮らしになった。こそばゆい布団に寝付けなかったぼくを、桜が昼前に起こしてくれる。起きたら桜に軽食として乾パンと金平糖を食べさせられ――食べなくても大丈夫だと言ったがやっぱりだめだった――それから昼食をとって、洗濯をして干してから、ちょっと危うい桜を意識しながら「入浴」をする。その後はトランプとオセロで遊んで、ルールを忘れたふりをして桜にそばに来てもらいながら時間を過ごす。夕方までに洗濯物を取りこんで畳んでから夕食をとって――寝る前にふたりで金平糖をつまむのもなぜか日課になった。ぼくたちは夕暮れ時の室内で、甘い小さな星々に幸せを味わった。
一度だけ雨が降った日があって、その日は家に閉じこもった。雨音にしんみりさせられたぼくたちは遊ぶのをやめて、自分の話を聞かせあった。もし予定通りに学校生活が続いていたら、ぼくは桜のことをこんなに知れなかっただろう。
何と言えばいいのか分からない共同生活を、ぼくたちはやや浮かれながら楽しんだ。
ああ、本当に楽しかった。それまで目で追うだけだった桜が朝から晩までそばにいた。いつも友達や他の男子生徒と話していた桜が、ぼくだけを見てぼくとだけ話してくれた。今日のご飯は何にしようとか、早く洗濯物取りこもうとか、そろそろ寝ようか、とか――「食べて」と乾パンを押し付けられたり、「待っててね」と風呂場へ入るのを見送ったり、「えっとね――」とそばに来てトランプを教わるふりをして吐息を肌で感じたり――甘くて幸せな時間が繰り返された。
一度は喧嘩した桜が出て行ってしまう夢を見たが、夢から覚めて恐る恐る目を開くと、本物の桜はぼくの枕元に座っていて、目を覚ましたぼくに優しい笑顔をみせてくれた。
夜はいつも、こそばゆい桜の布団に包まれながら、明日も同じ生活が待っているんだと思って、安心して目を閉じることができた。
・・・・・・
そして、ふたりの暮らしは5日間で限界を迎えた。