澪標の在処
澪の消息が途絶えて、早くも数時間が経った。
一貫して彼女の捜索を主張する烏梅は相当苛立っており、今にも勝手に飛び出して行かんばかりの勢いだったが、白夜に宥めすかされる形で現世へ連れられ、協力を依頼した知り合いだという人間────傍系の貴族当主と私立探偵を兼任している男、比良坂悼吏の事務所を渋々訪れていた。
霊脈の流れと土地の気候に沿って二十四の「郷」で区切られている皇国の行政区画の一つ、啓蟄郷にあるその事務所は、障子や襖で部屋を仕切り、床に畳を敷き詰める大和特有の建築技法で建てられたものが多い薄明町や隠世では余り見掛けない────とはいっても、単に烏梅が疎いだけで、最近は双方でも着実に増えつつある────西洋風の造りだった。
白夜が所持していた合鍵で通された客室には、年季の入った深い黒檀の木質床に羊毛の敷物が敷かれ、その上に背の低い鋼鉄天板の机と布張りでやや固めの長椅子が並ぶ。壁に嵌め込まれた硝子窓の枠には亜麻と麗糸の窓掛けが吊るされ、外から取り込んだ光を柔らかく変えていた。
今まで書籍でしか目にした事の無かった異国の家具が品良く配置された内装は、外出範囲が薄明町の近郊と隠世に止まっている出不精気味な烏梅にも、不思議と居心地の悪さを感じさせない空間だった。
テーブルに用意されていた、これまた見慣れない異国の菓子と飲み物────バターをふんだんに使ったであろう香気を漂わせるクッキーとマドレーヌ、深い赤褐色の水色をした紅茶を勝手知ったる様子で遠慮なく摘み、その味に相好を崩して呑気に寛いでいる白夜を横目に、烏梅は何とか不満を飲み下し、協力者が来るまでの間、さして興味の無かった比良坂家について軽く思い出してみる。
────比良坂家。
大和皇国において古くから連綿と続く術士の家系であり、生者の世界から死者の世界へ続く境界・黄泉比良坂から一部を賜り、それを姓として冠する一族。
彼ら彼女らは冥界の女神の末裔であるが故、この家門に生まれた者は皆生まれながらにして葬送の統轄者であり、死後の安寧の守護者であり、黄泉路への案内人でもある。
生を終え、完全に無防備かつ剝き出しとなった魂を安穏に導かねばならない家業の性質上、死者が迷い込みやすい、あるいはその引き金となりやすい異界に関する文献や情報が他家とは比べ物にならない程豊富で、迷える魂……転じて「迷子」を見つけ出す術に長けている。
死者と密に接する墓守的な側面を有する為、産まれる子供には厄除けとして、例外なく不吉であったり、悪い意味合いを持つ漢字を使って名付ける風習がある────。
道中で白夜から聞かされた諸々をぼんやりと振り返っていると、不意に廊下からバタバタと忙しない足音が近付き、次いで勢いよく扉が開かれる。
「申し訳ありません、お待たせしました……!」
謝罪と同時、飛び込むように入室してきたのは、仕立ての良い洋服に身を包んだ、薄っすら赤みがかった淡い茶髪の青年。
自分なりに予想していた人物像を大きく裏切る風貌と感じ取れた霊力に、烏梅は密かに目を見張った。
(此奴が白夜の知り合いの……随分若いな。傍系とはいえ貴族当主の術師だというから、もっと年配で、如何にも食えなさそうな奴かと思っていたが……)
永く生きた妖や優れた術師であれば、他者が纏う霊力・魔力・妖力で、大雑把ながらも人となりを判別する事が出来る。無論、烏梅も白夜もそれが可能だった。
いくら白夜と既知の仲である人間とはいえ、目に入れても痛くない程に可愛い、何よりも大切な澪の捜索へ協力させるのに反感を抱いていた烏梅だったが、彼から感知できた霊力は柔和で暖かなもの。それは一応の及第点に達した為、最低限の警戒は解く気になれた。
改めて、青年────悼吏の全容を見遣る。身長はそれほど高くはないが、秘めた力強さを感じさせる、すらりと均整の取れた身体。穏やかながらも意志の強そうな瞳がどことなく澪と似ている気がしたが、此方は透き通るような、光の加減によっては飴色や、蜂蜜色にも見える明るい茶色だった。顔立ちは人間の男として十分端正と言っていい。
しかし、若輩で傍系とはいえ、貴族の当主を勤めている重圧と責任を十分に自覚しているのだろう。浮かぶ表情は決して見掛け倒しではない、若さにそぐわぬ厳粛さが見て取れた。
「何、気にすんな。突然依頼をしたのはこっちだし、協力してくれるだけでも有り難いんだ。むしろ急に押しかけて来て悪いな、悼吏」
「そう言って頂けると助かります、白夜さん。えっと、其方の方が……」
白夜と親しげに言葉を交わした後、悼吏は目線を此方に向け、隣に座する烏梅の姿を認める。その一瞬、彼の瞳の中に金粉が舞ったかのような、微かな煌めきが視界に入った。恐らく、何かしら「瞳」に関する異能を発動させ、それで此方の情報を得ようとしているのだろう。
他者から一方的に探られるのは、当然良い気分にはならない。が、その気になれば単身で国一つ亡ぼせる圧倒的な力を持つ妖が突然来訪したともなれば、人間に友好的な妖が同伴していても警戒が強くなるのは当たり前なので、特段咎めるような事でも無い。
だが、初対面であるというのに、今まで会って来た者達のように怯えも嫌悪もせず、かと言って媚びる様子も見せない、真っ直ぐと返される視線や毅然とした態度には、何処となく気まずさを覚えた。
「ああ、化け鴉の烏梅だ。身内以外に名前で呼ばれるのは好まないから、大旦那、あるいは仙羽堂とでも呼んでほしい。で、来る前に話した通り、今回の依頼は此奴の養い子である人間の娘、澪の居場所の特定だったが……頼んでいたのは終わったか?」
そんな烏梅の心境を知ってか知らずか、簡潔に本題へと切り込んだ白夜の言葉を受け、悼吏は真剣な面持ちで一つ首肯すると、テーブルを挟んで二人と向かい合う形で腰掛け、口を開く。
「綺紗羅通りで白夜さんが回収して来て下さった、壊残術式の精査結果ですね。結論から申しますと……御息女は、人間の術師と妖の男女複数人がかりで、突発的に生じた異界に飛ばされたものと考えられます」
悼……おそれる。おののく。いたむ。心が悲しみの為に動揺する、人の死を悲しむ意味を表す。