幼馴染で、部活仲間で、親友で
浅く弧のような軌道のボールを胸で受け止めると、意思とは無関係に口から空気が漏れた。部活を引退してまだ半年しかたたないというのに、胸トラップに失敗したのだ。そしてそんな僕を蹴った張本人は茶化すように笑っている。
昼下がりの河川敷だったが平日ということもあり人はまばらだ。あいつがこの時間、この場所を選んだのは、思い切りボールが蹴れるからに違いない。もう十年来の付き合いなんだ、それくらい察せる。
あいつは幼馴染で、部活仲間で、親友だ。
色に例えるならば、黄色やオレンジ色だろう。暖かくて明るい色で少し刺激的だけど、目に刺さるほどの刺激はない。思わず手に取って、その甘酸っぱいさわやかな香りを確かめたくなる。そんな色だ。間違ってもブロック塀や放置された水槽に蔓延る青緑色ではない。素手で触ることはおろか手袋越しにだって不快感があるような、最終的にはブラシで磨いて剥されるような色ではない。むしろそれは僕の方だ。
一頻りボール回しや1対1を繰り返して、僕たちが帰宅を始めるころには日が傾き始めていた。
未だに息が整わない僕を見て、あいつはまたからかうように笑っている。情けないところを見られて少し恥ずかしさもありつつ、ようやく終われることに達成感があった。鼻の奥には芝の青い匂いが満ちている。
「忙しくなる前にボール蹴れてよかったよ」
「高校は寮だもんな。そろそろ準備しないといけないのか」
「そういうこと。そっちは入学まで暇な感じ?」
「特にやることもないしな」
幼稚園からずっと一緒だったあいつが、今年の四月からは県外の高校に通い始める。強いサッカーをするために県外まで行くというのだ。
こいつは中学に入り急にサッカーを始めた。きっかけが何なのかわからないが、自分一人で決めたことは確かだ。思うに誘ってくれたのはこれまでの義理からくるものなのだろう。その証拠に進路だって相談もなしにいつの間にか決めていた。
進路を決めてからのあいつは一直線だった。それまで見向きもしなかった勉強に打ち込み、ずっと参考書に噛り付いていた。本気の度合いは十年来の友人でなくても窺い知れたことだった。サッカーもゲームもきっぱり辞め、休日も返上してつかみ取った進路であることは理解している。だからこそ僕は素直に見送ることに決めた。
「お前もさ、高校に行ってもサッカーやるんだろ」
「なんで?」
「なんでって。いやまぁ、お前サッカー好きだし」
別にサッカーは好きじゃない。
「体育とか嫌いだったのに、部活だけはめっちゃ練習しててさ、そんなにサッカーが好きなんて知らなかったよ」
「まぁな」
「だからてっきりお前も俺みたいに強い学校を目指すんだと思ってたよ」
腹の底で黒い何かが脈打つような感覚だ。
こいつの言う通り運動が嫌いだ。汗でべたべたになるのも、誰かとぶつかり合うのも気持ちが悪いから好きじゃない。それでもサッカー部に入り、必死について行った理由は偏に。
だけどこの黒さを飲み込むと決めたんだ。
「むしろこっちが聞きたいくらいだよ」
「何が?」
「急にサッカーを始めた理由だよ」
「あぁ、言ってなかったっけ」
首肯した。
「小学校から同じだった相川ってわかるか」
「三組のあの子がなんだよ」
「小学校の時にあった部活体験の時に来ていたサッカー部の先輩見て、カッコいいって言ってるの聞いちゃってさ」
「つまり、気を引きたかったからとか?」
「まぁまぁまぁ、きっかけは何であれ始めてよかったと思ってるよ。なんたってこれまでの人生で一番夢中になれるものになったんだからさ。相川とか目じゃないよ」
あっけらかんとした横面をひっぱたければどれほど気が楽になったことだろうか。あるいは本当にそうしても言い訳ができるのではないか。いや、違う。この話に特別な意味や意図はない。僕がこいつのためにサッカーを始めたように、こいつも同じことをしたのだ。いいや、それだって間違いだ。僕もこいつも自分のために始めたのだ。
「聞かなきゃよかったよ」
帰宅途中、行きつけのラーメン屋に寄った。浮かれていたあいつは普段よりも大きなサイズのラーメンに、大量のトッピングを注文していた。なんだかんだで巻き込んだ自覚はあるのか、詫びだと言って一本いくらもしないメンマを一本だけくれた。
交差点で別れた後、僕は遠ざかるあいつの背中眺めて立ち尽くしていた。振り向かれたらどうしようかとも思ったが結局杞憂に終わった。
あいつが帰る道を僕が最後に使ったのは、ここ最近を除くと恐らく引退してすぐくらいだ。本格的に受験モードに入って以降はあいつの家に行くこともなかったから、その道の先に全く用がなかったのだ。少し使わなくなった僅かな間によく行っていた駄菓子屋が店を畳んでいた。こんな感じでこれから先、この道の先には俺の知らない何かがいつの間にか増えていたり、あるいは知っているものが減ったりを繰り返していくのだと思うと、足許のアスファルトが急に頼りなく感じられた。
際限なく沈む思考を押し戻して、信号を待つこと4度目。
「あっ、左前先輩じゃん! 久しぶりっす」
急に背後から投げかけられた声の主は、部の後輩だった。大きなエナメルバッグに学校指定のジャージを着ているところを見るに、今日も練習日だったのだろう。
「あのさ、人のことポジで呼ぶなって言ってるだろ」
「いいじゃん、名前も大体同じなんだし。てか先輩サッカーしてたんすか。練習来てくれたよかったのに」
「OBに来られてもめんどくさいだろ」
「いやいや、左右先輩なら歓迎ですよ。というか、今度左ハーフのコツ教えてくださいよ」
「お前、センターフォワードだろ」
「先輩が引退してからは左ハーフっす」
「あぁあとあいつとワンセットで呼ぶのもやめろ。なんであいつと居たことが確定してんだよ」
「脳筋コンビのくせに」
後輩の頭を軽くはたいた。
「そう言えば脳筋先輩が強豪校行くってマジなんですね」
「やっぱりお前、俺らのことなめてるよね」
「いやいや尊敬してますって……てっきり左前先輩も受験すると思ってました。サッカー大好きだし」
「お前はどうすんの」
「します。スポーツ推薦取って勉強狂いになってた脳筋先輩を煽り散らかします」
「お前にあの学校は無理だ諦めろ」
「ひっでぇ。まぁとにかくたまにはクラブにも顔出してくださいよ。先輩ら来るとゲーム率上がるし。ちょうど来週の水曜なんて外周だからその日とか」
「早く帰って勉強してこい」
「お疲れ様っす」
ちゃんと仲の良い男友達くらいの関係地で認識されているみたいで一安心だ。むしろそうでなければ僕が頑張った意味がない。
とかく疲れる一日だった。再確認だったり、再認識だったり、さまざまなことが思い浮かんでは、その一つ一つを無視できないでいる。この暗い性格も我が事ながら鬱陶しくて仕方がない。
いつから友愛を超えたものを抱えていたかは定かではない。だがそんなことは些末なことである。一考の価値もない些事である。結論は最初から決まっていたし、その結論を裏付ける要素は初めから手元にあった。当然それをいまさら一つ一つ拾い上げて検討する必要もない。そんな細々とした作業を必要としないほどの大きな要素がすべて一切合切に結論を下しているのだ。
この気持ちは墓場まで持っていく。間違っても本人や知り合いにバレてはいけない。バレてしまった日には、きっと僕たちは奇異の視線にさらされる。僕だけならばそれも受け入れたが、あいつまでもが被害を受けるとなれば話が違う。あいつにまで向けられた日にはきっと、僕は耐えられない。
それからもとめどなく月日は流れ、あっという間にあいつが旅立つ日を迎えた。ジーンズにパーカーと少し大きめの旅行カバンが一つと、まるで日帰り旅行にでもいくような軽さである。
つい、入場券を握りしめてしまわないようにポケットの奥にしまい込んだ。
「わざわざ見送りとかいいのに。律儀なやつ」
「黙って見送られろ」
「はいはい。それにしても、ここにも一年は帰ってこないと思うとなんか変な感じだよ」
「……お前はたぶん、どこに行っても同じだよ」
「そんなことねぇよ。あの学校にはお前がいないし」
簡単に揺れてしまう弱さが疎ましい。
別にこれが今生の別れと言訳ではない。言うとおり一年に一回は帰ってくるし、連絡手段だってある。会おうと思えばいくらでも会える。僕が必要以上に悲観的になっているにすぎない。これくらい普通の出来事だ。
「そう言えば、答え聞いてなかった」
「何が」
「サッカー、続けるんだろ」
「……もう走るのはやだよ」
「そっか。じゃあ、俺がお前の分もサッカー頑張るから」
「まぁがん――」
踏切の甲高い音が不意に僕の言葉を遮った。
「おう! 任せとけ」
僕はそれ以上言葉が出なかった。
間もなくしてやってきた電車はあっけなくあいつを連れ去った。僕は電車が見えなくなるよりも早く駅から脱出しておもむろに空を仰いだ。
今日は雲一つない清々しい晴れの日だ。門出を祝すにはこれほど適した天気もないだろう。そう、門出には今日のような快晴が似合うのだから。
これから何をしようか。あいつとは行かなかった喫茶店で昼ごはんを食べて、それからゲームセンターにも行こう。あいつと居たらしないようなメダルゲームやクレーンゲームで遊んで、あいつと居たら見ないような映画を見るのも悪くない。それから本屋にも行って、サッカーを辞めた分、何か別の物を見つけよう。あるいはサッカーを続けることだって。いや、やっぱりそれはない。こんなに疲れることはもうしたくない。
僕は、幼馴染で、親友で、元部活仲間だ。




