72.日差しの下でこそ輝く天体は
小学生の時。
私が水やりをしていた花壇が、やんちゃなクラスメイトに踏み荒らされていたことがあった。
偶然その現場を目撃した私はとても悲しくて、でも怖くて何も言えなかった。
だから私は泣き寝入りした。誰にも言わず、自分の心に仕舞っておくことにした。
何かを起こすのが怖かったから。糾弾したとして、報復されたらと思うと身がすくむ思いだった。
しかし、『彼女』はすぐに気づいた。
その事件があった次の日の朝、教室で会った時、その子は開口一番こう言った。
「何かあったでしょ」
私はもちろん否定した。
しかし彼女は一度確信したら止まらないタチだったらしく、追求を続けた。
これはもう言わないと諦めてくれそうもないと思った私は正直に白状した。
そこからは大立ち回りだった。
花壇を踏み荒らしたクラスメイトに食ってかかり、殴り合いの大喧嘩――掴みあってそこらじゅう転がり、机を蹴飛ばし椅子を転がし、教室にいた生徒が巻き込まれるのを恐れて全員外に逃げ、騒ぎを聞きつけた担任教師が駆けつけてくるまでそれは続いた。
喧嘩をしていた二人ともが流した鼻血で服を赤く染めており、今になっても思い出すくらいにそれは鮮烈な光景だった。
当たり前だが、叱られた。
やんちゃなクラスメイトはむすっとしていたが、『彼女』はその間中ずっと泣きじゃくっていた。
これでは話にならないと判断した担任が「どうして泣いてるの?」と聞くと、ひっくり返った声で「怖かった」と返した。ならもうこんなことはやめなさいと担任は呆れていた。
それをはたから見ていた私は思ったのだ。
ああ、この子も怖かったんだと。
私と同じように、怖かったのに立ち向かったんだと。
のちに、なぜすぐに私の様子がおかしいことに気づいたの? と訊ねてみると、「いつもと笑い方が違ってたから」と答えた。
あなたの笑顔が好きなのに、その日の笑顔は全然好きじゃなかったから気づけたのだ、と言う。
突然褒められた気恥ずかしさと同時に、自分もいつか友達の様子がおかしいときにはすぐ手を差し伸べられるようになりたいな、と。
そう願った。
あれからどれだけ経っただろうか。
手の中で握られ、体温が移ってぬるい感触を伝えてくるゲーム機を神谷がぼんやりと眺めていると、コンコン、とノックの音がして、一瞬で現実に引き戻される。
「沙月ー? いるー?」
光空の声だ。部活で忙しいはずなのになぜここにいるのだろうか。
口を開こうとしたが、喉が詰まって上手く発声できない。
思わず軽く咳き込んでいると、
「入るよ」
がちゃ、と控えめな音を立てて光空が入ってきた。
今のこの状態をどう説明すればいいのだろう。
【TESTAMENT】のことは話せない。
さりとてここまで憔悴しているのを『何もない』では済まされない。
「ど、どうして……部活で忙しかったんじゃ」
「うん。だからなんとか抜け出してきた」
見れば肌が汗ばんでいるし息も少し荒い。
学校からここまで走ってきたのだろう。
「なんで……?」
「最近、沙月の様子がおかしかったから。昨日も何かあったみたいだし、その頬のガーゼも……それを差し引いても変だよ」
やはり光空にはわかっていたのだ。
いや、隠せるはずがない。
こんな状態を晒していれば。
「なんでも」
「なくないよね」
「…………」
ただ口をつぐむ。
何も言えることはない。
じっと見下ろす光空の顔が見られない。
「私、いつか友達が困ってる時や辛いときは真っ先に気づけるような人になりたいって思った。沙月がそうだったから」
そう思い出を語る光空は笑っていた。
「今がその時だと思う。沙月、すっごく辛そうだから。だから話してもらうためにここに来た」
思わず見上げる。神谷の瞳に、真っすぐ見つめる光空が映った。
以前「沙月のおかげで今の自分がある」と、彼女はそう言っていた。
どうすれば応えられるだろう。
彼女の真摯な想いに。
それはもう、話す以外に無いのかもしれなかった。
全てをつまびらかにするわけにはいかない。
それでも、胸の内を話すことが誠意なのではないかと神谷は思った。
「ゲームの、話なんだけどさ」
「ん?」
「みどりと協力プレイしてたんだけどさ、すっごい強いプレイヤーに対戦でコテンパンにされてさ、それ以来怖くて仕方ないんだ。そのゲームができないんだ。みどりは「私に任せてください」って言ってわたしの代わりに頑張ってる。わたしもすぐに行くべきなんだ。でも……怖いんだよ……」
神谷の口からぽつり、ぽつりとこぼれ落ちたのは支離滅裂な言葉で、光空には半分も理解できなかった。
いくらなんでもゲームでそこまで――光空はそう言おうとした。だが。
震えている。ゲームでやられただけにしては、その様子は尋常ではない。
目をつむり、思案する。
こんな風になったこの子へかけるべき言葉は何か。取るべき態度は何か。
考えて、考えて、考えて――ゆっくりとまぶたを開ける。
「その――『ゲーム』っていうのは、もしかしてあまり人には言えない感じ?」
神谷は身体をびくりと震わせ、少し間をおいて、無言で頷く。
「そっか。……私にも、言えない?」
再び頷く。
それを見た光空は思う。
(――――きっとこの子には、何か大変なことが起きている)
それは神谷と接してきた幼馴染としての判断だった。
神谷がここまで崩れるとなれば、それは普通では考えられないような事態に陥っているということではないだろうか。
確信は無い。だが『話せない』となると……軽々しく吹聴できないような重大なことなのではないだろうか。
(……いや、違う)
そんなことは重要じゃない、と光空は今までの考えを切り捨てる。
実際に何が正しいか、何が起こっているかなんてどうでもいい。
今、目の前で大事な幼馴染が苦しんでいる。
大事なのはそれだけだ。
隠さず話してほしい、という本音はあるが――それでも『苦しんでいる』ということを漏らしてくれた。
自分を信用してくれた。
だったらそれに報いるのが幼馴染としての義務だろう。
幼いころ、弱い自分を守り続けてくれたこの少女のように。
今度は自分がこの子を助ける番だ。
今、自分は何をすべきだ?
慰める? 違う。
叱ってやる? 違う。
一緒に悲しんでやる? 違う。
この子は、そんなことを求めていない。
さっき神谷は言った。『行くべきだ』と言った。ならばきっとそれが本音だ。
であれば。
「行かなきゃ、とか、園田ちゃんが頑張ってるから、とかさ」
口を開いた光空を、膝に顔をうずめていた神谷が思わず見上げる。
「そういうのはいったん置いとこうよ」
「そんな……っ」
声を張り上げそうになった神谷を手で制する。少し黙って聞いて、と言外に訴え、そもそもさ、と続ける。
「そんなに落ち込むまで、その『ゲーム』をやることにすらビビっちゃうくらいこてんぱんにされてさ――」
それを、言う。
「悔しくないの?」
時間が止まったようだった。
その言葉を聞いた神谷は目を見開き――そのまましばらく停止したかと思うと、顔を俯けた。
光空も沈黙している。ただ神谷を見つめている。
その時間は永遠のように感じられたが、しかし実際には一分にも満たない時間だっただろう。
「……しいよ」
「ん?」
不明瞭な発音。光空には聞き取れていたが、あえて聞き返す。これはきちんと言わなければいけないことだと、言葉にはせず促す。
神谷は深く深く息を吸い込むと、勢いよく顔を上げ、光空の瞳を真っすぐ見据え――叫ぶ。
「悔しいよ!!」
それは血を吐くような言葉だった。
「こんなに怖がってるのが悔しい! みどりたちに任せてしまったのが悔しい! こんなところで未だにグズグズ言ってるのが、っ、悔しい! 自分がこんなに弱いってことが死ぬほど悔しい! でも、でも一番悔しいのは、」
しゃくりあげながら、つっかえながら、それでも必死で胸の内をさらけ出す。みどりにも、アカネにも言えなかった本音をぶつける。
「――自分の弱さに勝てないのが、悔しい……」
それが、本音。
ちいさな子どもみたいで、あの二人には、こんなことは恥ずかしくて言えなかった。
「……そっか」
光空は、ふわりと優しく微笑む。
本音を聞けた。それだけのことが何よりもうれしかった。
「ならどうする?」
だが、すぐにそれは挑発するような笑みに変わる。
わかってるんでしょう? とばかりに。
「……行くよ。怖いけど、すっごく怖いけど……でも。負けっぱなしは嫌だから」
恐怖が無くなったわけではない。だがもうここで立ち止まっているという選択肢は、今の神谷にはもう無かった。
さっきまでの小さくうずくまるだけの少女は既にいなくなっていた。
その様子に光空は満足そうにうなずくと、
「さってと! 沙月も元気になったことだしそろそろ戻ろうかな!」
「えっ……でも」
話を聞いてもらって、それだけでハイさよならというのはいくらなんでも――そうおもって思わず引き留めようとした神谷だが、すぐにやるべきことを思い出す。それに光空だって忙しい中無理をして来てくれたのだ。
「いいんだよ。やることあるんでしょ。また『明日』ね」
そう言って光空は、軽く握った拳で、トン、と神谷の胸を叩く。
ちゃんと明日、元気な顔を見せてくれ、と。
それはどこまでも優しい一撃だった。




