鴉の尾羽を踏んだのは
時は数分前に遡り、場所は仙羽堂の客室。
心配しつつも澪を一人でのお使いに送り出し、暇を持て余した烏梅が、店にふらりと立ち寄って来た昔馴染みの鵺────世間一般で語られる猿の頭・虎の四肢・狸の胴体・蛇の尾を持つ生き物ではなく、虎鶫という鳥の妖だ────白夜と和やかに談笑していた矢先の事だった。
────────シャキンッ!
突然、何よりも大事な繋がりが途切れた感覚がした。
(……は?)
それは、烏梅の最愛が、澪が薄明町から丸ごと姿を消した証明。二人を繋ぐ縁が断ち切られた音だった。
何の前触れも無く訪れた非常事態に、烏梅の美しい顔から感情がごっそりと抜け落ちる。
「……だ……」
「? 烏梅?急に黙ってどうした……っ!?」
「……何処の痴れ者だ、私の澪を拐かしたのは……!」
異変に気付いた白夜の声など、もう耳に入らない。烏梅の怒りに呼応して迸る殺気と共に、禍々しい妖気がぶわりと立ち昇り始める。
────二千年程前、大和が未曾有の大飢饉に見舞われた時代。人も妖も、生存競争を勝ち残るべく殺伐としていた頃。
不運にもそんな時世に生まれ落ち、それでも生き抜く為にありとあらゆる死肉や猛毒、呪詛や穢れまでをも喰らい続けた結果、ずば抜けて美しい人の男の姿と、毒や呪いを受け付けない特異な体質を獲得した鴉の妖。それが烏梅だ。
今でこそ多少マシになっているが、妖の中でも突出した強さ、呪いや死穢に満ちた妖気は、周囲から畏怖の念を抱かれ、長らく距離を置かれる要因であった。
その反面、類稀な美貌故に単なる一挙手一投足も艶めいた仕草として映ってしまい、色めきだった輩に群がられたり、此方の意思を無視して肉体関係を求められた事も少なくない。
言い寄って来た連中には微塵も興味が持てず、煩わしさしか感じられなかったので、秋波を余さず躱したり無視していれば、皆その内「冷たい方」と負け惜しみのように詰って離れていったし、しつこく纏わり付いて無理矢理既成事実を成立させようと迫って来た者は、手段を問わず徹底的に排除してきた。
そんな烏梅にとって、七年前の冬の夜、氷雨が降っていたあの日。生後間もない赤ん坊────後に澪と名付ける人間の子を発見し、見つけた以上保護してやらねばと、仕方なしに抱き上げた瞬間。
普通の赤ん坊らしく火が付いたように泣き喚き、全身で嫌悪や拒絶を示すどころか、嬉しそうに笑い掛けられた時の衝撃と喜びたるや、筆舌に尽くし難かった。
それから数年経った今もまだ、無邪気に真っ直ぐ慕ってくれる可愛い子。
恐れられてきた体質を知っても尚、大事な家族には変わりないと、迷う事無く言い切ってくれた愛しい子。
掛け替えのない、唯一無二の存在との繋がりが途絶え、烏梅が平静を保てるはずが無かった。
(誰が、どうやって私と澪の縁を断ち斬った!?いや、そんな事はどうでもいい、早く澪の居場所を突き止めないと……!)
幼い頃からしっかりしていて我儘も少なく、手の掛からない子であるとはいえ、澪はまだ七歳。その上、彼女はまともに身を守る術を持っていない。
外敵に遭遇した際の逃げ方や、危険に巻き込まれた時の正確な対処の方法なんて、烏梅は何一つ教えていなかった。
妖や半妖の子供に比べるとどうしても頑丈さに欠け、身体も未熟な今の澪に、護身の訓練は負担が大きいと判断していたのが裏目に出た。
(普段から防犯用に、護符の十や二十は持たせておくべきだった……!)
後悔先に立たずと頭では理解しているが、焦燥と不安は拭えない。逸る心のままに膨大な妖力を練り上げ、微かに残る澪の痕跡を辿ろうと広範囲に探知の妖術を展開────
「一旦落ち着け」
────しようとしたところで、バシィッ!と強めに頭を叩かれ、密集していた妖力と重苦しい威圧感が一瞬で霧散する。
何故と遺憾の意を込めて叩いた張本人、白夜を睨み付ければ、呆れを浮かべた瑠璃と琥珀の瞳とかち合った。頬杖をついた拍子に、毛先に褐色と黒が混じった白銀の髪が煌めく。
「お前な……何の説明も無しにいきなり殺気立ったかと思えば、あんな広範囲に術を展開しようとしたんだから、止めない訳が無いだろ。下手すりゃこの辺一帯の住人が、お前の妖気に当てられてぶっ倒れる所だったぞ」
「………」
至極真っ当な指摘に反論の余地も無く、バツが悪くなってそっと無言で視線を逸らす。
三千年近くの歴史を持つ大和の建国初期から存在する大妖であり、実質的な育て親。澪と同じく、出逢った頃から厭わずに接してくれる数少ない相手でもある白夜には、烏梅も頭が上がらなかった。
「それで?澪が攫われたってのはどういう事だ」
「……今しがた、私と澪の縁が絶たれた感覚があった。私とあの子に血の繋がりこそ無いが、物理的に距離が離れた程度でこうなるなんて、通常だったら有り得ない。そうなると、澪は何かしらの呪具で強制的に縁を断ち切られた後、隠世や薄明町と異なる領域────俗に言う異界に連れ去られた、あるいは飛ばされたと考えるのが妥当だろう」
「……ほう」
淡々と述べられた推論に、白夜の顔色が変わった。
────異界。文字通り、ヒトが生きる世界とは異なる法則で動く別世界。または、何らかの要因で偶発的に生み出され、半永久的に隔絶された危険区域・異空間の総称。
これらは力のある魔法使いや術士が任意で創造した結界のような一時的な産物や、正しい手順さえ踏めば安全な往来が可能である裏世界、異境と呼ばれる領域とは全くの別物であり、主に迷子になった死者の魂や歪んだ情念、都市伝説などに基づいて発生するとされている。
その危険度はピンキリだが、大規模なものになると一つの地方が丸ごと呑み込まれて消失したり、負の魔力や瘴気に誘われた害悪なモノが棲み付いて邪気を撒き散らし、立ち入り禁止区域に指定せざるを得なくなるなど、甚大な被害を及ぼすものもある。
自衛の手段を持たない、幼い澪が放り込まれるには、余りに危険過ぎる領域だ。
「澪の気配が途絶えた場所は?」
「綺紗羅街の辻付近」
綺紗羅街は、呉服屋に組紐屋を始めとした服飾関連の店や、それから転じた「縁」にまつわる専門店が軒を連ねる北東の商店街だ。
澪を赤子の頃から知っている住人の一人で、大呉服屋の女主人を務める鬼女・お絹がこの街区のまとめ役であるが、妖との友好関係と治安を保つ目的で、現世でそれなりの影響力を持つ術師の一族・貴理山家────元々は切厄魔という家名だった────の人間が悪縁を断ち切る縁切り屋として常駐している。
総元締めが溺愛する養い子が行方知らずともなれば、誰かしらが気付いて即座に連絡が来ていてもおかしくない筈なのだが……
「成程……あの場所は鬼門に位置しているし、辻は境界としての役割も備えているから、転送型の術式か何かを仕掛けるには相性の良い場所だ……現時点で烏梅しか気付けていないなら、高確率で阻害系の術も同時に複数掛けられていると見ていいだろう……外部の連中が澪の動向を逐一把握できるとは考えにくいから、犯人は内部の術師か妖……そういや、貴理山の娘は、以前烏梅にしつこく言い寄ってた一人だったな……縁切りはあいつらの専売特許だし……犯行に及ぶまでの手間を推計すると、単独犯ではなさそうだが……今直ぐ現場に向かえば、何かしら痕跡は残ってるか……?」
情報を整理する為か、口元に手を当ててブツブツと考察を呟いていく白夜。
平時は飄々として掴み所の無い優男だが、永く生きているだけあって、儚げで繊細な美貌と、気さくで面倒見の良い性格の裏に老獪で策士な一面を隠し持っている。国内でも特に長命な妖である分、知識や経験、人脈に至るまで多方面に渡って豊富なので、味方に居れば大変心強い。
しかし、一刻も早く愛し子の捜索に向かいたい烏梅には、その様子すら気に障ってしまう。
「もう澪を探しに行っても良いか」
「いや、まだ待っていてくれ。異界絡みの案件なら、比良坂家の人間に協力を仰ぎたい。澪が居る場所の座標を特定するには、専門知識がある彼らに頼るのが一番手っ取り早くて確実だ」
「そんな悠長な事を抜かしている場合じゃ無いだろう!」
「烏梅。俺だって澪が心配だがな。目星を付けないまま無闇に探し回ったって、徒に体力も時間も消費するだけで何も良い事は無いぞ」
「だが……!」
「気持ちは分かるが、まずは少し冷静になれ。俺は比良坂の知り合いに話を付けてくるから、お前は此処で待機だ。良いな?」
「…………分かっ、た」
着物の裾を捌き部屋から退出していった白夜の背中を見送り、烏梅は爪が食い込む程拳をきつく握り締める。
たった独り、知らない場所に取り残されているであろう澪の事を思うと、胸が張り裂けそうで。
「…………澪……」
今はまだ無事を祈る事しか出来ない己が、酷く歯痒くて仕方が無かった。