92.相打つ赤碧
水竜。
今回の敵だ。
青く長い体躯は見上げるほどで、あまりのスケールに遠近感が狂いそうになる。
水面から半分ほど身体を出してこちらを見下ろしているが、攻撃を仕掛けてくる様子は今のところない。
ならば、と神谷は力強く床を踏みしめ、
「何もしてこないならこっちから行く!」
「ちょ――――」
園田が制止するよりも早く駆け出し、竜の頭部へ向かって大ジャンプ。
拳を振りかぶり先手を取ろうとする。
だが、竜は素早く頭を下げ、とぷんと静かに水に潜り込む。
「あえ」
拳は空を切り、空中に投げ出された神谷の身体は落下を始める。
恐る恐る下を見ると――大口を開けた竜が水中から上昇していた。
下からすくい上げるように迫る竜。とっさにプラウの力を発動させようとするも思いのほか竜のスピードは速く。
ぱくり、と食べられてしまった。
「え?」
「は?」
あまりにも流れるように口に吸いこまれてしまった神谷を目の当たりにして、園田とアカネはしばし呆け――遅れてぶわ、と冷や汗が噴き出す。
「沙月さん!?」
「何やってんのよあのバカ!」
間に合うか。
飲み込まれてはいないか。
そんな望みにかけて大鎌を構えるアカネだったが、竜の様子がおかしいことに気付く。
閉じた口元がぶるぶると震え、隙間から白い光が漏れ出している。
「あれは…………」
ぎちぎちと、まるでトラバサミを無理やり開くかのように竜の口が開いていく。
その口の中には神谷がいた。腕力と脚力でむりやりこじ開けているのだ。
だがその表情には苦悶の色が濃く、ぎりぎりの状態で持ちこたえているようだった。
「ね、ねえーっ! ここからどうしたらいいかなあ!」
「あんた考えなしに突っ込んで死にかけるのやめなさいってば! サルでももうちょっと学習能力あるわよ!」
雨風に乗って聞こえてくる「ごめーん!」という声に軽く舌打ちしつつも竜に向かって走るアカネ。
あの長い首を切り落とせばそれで終わりだ――そう考えての突進。
しかし彼女は気づかない。それは神谷と同レベルの発想だということに。
濡れた足場をものともせず跳躍。目指すは首元。
だが空を飛ぶ際、竜が目を細めたのが見えた。それはまるで愉しむような表情にも見えて。
まずい、と直感したが跳びあがってしまった以上、止まることはできない。
直後、竜は勢いよく口から神谷を吐き出した――そう、向かってくるアカネめがけて、弾丸のごとく。
「あがっ!」
「……っぐ!」
激突した二人は、屋上に叩き付けられ――る、直前に園田が作り出した空気のクッションによってふわりと着地した。
苦し気に起き上がる二人に駆け寄ると、
「だ、大丈夫ですか?」
「っ、ごめん」
「……慌てすぎね、あたしたち」
先ほどの状況は、見た目以上に危険だった。
危うく初っ端から神谷がやられる――それを避けるためにアカネまで先走ってしまう結果になった。
今思えば竜の策略だったのではないかと思える。
神谷を飲み込んだり、かみ砕いたりするつもりは毛頭なく、助けようとした者を誘い込むためだった。非常に狡猾で、悪辣だ。
見れば竜は愉快そうに目を細めている。身体のサイズに反してかなり意地が悪い。
このプラウのテリトリーのスケール、そして巨躯から力で押してくるものだとばかり考えていた。
「これだけでかいとどこを攻撃すればいいのやら」
「頭潰せば死ぬわよ」
「でも大きすぎませんか……?」
頭部だけでも三人まとめて口に含めそうなくらいにはある。
地道に攻撃していくしかないか――そう考えていると、竜がおもむろに大口を開いた。
同時に降りしきる雨粒をはじめとした水がすさまじい勢いで口に集約されていく。まるでエネルギーをチャージするかのように。
「……やばくない、これ」
凝縮された水を集めた口――いや、もはや砲口だ。それはぴたりと神谷たちに照準を合わせているように見える。
(避け……、っ、だめだ!)
避けることはできる。だがそうすればほぼ唯一の足場が破壊されるのは間違いない。
周囲を見渡しても他に足場として使えそうな建物の屋上は数えるほどしかない。破壊されるたびに飛び移っても、いつかは全て破壊される。そうなれば待っているのは水中戦だ。
そんなものを強いられればどう考えても勝てるはずがない。
まずは足場から奪う――この状況では嫌になるほど効果的な戦法だ。当てれば大ダメージ、避けられてもアドバンテージを得られる。
三人とも水中で自在に活動できるような異能は持っていない。
強いて挙げるとすれば園田に可能性があるぐらいか。空気で頭を覆い、ジェットスキーのように空気を噴射すれば――そう思ったが、そこまで使いこなせない、という園田の言葉を思い出す。
ここに来る前、園田の異能については話していたのだ。
『空気を自在に操れば――もしかしたら、空を自由に飛ぶことだってできるかもしれません。ただそれは難しいんです』
操る、と言っても自由自在というわけではないのだと。
流動する物体を思うまま成形するのは非常に難易度が高い。水で粘土遊びするような感覚だと彼女は言っていた。だからこそ双銃があるのだと。異能の行使に必要なイマジネーションを補強するための、いわば補助輪のような存在なのだと。
だから今は弾丸やそれに似た形にしか成形できない。もしくは単純に風を吹かせる、先ほどのようなクッションを作り出す、など。
自由飛行となると、空気を状況に合わせゼロコンマ秒ペースで操り続けないといけない。それは水中移動も同じことだろう。
だからこの場には水を制することができる者がいないのだ。それがわかってやっているとすれば、あの竜は――やはり非常に狡猾というほかない。
「来る! プラウ・ワ――――」
「それじゃ無理よ! あたしがやる!」
巨岩の左手を呼び出そうとした神谷を遮り、アカネがその前に立ちはだかる。
何をするつもりなのか――そう思った神谷を無視し、アカネは懐からフィルムケースに似た小さなボトルを取り出し、蓋を開ける。そこに入った赤い液体を、開いた鎌の柄に流し込んだ。
「アカネちゃん、それって……」
「使うたびにいちいち自傷してらんないでしょ。だからあらかじめ溜めておいたの」
アカネの異能は血を捧げることで強くなる。しかし今まではその場でとっさに自傷するなどして血を出していた。それでは体力の消耗につながると考えたアカネは――事前に血を出しておくことにしたのだ。
こっそりと、すぐ直る程度の目立たない傷をつけて少しずつ血を集めた。
ただ誤算だったのが、想定以上に血が出なかったことだ。
(結局ボトル三つ分だけしか溜められなかったわね)
血を捧げられた鎌は瞬く間に赤く染まり、燐光を放ち始める。
自分の血では効き目は薄いが、それでも充分だ。
ゴッ! と凄まじい音を響かせ極大の水流ブレスが発射される。
まるで巨大な滝をまっすぐに叩き付けるかのような勢いに――アカネはしかし、真正面の大上段から大鎌を降り下ろす。
「だあああああああああッ!!」
深紅の刃と紺碧の大瀑布が激突する。
水流は真っ二つに切り裂かれていた。まるで水が大鎌を避けているようにも見える。
空間を断ち切るほどの切れ味。世界をも切り裂く刃。それがアカネの異能。
ならばここで劣ることはあり得ない。
途轍もない量の水は真っ二つに両断され、屋上は守られた。
後方の二か所でブレスが水面に衝突し水柱をあげる。
「はあっ、はあっ……どうよ」
荒く息をついて顔を上げる。
大技を防ぎ切った。ならば次はこちらの番だ――とそう勇んだアカネだった。
しかしその眼前。再び竜が水流ブレスのチャージを開始している。
「うっそでしょ……」
この水に満たされたフィールド。
エネルギーの源は限りない。
青き竜は、少女たちをあざ笑うように巨体を揺らした。




