第2章 巻き戻り
「お嬢様、お嬢様、大丈夫ですか?」
体を揺さぶられて目を開けると、マーシャさんの酷く心配そうな顔があった。あれ? なんだかマーシャさん、今日は大分若々しく見えるけど、どうしたのかしら?
もしかしてこの前開発した美容液の効果が現れたのかしら?
「旦那様が亡くなられたばかりだというのに、続けてお嬢様まで天に召されてしまうのではないかって、皆そりゃあ心配したんですよ。何日も眠り続けていらしたから。ああ良かった。目を開けられて……
こんなに涙を流されるなんて、悲しい夢でも見られたのですか? 大丈夫ですよ。もう目を覚まされましたからね」
心配? 私のことを心配する人なんてこの家にいたかしら? そう思ってハッとした。
私は生まれてまもなく祖父母の元に預けられて育ったのだけれど、祖母の後を追うように祖父が亡くなった後、王都の両親の屋敷に引き取られたんだわ。そして、乳母のマーシャさんとも離れ離れにされて。それなのに、何故ここにいるの?
私はゆっくりと辺りを見渡した。するとそこは西日だけが射し込む王都の暗い自室ではなく、祖父母と暮らしていた辺境にある、コールドン侯爵領の屋敷の私の部屋だった。そう、私が唯一幸せだった場所。
えっ? 何故? 王宮のパーティーで殿下から婚約破棄をされたところまでは覚えているのだけれど、その後はどうなったのだったかしら?
もしかしたら両親にまたここへ追いやられたのかしら? もしそうだとしたら凄く嬉しいわ。もうあの人達とは暮らしたくはないから。
だけど旦那様が亡くなられたばかり……とはどういう意味なのかしら?
「それにしても侯爵様ご一家は相変わらず冷たいですね。お嬢様が高熱を出されて意識も戻らないというのに、旦那様のお葬式が終わるとすぐに王都に戻ってしまわれるなんて。
その上、お嬢様の体調が戻ったらすぐに王都に連れて来るようにですって。お迎えに来て下さる気もないんですよ、まったく!」
憤懣やる方無いという風にマーシャは言った。お葬式が終わってすぐ?
私は自分の手を見つめた。するとそれはまだ子供の手だった。爪もまだ短く切られている。もしかしたら……
「ねぇマーシャさん、私は今何歳なのかしら?」
私がこう尋ねるとマーシャさんは瞠目した。
「お嬢様しっかりしてください。お嬢様は先々月十一歳のお誕生日をお迎えになったところではありませんか。あの時は旦那様もあんなにお元気だったのに。ううっ……」
十一歳……
時が巻き戻ったの? それとも生まれ変わったの? わからない。
でも、どちらにしても今ならまだやり直せるかもしれないわ。だって私がエドモンド殿下と初めて会ったのは、お祖父様が亡くなった九か月後だもの。
そう。そしてその一月後、私が十二歳になった時に殿下と婚約したのだ。
でも、あの時殿下と婚約なんてしなければ、私は無駄な六年を過ごす必要はなかった。
不釣り合いだと皆に蔑まれ、罵られ、嫌がらせをされることもなかった。
そして、唯一愛し信じていた人に裏切られ、嘆き悲しむ必要も……
そうか。
もう一度やり直せるのなら、別の人生を生きられる可能性があるのならば、私は素早く行動に移さないといけないわ。
だって、殿下の婚約者や側近候補を見繕うための、殿下の誕生日パーティーの前まで後九か月。それまでに、なんとか参加しなくても済む方法を見つけなければならないのだから。
マーシャさんは私の頭を心配してくれていたけれど、私の頭の中は以前同様、クルクルとよく回転してくれた。
私はそれが嬉しくて、毛布を頭まですっぽり被ると、その中で小さくガッツポーズをしたのだった。
✽✽✽
「何故さっさと王都にやって来ないのだ! 何度も催促させおって。
しかも今度は私達が迎えに来ないと王都の屋敷には来ないだと? お前は一体何様のつもりなんだ? 」
父であるコールドン侯爵が辺境の領地の屋敷にやって来たのは、お祖父様の葬式から二か月近く経った頃だった。
体調が良くなったら王都に来いと命じられていたが、体調が戻らないと私は言い張って王都へは行かなかった。
王都になど今後一切出向くつもりはなかった。そんなことより私にはやるべきことがたくさんあったのだから。
以前の人生においての私の最大の過ちは、お祖父様が亡くなる寸前に言い残した言葉を、お祖父様の死のショックで忘れてしまったことだ。
そのせいで私は取り返せない失敗をして、それをずっと後悔していた。だから、今度は同じ過ちは絶対にしない。
どうやら私は生まれ変わったのではなく、巻き戻った人生を生きているようだった。お祖父様の死によるショックで熱を出した時、その影響で以前の記憶を思い出した。
まあ、王太子殿下から婚約破棄された後の記憶は思い出せないけれど、きっとろくでもない記憶だったのだろう。簡単にそれが想像できるのだから、無理に思い出そうとは思わない。
私は歩けるようになると、すぐにお祖父様の部屋の隠し扉を開けて、そこから書類の入った封筒と手提げ金庫を取り出した。
そしてお祖父様が最も信用していた執事のカーリーさんと護衛のパットンさん、そして侍女頭のアリエッタさんと共に公証人役場を訪ね、お祖父様から頼まれた書類と印を預けた。
公証人役場は王侯貴族だろうが平民だろうが、それこそ金持ちだろうが貧乏人だろうが関係なく、公正に判断して業務を執行してくれる、この国で唯一正義が行われる場所だ。
問題が起きてからでは、裁判をしても立場の弱い者には勝ち目などほとんどない。だから問題が起きそうだなあと感じた時は、すぐさま公証人役場へ出向くのが貧乏人のセオリーだそうだ。
*
巻き戻る前の私は、ずっと離れていた両親や兄とようやく一緒に暮らせることが嬉しくて、今まで愛し慈しんでくれた領地の使用人の皆さんの今後を思い遣ることを失念していた。
そのせいで多くの使用人達が、ろくな手当てももらえずに父に解雇されてしまったのだ。
後でそのことを知った私は、彼らを再雇用するか、さもなければちゃんとした職場への紹介状を書いて欲しいと父に懇願した。
しかし、その願いは叶えられることはなかった。私は愚かにも、自分の心の支えとなってくれていた人々を自ら手放してしまったのだ。
そのせいで王都での私は、誰にも頼れず、甘えられず、そして愛されることはなかった。孤独で寂しくて悲しくて辛かった。でもそれは、まさしく自業自得だったのだ。
お祖父様はそんな私の将来を憂えていたのだろう。だからこそ屋敷で働く人達に私の味方になってもらえるように、領地の責任者を定め、使用人の皆さん身分を保証する書類などを以前から準備していたのだ。そして遺産の一部贈与も。
それなのに、私がそれをすぐに公証人役場へ提出しなかったせいで、先にそれを父親に見つけられて握り潰されてしまったのだ。
お祖父様としては、できるなら早めにその書類を役場へ提出しておきたかったのだろうが、提出された書類には有効期限があって、一年ごとに新しく提出しなければならなかった。運悪くお祖父様が倒れたのは、期限の直前だったのだ。
仕事に関することは執事のカーリーさんと全て情報共有していたお祖父様だったが、遺言に関しては彼には秘密にしておかなければならなかった。
それはカーリーさんも受取人になっていたために、後で疑惑を持たれないようにするための配慮だった。
だから私は常日頃からその書類のことを忘れるなと、口酸っぱくお祖父様から言われていたのだ。それなのに。
私はその後王都で偶然に逢ったマーシャさんに、解雇になってしまったこと、何もできなかったことを謝罪した。
いつもふっくらしていたマーシャさんはすっかり痩せてしまっていたが、昔と変わらない優しい笑顔でこう言った。
「解雇のことはお嬢様が気に病むことではありませんよ。
それに、お嬢様が王都へ行かれてしまったことも裏切りだなんて誰も思ってはいません。子供が実の両親と暮らしたいと思うのは当然ですからね。
お嬢様、今はお幸せですか?」
幸せであるはずがなかった。
私は愚かだった。十一歳まで放っておかれていたのだから、両親が私をどう思っているのかくらいは気付くべきだったのだ。
血の繋がりなど大したものではなかった。私にとって大切な人達は領地の人々だった。それなのに。
だけど私は本当のことは言えずに、この数年で学んだ偽物の笑顔を浮かべて、幸せよ、と答えた。
そしてマーシャさんと別れた後で、私は声を出して泣いたのだった。
そして、何故か私の人生は巻き戻った。
過去の失敗を教訓にして、今度こそ私は自分にとって大切な人が誰なのかを間違ったりしない。目覚めたあの日、私はそう誓ったのだった。




