三万円の相棒と、唐突の別れ
世間では夏休み後半に差し掛かった、あるバイトの日。
青年は盛大に寝坊した。
出勤時間は十七時で、起床したのが十七時二分。
情けないのが、バイト先からの電話で起床した事だ。
気が抜けてたとか、寝るのが遅かったとか、そんな見苦しい言い訳は置いておき、急いで支度し家を出る。
二年の付き合いである愛用の白いクロスバイクに跨ると、大急ぎでペダルを漕ぎ、四.四キロ離れたバイト先へ向かった。
結果、約四十分の遅刻。
二十を過ぎた大人が何をやってるんだかと呆れつつ、駐輪場に自転車を停め、大急ぎでタイムカードを切り、フロアに出る。
シフトが被っていた他のスタッフさんに、「今度何か奢ります」と頭を下げた。
年下にこんな姿見せるの、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。
醜態を晒した青年に対して、年下の大学生は愛想笑いを漏らして帰って行った。
それから、青年は八時間二十分の労働に身を投じた。
お金の有り難みと接客業の過酷さを、今日もその身に刻んでいく。
時刻は二十六時。
フルタイムでシフトに入っている青年の、退勤時間である。
実家暮らしとはいえ、フリーターである青年はお金を稼ぐ必要があった。
毎月何かと出費は嵩むし、趣味に使いたいお金も要る。
貯金は全くしていない。
危機感はあるが、中々難しい事だと、思考停止気味に考えていた。
タイムカードを切って退勤し、帰りついでにゴミを捨てる。
ふと、青年の頭にこんな事がよぎった。
あぁ、そういえばレンタルDVDの返却期限が明日の十時だった。
正確には、明日ではなくもう今日。
つまり、期限まであと八時間なのだが。
一度家に帰って、DVDを返却しに行こう。
普段の予定管理が雑な青年は、そう思い立った。
レンタルDVDショップは閉店しているが、二十四時間使える返却ボックスがある。
十時までにそこへ入れれば、延長料金は発生しない。
レンタルDVDショップは、青年の家とバイト先との中間地点あたりにある。
一度家に帰ってDVDを取り、来た道を戻って返却するのは骨だが、自転車があれば楽に移動できる。
自転車万々歳。
本当に買って良かったと、改めて自転車に感謝していた。
地元の自転車屋で買った、三万円のクロスバイク。
店主に「クロスバイクは無いか?」と聞き、「ウチでは扱ってない」と返事を受け、渋々店内を見渡していた時に見つけた物だ。
白と黒のデザインに惚れ込み、即決で購入した、自慢の一品。
ちなみに、青年もそうだが、店主もこれがクロスバイクと知らなかったらしい。
知った時は、「何故そんな人間が自転車屋を営業できてるのか?」と思ったが、今となってはどうでも良い。
その店は、ネットのレビューで酷評まみれだったし、今更なのかも知れない。
いつかコイツに跨って、琵琶湖一周してやるんだと、思い馳せていた。
遅刻の窮地を幾度も救ってくれた、そんな頼れる相棒。
この自転車が有れば、県内の何処にでも行ける。
そんな気さえしていた。
そんな自慢の相棒が、青年の職場の駐輪場から、姿を消していた。
数分の思考停止。
復活後、辺りを探しても、何処にも痕跡がない。
あ、盗られた。
青年の頭に思い浮かんだのは、何処か他人行儀な感想。
三万円の相棒が、盗られた。
帰宅の足が、無くなった。
元々、日頃から自転車にカギを掛ける習慣を付けていなかった青年。
特に、本来夜間での勤務が多く、盗られる心配がほとんど無かった。
この日は偶々夕方入りだった上に、遅刻して急いでいたので、カギを掛けるという防犯行為が完全に頭から抜けていた。
ましてや、世間は夏休み。
来客数が増えれば、その中に良からぬ企みを持った人間が紛れているリスクも高くなる。
特に中高生なんて、夏の魔力に課せられて悪事を働いてしまう一番危うい時期だろう。
警察に通報するか?とも考えたが、職場に個人的な用件で警察を呼ぶのは、若干気が引けた。
それで社員さんに事情聴取等で迷惑をかけるのも嫌だと、通報を断念。
電車も動いていない深夜。
四.四キロ先の自宅まで、歩いて帰るという選択を取った。
家までの長い道のりの中、青年は自転車の盗難被害に遭ってから取るべき行動を、携帯で調べる。
まず、盗難届を出さなければいけないらしい。
しかし、それには印鑑と本人確認の身分証、そして防犯登録カードが必要になる。
家にあったかな?と不安になるが、それさえ有れば最悪被害届は出せる。
そうすれば、放置自転車として誰かが使い、事故が起こっても、自分に責任は飛んでこないらしい。
降り掛かる余計な災いは、未然に防がないと。
そう考えながら、一時間と二十分かけて、四.四キロの道のりを歩ききった青年は、家に入って自室を捜索。
防犯登録カードを探した。
結果から言えば、青年は自転車泥棒に泣き寝入りする事になった。
レンタルDVDも、返しに行く気力が残っておらず、結局延長。
防犯の大切さと、自転車の有り難みを、身をもって味わった一日。
今となっては、友人やバイト先の知人達に、笑い話としてその出来事を語っている。