第2話 会いたかったひと
そういう事で、今ぼくは現在地が分からない。助けてくれる人は誰もいない。錯乱患者の姿も見えないが、もし近くに避難所があったら危ない。そこはおそらく錯乱患者の巣になっているだろうから。
警察はどうして飛沫感染の可能性を考えたのだろう。署内で何かあったのだろうが、今となっては分からない。
でも、噛まれるだけでなく飛沫によっても感染するなら、避難所で錯乱患者が発生した事の説明がつく。あの時は身体に傷がないか確認しただけで受け入れていた。だが飛沫で感染していたなら傷はないから見分けがつかない。
そういえば――警察署前で見た錯乱患者、あれはゲヘッと汚いせきをした。あの時は理性がなくなった人間の汚い行動としか思っていなかったが、実は病原体をまき散らしていたのだろうか。
ぼくは錯乱患者の近くにいなかったから、大丈夫なはずだ。風通しのいい屋外だった。
――屋根代わりのバスの中は? 人が密集していたが。
ぼくは、感染しているのだろうか――
考えながら歩いていたから、反応が遅れた。
左からダダダダ、と大きな足音がした。ぐんぐん近づいてくる。
ぼくはちょうど路地の前に差し掛かっていて、その路地を見ると、2人の――「2体」と言った方がいいだろうか、錯乱患者が走ってきていた。
中学生くらいの少女と、小学校高学年くらいの少年――確実にぼくに向かってきている。
ぼくは少し遅れて駆け出した。錯乱患者は知性がほぼない、だからうまく姿を隠せばやりすごせる。テレビが映っていた頃、特番か何かでそんな事を言っていた。
曲がり角――少し先、右方向! やや距離があるが――
だめだ、後ろから足音がしはじめた。2体はもう路地から出て、こちらの背中を視認しているはず。曲がってもやり過ごせない――
それでも直進よりはましか。身体を傾け角を曲がる。曲がる瞬間、その先に別の錯乱患者がいたらどうするんだと思ったが――幸い、前方には何者も見えない。
どこだ、次の曲がり角。いやまて、ここは住宅地の狭い道、下手に曲がって袋小路だったらどうする。直進する方が安全か。
振り返って見ると、2体とはまだ距離がある。ぼくは足が遅い方なのだが、あいつら追い付いてこない。
錯乱しても身体能力は変わらないのか――? ならば、相手は中学生と小学生。こっちは高校生だ。突っ走れば振り切れる。
――いやだめだ、この先にまた別の錯乱患者がいたらどうする。下手に走り続けるのは危険だ。
どこか、塀か何かの陰に――直進では隠れた場所が丸分かりだ。リスクを覚悟で、曲がるしかない。
前方十字路、右へ――よし誰もいない。すぐ右側、ブロック塀のある家。門は半開き。
門に当たらないよう身体を滑り込ませ、すぐ塀の裏にへばりつく。見られていたらアウトだが――
……足音が急に静かになった。
が、ゲヘッゲヘッとせき込む音が近づいてくる。ぼくが曲がってきた道を歩いて来ている。
まてよ、そもそもこの家は大丈夫なのか――中に錯乱患者がいたら挟みうちだ。
息を殺して耳を澄ます。荒い息づかいとせき込む音が聞こえる。塀ひとつ向こうに、いる。
半開きの門から、2体の背中が見えた。遠ざかっていく。振り返らない。
家の中も静かなまま。これだけ足音を立てて来たのだから、錯乱患者がいたらまず反応しているだろう。反応がないなら、誰もいないとみていい。
2体の錯乱患者は門の先へ消え、汚いせきの音が次第に遠ざかっていった。
あそこにどれだけ隠れていただろう。30分以上いた気がするが、時計はないから分からない。
ここまでリレーのバトンのように持ってきたペットボトルから、思い切り水を飲んだ。残りは五分の一程度。どこかきれいそうな川でもあれば補充できるが、どうだろう。
恐る恐る門から左右を見て、誰もいないのを確認してから静かに道に出た。
逃げることだけ考えていて、ぼくは住宅地に入り込んでしまった。どの路地から、どの家から、どの曲がり角から錯乱患者が出てくるか分からない。心臓が早鐘のように鳴り、呼吸が早まっている。こんな危険地帯がすぐそばにあったのに、今までよく考え事などしながら歩けていたものだ。
ぼくは緊張に押し潰されそうになりながら、足音を立てぬよう歩いた。交差点ひとつ渡るだけで命がけ。だから前に進むのは遅かった。
いま何時ごろか。夜になる前に安全な場所に入らないと動けなくなる。電気の止まった街で、ぼくは懐中電灯も持っていないのだ。おそらくこの住宅地のどこかにはまだ他の錯乱患者がいるだろう。道が複雑で家も多く、見通しが悪いから出くわしていないだけ。ここで一晩過ごすのは絶対に無理だ。
ああそうだ、あの時――2体の錯乱患者に追われて逃げ込んだ塀のある家、あの中に錯乱患者はいなかった。あの家に入り込めば安全だったんだ。
緊張と焦りが判断力を奪ってきている。いけない、いけない――
前方に広めの道が見えた。オレンジ色のセンターラインが引かれている。よし、ようやく危ない住宅街から出られる。
曲がり角から顔だけ出して、まず右をよく見て――誰もいない。やや安心しつつ左を見て――
「……!」
人がいる、距離は20メートルもない。顔はこちらを向いている!
すぐ頭を引っ込めたが――何だ? 足音がしてこない。汚いせきも聞こえない。確実に見られたはずなのに――
錯乱患者じゃない――? すると、まともな人間か?
もう一度顔を出してみると、そいつはまだ同じ場所に立っていた。高校生くらい、ぼくと同じくらいの歳か。ぽかんとしたまま立っている。錯乱患者ではなさそうだが、あれでよく生きてこられたものだ。無防備に立ちっぱなしだ。
その人間はしばらくぼくを見ていたが、急に大きな声で呼んできてぼくは飛び上がりそうになった。大きな声を出すな、と言いたかったが――
「岩永くん――!」
叫ばれたその名前……おかしい、こんな状況で知り合いになんて会えるはずがないのに――
でも確かに、ぼくの名字は「岩永」。誰だ、あいつは。
ぼくが目を凝らして見ていると、向こうが急にとことこと歩いてきた。思わず首を引っ込める。
「あ、待って!」
声が大きい。あんたは誰だ。感染しているか、いないのか。発症前でもうつる可能性を考えると、他人に近寄りたくない。
今は死角に入っている。1建目の敷地に隠れてやり過ごそう。
「岩永くん、どこ!」
でかい声を出すな、錯乱患者を呼んでしまう。
身を低くして気配を消す。大丈夫、ここに隠れたのは見られてない。
そいつは敷地の前まで歩いて来て、辺りを見回して――そしてぼくと目が合った。
そうだった、錯乱患者じゃないから知性は普通にあるんだった。
そいつはぱっと笑顔になって、とたとたと駆け寄ってきた。縮こまったぼくの前にしゃがみ込んで、そして不安そうな顔をする。
「岩永くん、だよね……?」
……ああ、そうだ。そしてぼくが悪かった。こんな目の前に来られるまで分からなかったのは。
「た、高山……?」
ぼくはこれまで何度か幸運に恵まれたが、今度もそうだったらしい。夏休み明けの登校が禁止されたままだったから、同級生など7月末から会っていなかったのに。
高山桜――同じクラスの女子生徒だった。
ぼくは数か月ぶりに会えたその高山に、民家の敷地に逃げ込んで縮こまっているという情けない姿を見せていた。
他の人ならまだよかったが――このひとにだけはこんな姿は見られたくなかった。ぼくの顔をのぞきこむ黒い瞳、優しそうな表情、きれいな唇――よりによってこのひとに。
「岩永くん――無事、だったんだ」
無事といえば無事だが、どちらかというと無様だ。奇跡の再会が、こんな体勢じゃあ格好がつかない。
言うべき言葉が思いつかないぼくに、高山は少しむっとした表情をした。
「さっき私のこと、分からなかった?」
はい、分かりませんでした。許してください。
「ごめん……」
素直に謝ると、高山は優しく笑った。斜め上からその笑顔を見せられると、根拠のない安心感に包まれる。
「いいよ。それより――」
高山はぼくを見下ろして、それから背負っていたリュックをおろした。
「お腹、空いてない? 食べるもの、持ってるから」
そうだ、もう昼などとっくに過ぎて、夕方が近い時刻だろう。身ひとつで逃げ出したから、食料は何も持っていない。右手にバトンのように握ってきたペットボトルが、唯一の物資だった。
対して高山は、きちんと水と食料を持っているらしい。やっぱりしっかりしている。
高山はリュックの中から出した乾パンを無造作に手に乗せて、ぼくに差し出した。
「はい、これ」
……確かに食べ物は欲しいが、その量はちょっと多くないだろうか。そりゃあぼくは嬉しいが、それは高山のものだろうに。
ぼくが受け取らないでいると、高山はその手をぐっと押し付けてきた。
「食べて。死んじゃうよ――」
いや、1食や2食程度抜いても死なないだろう。
いやでも、そうか。どのみち食料を持っていないぼくは遅かれ早かれ餓死することになる――
高山の食料を減らしたくはなかったが、食べるものがないと思うと急に恐怖が湧いてきて、高山の手から乾パンをひとつ取った。
結局、高山は全部食べるまで許してくれず、新しい水のペットボトルも押し付けられ飲まされた。初めは罪悪感があったが、食べる食べない、飲む飲まないの押し問答をするのがなんだか楽しくなって、途中からはじゃれ合いみたいになっていた。こんなこそばゆい気持ちになったのは、いつ以来か。
「高山、どこから来たの? この近く?」
民家の敷地内にふたりでしゃがみこんで、ぼくは小声で聞いてみた。
「警察署の方から。中で錯乱患者が出た、って言われて逃げてきたけど……」
「え――? 一緒じゃん」
ぼくたちは顔を見合わせた。
あの路上生活者の中に高山もいたのか――規制線を張られて距離をとらされていたから分からなかったんだ。
ずっと路上生活が続いていたら、むしろ会えなかっただろう。運が良かった、ぼくにとっては。今この世で一番会いたかったひとが、目の前にいる。
今さらのように涙が出かかったのをこらえて、ぼくは別のことを聞いた。
「高山って、この辺の事知ってる? 俺ぜんぜん土地勘なくてさ。今どこにいるのか分かんないんだ」
高山はちょっと首を傾げて、言った。
「うーん……警察署から少し離れたくらいかな。歩いて30分くらい」
「――え?」
歩いて30分って、だいたい2キロくらいじゃないか。ぼくは警察署前から逃げ出した後、ずっと歩きどおしだったのに――どうして。
その疑問への高山の答えに、ぼくは自分が情けなくなった。
この辺りは古い町並みが広がっている場所で、道は狭く国道もカーブが多いのだそう。言われてみれば確かに、車が走りづらそうな狭い道が多かった。住宅も密集していて、古そうな家も少なからず見かけた。
住宅に囲まれ見通しの効かない中を歩いていたぼくは、知らないうちに大きなカーブを描いていたのか、自分で思っていたほど警察署から遠ざかっていなかったようだ。太陽の位置を見れば進む方向がおかしいに気付いただろうが――見てなかった。
高山は警察署の近くに住んでいたそうだ。だから家で家族と過ごしていて、路上にはいなかったらしい。皆が逃げ出した時も父親が機転を利かせて、しばらく家に隠れていたという。
高山が言うには、周囲の避難民がいなくなった後、警察署員も建物から出てバラバラの方向へ離れていったらしい。どういう意図か分からないが……警察署が錯乱患者の巣になって一帯が危険地帯になるのを避けようとしたか、あるいはまだ感染していないかもしれない署員を生かすつもりだったか。
しばらく経つと辺りは物音ひとつ聞こえなくなったそうで、そのタイミングを待ってから、非常用の水と食料に多少の市販薬を詰めたリュックを背負って脱出したそうだ。
なかなかうまい手を打ったなと思ったが、高山たちはぼくより運が悪かったらしい。避難の途中、警戒しながら国道を歩いていたところ、道路沿いの民家の門、そのすぐ内側にいた錯乱患者に出くわしてしまった。
門は半開きで、すぐ目の前に出てきたそいつから全員無事に逃げることは不可能だった。
高山の父はそれをすぐに察したのか、自分の腕をそいつに噛ませた。
噛みついている間、錯乱患者の動きは止まる。さらに片手で頭を押さえれば、そいつは噛んだまま離れられない。そういえば、警察署前の警察官もわざと腕を噛ませていた。
だが高山の父が着ぶくれた警察官のように完全防備だったはずがない。高山も言っていたが、おそらく自分の命と引き換えに家族を逃がそうとしたようだ。
高山たちは走って逃げたが、どうやら冷静なまとめ役だったらしい父親がいなくなったせいでバラバラに逃げてしまい、我に返った時には独りきりだったそうだ。
土地勘はあったが集合地点は決めておらず、未だ誰とも合流できていないという。
「遠くに逃げようと思ったんだけどね、なんだか怖くて……知ってる場所から出られないんだ」
高山は少し表情を曇らせながら言った。
「情けないよね、私。お父さんがせっかく逃がしてくれたのに……」
「そんなこと――」
ぼくはそこまで言ったが、それ以上何と言っていいか分からなかった。
しっかりしているように見えるが、高山も怖いんだ。なんとかしたいが、このひとにぼくが何か役に立つだろうか。
そろそろ夕方だ。電気の来ていない街は真っ暗になる。高山のリュックの中には懐中電灯くらい入っていそうだが、その程度の明かりで真っ暗な街を自由に歩くことはできないだろう。電池の心配もあるし、なにより明かりをつけたら目立つ。暗闇の中から、明かりをめがけて錯乱患者が近づいてくることになる。
それに夜は眠らなければならない。一晩眠らないだけで、翌日の行動力は確実に落ちる。それで生き延びられるはずがない。
「……」
「……」
重い沈黙は、何もいい考えがないことを言いたくないから。互いに、それを認めたくないのだ。
「――そうだ」
沈黙を破ったのはぼくだった。これで高山に、ちょっとだけ格好をつけられた。
「高山の家、行ってみようよ」
「え?」
高山は驚いて聞き返してきたが、想定内だ。
「あの時、みんな逃げたんでしょ。警察署員も含めて。そのあと物音がしなくなったのなら、あそこにはもう誰も残っていないはず。かえって安全かもしれない」
そうだ、高山たちは物音がしなくなるのを待ってから脱出した。ならまず誰もいないだろう――錯乱患者も含めて。どこか路地には潜んでいるかもしれないが、こちらが大きな音でも立てない限り出てこないはずだ。
高山の言葉通りなら警察署まで徒歩で30分。家はその近くらしい。錯乱患者を警戒しながら進んでも、見通しのいい道路を慎重に行けば、1時間くらいで着けそうに思う。
高山の家はおそらく安全だ。安心して一晩過ごすことができるはず。無理に進むより、ここは一旦戻ろう。
それに、はぐれたという高山の家族も同じように一旦戻ってくるかもしれない。
「……どう?」
そう聞いたぼくに、高山はほんのりと笑顔をみせた。
「うん……そうだね、私も岩永くんについてく」
いや、ついてくというか、高山に案内してもらうことになるから、実質ぼくがついて行かせてもらう立場だが――高山に「ついてく」と言われて、少し心がくすぐられた。
ぼくたちは最短ルートで高山の家に向かった。ルートの選択肢は、元々これしかなかった。できるなら錯乱患者のいる場所を迂回したかったが、どこに錯乱患者がいるかなんて分からない。どのルートをとってもリスクは似たようなものだから、それなら最短ルートで行くべきだった。
意外に順調に歩いていたが、途中の信号交差点で、交差道路のすぐ近くに錯乱患者がいた時は文字通り死ぬかと思った。幸いそいつはこちらに背を向けて立っていたので、ぼくたちは少し震えながら忍び足で通り過ぎた。
「こっち――ここ曲がって」
警察署の通りから細い道に入り込んだ先――なんだかそばに寄って来がちな高山を意識しつつ歩いてきたが、その先の見えない曲がり角に緊張して立ち止まり、それからなけなしの勇気をはたいて顔を出した。
――誰もいない。
高山のほうを見てうなづくと、高山はほっとしたように笑顔になってまた寄ってきた。
「ここ、角の家。よかった、ふたりで着けたね」
その家は小ぢんまりとした日本家屋だった。門の脇に「高山」と書かれた表札がある。
いつも学校で、背が高くてきれいな顔立ちで笑顔がやさしい高山を見ていて、何となく洋風で新しそうな家に住んでいそうだと思っていたから、これは意外だった。
門は閉じられ、玄関も閉まっている。脱出する際に閉めていったとのことだから、知能のない錯乱患者は入ってきていないはずだ。
ぼくの前に出て門を開けた高山の後について、前庭に入った。高山がすぐ門を閉め、安全を確保する。
――うん?
ちょっと待てよ、玄関が閉まっているが……鍵は開いているのか――?
しかし高山は振り返ってちょっと得意げに笑い――ポケットから鍵を取り出した。
「えへへ……いつもの癖で、出るときに持ってきちゃってた」
・・・・・・
そしてその家はぼくたちを迎え入れ、それからしばらくの間、ぼくたちに穏やかな暮らしを与えてくれた。
あの時、玄関が開かなかったらぼくたちふたりはどうなっていただろう。