第3話 初めてのバターブレッド
午前の授業中は、今朝の下駄箱での出来事を思い出し、死にたくなっていた茜だが、お腹は空くものだった。何しろ朝はオートミールのお粥とサラダしか食べていない。お腹は情け無い音を立てていた。
いつものように学生食堂へ向かい、母の超自然派弁当を食べるつもりだったが、途中で売店に行く事にした。
コンビニサイズの売店には、パンやおにぎり、お菓子だけでなく、ボールペンやノートなどの文房具、マスク生理用品なども売られていた。ちょうど消しゴムがなくなりかけていた事を思い出し、売店の文房具コーナーへ立ち寄った。
お昼という事もあり、売店は混み合っている。特にお弁当や飲み物のコーナーは、生徒が押し寄せている。とはいってもベテランの店員がレジをさばき、あっという間に客も減ってきてうたが。
ふと、茜も弁当や飲み物のコーナーを見る。他にも袋に入ったパンやお菓子のコーナーも。
これらは母が添加物や農薬入りだと忌み嫌っているものだった。家では決して食べる事の無い食べ物。
「ああ、バターブレッド……」
特にパンコーナーにあるバターブレッドが気になる。大手メーカーの袋に入ったパンだ。丸く大きなパン。色も形も満月みたいに光って見えてしまう。その上、パッケージには「背徳のバターブレッド」なんて書いてあるではないか。
思わず唾を飲み込む。ああ、美味しそう。
しかし、パッケージの裏を見たら添加物が何行にも渡って書いてある。母が忌み嫌っている添加物入りの袋パン。
ダメダメ。こんなの食べたら母に怒られてしまう。
本音ではとても美味しそうに見えたバターブレッドだったが、すぐに棚に戻し、レジでは消しゴムだけ買った。逃げるように売店から出ると、学生食堂に行き、いつものぼっち席に座った。
ぼっち席。昼休みで混み合っている学生食堂だったが、ぼっち席は陰キャが数人いるだけで閑散としていた。茜の周りには、誰も座ってない。さらに茜はぼっちだと思わされた。真希の姿も探したが、テーブル席で陽キャ達と定食が食べているのが見えた。今日は真希とも会えない事を悟り、涙を堪えながら、母が作った超自然派弁当を開く。
今日も玄米ご飯。それに梅干し。鯖の塩焼きと卯の花、白菜の漬物。きっとどれも自然派で無添加で良いものなのだろう。茜はこんな弁当は好きでもないが、手間がかかり、栄養素もある事はわかる。
そだけに、あの背徳のバターブレッドが頭から離れない。母が添加物入りの禁断のパンだと否定すればするほど、魅力的に感じてしまう。
濃厚なバター。満月みたいに輝く色や形。それに背徳という文字。
こんな超自然派弁当ではなく、あのバターブレッドが食べたい。ああ、食べたい。
なぜさっき売店でバターブレッドを見てしまったのだろう。頭では母が食べてはいけない禁止している事は知っているのに、口や喉、お腹はあの背徳のバターブレッドを求めていた。
精一杯、バターブレッドの悪い面を考える。添加物が多い。母が否定している。それにカロリーも高かった。確実に健康には良くない。美容にだって良くないだろう。
それでも。
茜の頭の中では、さっきのバターブレッドがグルグルしていた。回転木馬のようにグルグルし、止まらない。ああ、食べたい。きっと美味しいんだろう。バターの良い匂いもするんだ。
うん? バターの良い匂い?
鼻をクンクンさせると、本当にバターの良い香りがした。
匂いを辿ると隣でバターブレッドを食べている人がいた!
しかも今朝恥をかかされたヤンキーくん。ヤンキーの品川が、あのバターブレッドに齧りついているではないか。
表面はさっくりしているのか、咀嚼音も聞こえる。もぐもぐもぐもぐ……。
お、美味しそう……。
それに自分の隣に品川が座るのは、意外だった。こういう時、必ず人に避けられ、ぼっちになってしまう茜は、普通に隣に座る品川を見直した。一匹狼で浮いている品川だが、根っからの悪人ではなさそう。何も考えていない可能性もあるが、頬を少し赤くし、バターブレッドを齧る彼は無防備に見えた。派手なヤンキーに見えるが、きっと中身は自分と同じ高校生である事は変わりない。
それにこんなバターブレッドを美味しそうに食べている。確実に悪い人じゃない。母のように「悪魔の添加物入りパン」などと文句を言っている人より、絶対いい人に見えてしまった。
「ああ、美味しそう。そのバターブレッド美味しそう」
「は?」
品川が食べていたバターブレッドを見つめていた。少し物欲しそうに。
「いいな。私なんて母が作った超自然派弁当だよ。ああ、バターブレッド美味しそう」
「お前、何言ってるんだ? 同じクラスの黒澤かよ。何だよ、超自然派弁当って。宇宙語使うなよ」
「ああ、そのバターブレッド美味しそうだよぉ。食べたい、食べたい」
「気持ち悪いな。目をキラキラさせてこっち見るなよ!」
品川は口が悪かったが、母よりはマシに見えた。母はもっと口汚く攻撃的だ。それ以上に手にしているバターブレッドが美味しそうで仕方ない。
「ああ、そのバターブレッド食べたいよ。添加物入りでダメって言われると余計に食べたいんだから」
「気持ち悪いな! ああ、わかったよ、くれてやるよ!」
品川がバターブレッドを二等分に引き裂いた。ジャラジャラと手首のアクセサリーが揺れる音が響く。品川の手が大きいのでバターブレッドは小さく見えたが、茜の手に渡ると、二等分でも大きく見えた。
半分の月。半月になったバターブレッドでも、ふわりと良い香り。バターの濃厚で甘い香りが鼻をくすぐる。
色も綺麗な黄色。本当の月みたい。表面はさっくりとした生地。中は層になったデニッシュ生地だろうか。ああ、食べたい。母に禁止されればされるほど食べたい、背徳のバターブレッド。
肉も牛乳も卵も白砂糖も全部禁止されていた。このバターブレッドには、母が忌み嫌っているものが全て詰まっていたが、食べたい。食べたくて仕方ない。
思い切って、前歯で齧りつく。こんな下品な食べ方だってきっと良くないのだろうが、品川の真似をしたくなった。親鳥の真似する雛みたいな。これって刷り込み?
「お、美味しい!」
口に入れたバターブレッドは、想像以上にフワフワ。想像以上にバターがじゅわっと広がる。そして甘やか。皮肉にも母が忌み嫌っていた事で、余計に美味しくも感じてしまう。ああ、とっても美味しい。
「美味しい! こんなの初めて!」
目覚めてしまった。バターブレッドの味に目覚めてしまった。茜の目はうるうるとし、反射したようにキラキラ輝く。
「こんな美味しいもの初めて食べた!」
「ちょ、なんだ……?」
「品川くん、ありがとう。こんな美味しいもの初めて食べた! 品川くんのおかげだよ」
感動してそう言っただけだが、品川は顔が真っ赤になっていた。派手な鳥でもオカメインコのようの見えた。あの丸くて赤いほっぺたのインコ。
「ちょ、うっせーよ!」
なぜか品川は猛ダッシュで学生食堂から逃げて行ってしまった。
「品川くーん?」
一人残された茜は、首を捻ってしまうが、口の中はまだまだバターの味が残っていた。濃厚で甘い、幸せな味。初めて体験する背徳なバターブレッドの味だった。
「品川くん?」
茜は首を傾げる。
彼が顔を真っ赤にし、猛ダッシュで逃げた理由は、茜には全く分からなかった。