68.DEAD END
誰もいない夜の公園は静寂がさざめいているようだった。
人気は無く、耳鳴りがしそうなほど静かで、たまに揺れる木々のざわめきだけが現実感を保ってくれていた。
「……どうしてこうなっちゃったんだろう」
ベンチに座る神谷は、虚ろな声でこぼす。
その青白い顔をアカネは黙って見下ろしていた。
「願いを叶えられるなんて餌につられて、みどりまで巻き込んで、結局こんなことになっちゃった」
笑みにも見えるその表情は歪だった。
口の端を曲げたその表情は、自分でもどんな感情を抱いているのかわかっていないように見えて、あまりにも痛々しい。
「うそだ、こんなの……」
顔を覆う。
夢から現実に引き戻されたような気分だった。
異能を得て怪物と戦う――そんなゲームじみた出来事に酔っていたのかもしれない。
酔って色んなものをごまかし続けてきた。
危険だ、死ぬかもしれない、なんてうそぶきながら本当は向き合っていなかった。
だから今回は勝てた、だから次も勝てるはず、なんて根拠なく思えたのだ。
あの世界から出れば傷が癒えるという仕様も現実感を薄くさせた。どんな痛みも喉元を過ぎてしまっていた。
しかし。
身体の傷は無くなっても、記憶はそうではない。
戦いによる恐怖。苦痛。それらを忘れたわけではない。
いつの間にかそれらが神谷を蝕んでいた。
自分でも気づかないうちにどうしようもないくらい傷ついて、友人まで利用して、それでもただ願いのためにとまっすぐ走ってきた道程が神谷に牙をむいた。
もう心を支えられるほどの強さは一片たりとも残っていない。
たった一度の敗北。
それだけで神谷の全てがへし折られてしまった。
だが、それでも。
「……でも、あんたはまだ生きてるじゃない」
本来、敗北したならそのまま死ぬはずだった。
だがアカネの尽力のおかげで助かったのだ。奇跡的に五体満足のまま、神谷も園田も生き残っている。
死んでさえいなければ、何度でも立ち上がれる。
アカネはそう伝えたかった。
「次頑張ればいいじゃない。だってあんたは生きてるでしょう? もう一回頑張ってみなさいよ。みどりだって一緒に戦ってくれるはずだから。あの子言ってたわよ、あんたに救われたって。だから戦えるんだって」
苦しい戦いでも、お互いがお互いを守りあえば大丈夫なのだと。
園田という少女は何の根拠もない話を、しかし胸を張ってアカネにしていた。
神谷だって、あからさまに口に出したりはしないが、園田に対して深い信頼や親愛を向けているのはアカネの目から見れば明らかだった。
二人はお互いがいるから戦ってこられたのだと、聞く限りアカネにはそう思えたのだ。
だが。
神谷の口から溢れたのは、そんな想いを裏切るようなものだった。
「…………もう、無理」
「は?」
二人の間にしばし静寂が流れた。
アカネには、目の前の少女が何を言っているのかわからなかった。
「わたしやめる。【TESTAMENT】やめる。わたしは……戦えない」
「なに……言ってんのよ」
信じられなかった。
あれだけあのゲームに熱を上げていたのに、その神谷がこんなことを言うなんて想像もしていなかった。育て親に会いたいという願いはアカネには想像もできないくらい強い願いのはずだ。園田から聞いてそう思った。
確かにあれは凄惨な敗北だった。
恐怖を抱いても仕方がないとは思う。
だが、
「あんた、願いを叶えたいんじゃなかったの?」
「…………」
「プラウを全部倒して、クリアして、いなくなった育て親に会うんでしょう? 違う?」
「…………」
「なんで黙ってるのよ! 何とか言ってみなさいよ!」
ベンチに座る神谷の肩を揺さぶる。
だが、神谷はその手を振り払い立ち上がった。
「…………うるさい!!」
叫ぶその声が、アカネを震わせた。
怒り、悲しみ、恐怖、そんな感情が混ざったような表情で、息を荒くついている。
「もう勝てないんだよ! だから願いも叶わない! 結局わたしには無理だったんだ!」
「あんた…………」
「もうやめる。今までみたいに学校行って、帰ってきて、好きにゲームして、たまに陽菜と遊んだりして、そんな日常だけでいい!」
血を吐くように神谷は叫ぶ。
しかしそれはアカネには看過できない。そんな子どもの癇癪は、許すことはできない。
「…………本気で言ってるの? あんたそれ、みどりに面と向かって言える?」
「…………っ」
地の底から響くような声に、神谷はたじろぐ。
「これまであんたと一緒に命張って戦ってきたあの子の頑張りを踏みにじるって、あんたは今言ったのよ」
命を救われたことは何度もあった。
はっきり言って、園田がいなければプラウ・ツーもプラウ・スリーも……いや、プラウ・ワンだって倒すことはできなかっただろう。それほどまでに園田の功績は大きい。
いや、そんな功績は無くとも、他人の願いを叶えるために命懸けの戦場に身を投じた――それだけで十分すぎる。
「困ったら助けを求めて、嫌になったらやめて……そんな風に他人を振り回して何が楽しいの?」
「…………ちがう、そんなの」
「結局あんたは構ってほしいだけじゃない! 寂しくてたまらなくて、だからあの子をそばに置いて」
「うるさい! アカネになにがわかるの!? なんにも知らないくせに!」
遮るその言葉に、アカネは怒りに満ちた表情を消した。
澄んだ瞳だった。
綺麗な赤色で、ガラス玉のようなそれに、戸惑う神谷自身が映っていた。
「……そうよ、なんにも知らないわよ。だって覚えてないんだもの」
そこにあったのは深い悲しみだった。
アカネという少女は悲しみで満たされていた。
自分のことで精いっぱいだった神谷にはそんなこともわからない。
【TESTAMENT】に挑むのはアカネのためでもある、なんてただの大口だった。何も考えていなかったのだ。
「家族も友達も自分がいた場所も、なんにもわからないわよ……!」
傷ついていたのは神谷だけではない。
アカネもまた同じだった。
記憶もなく、知らない場所に放り出され、いつだって漠然とした恐怖に晒されていた。
圧倒的な孤独が彼女の全てだった。
「でも、だからこそあたしは今のあたしの記憶を大事にする。こんなあたしに手を差し伸べてくれたあの子の味方をするわ」
本当のところ、手を差し伸べてくれたというなら、神谷もそうだ。
自分を殺そうとした相手を、記憶を失っているとは言え受け入れてくれた。
それについては心の底から感謝している。
だがそれを言うつもりはないし、ましてや今の神谷に味方するつもりもない。
園田の想いを踏みにじる人間に寄り添ってやることは絶対にない。
「…………怖くて怖くて仕方なくて、だから辞めるって、それがそんなに悪いこと?」
「いいえ」
「みどりだってもう戦わなくてよくなる。だったらそれでいいじゃん」
「そうかもね。でもそれって建前でしょう?」
思わず神谷は口をつぐむ。
何かを言おうとして、何も言えなかった。
それは正鵠を射られたからだ。
アカネを懐柔しようと、絆そうとしたことを看破されてしまったからだ。
「あんたってほんとに自分のことしか考えてないのね」
アカネの瞳は深い失望を湛えていた。
その視線に責められているようで、神谷は思わず身を捩る。
そんな、この期に及んで逃れようとする態度に、アカネの怒りが爆発する。
「結局あんたは、あんたのことを想ってくれる人たちのことを、そのカガミってやつの代替物くらいにしか思ってなかったんでしょうが!」
「黙れ…………」
「だから都合が悪くなればそうやって放り出せる! 違う!? 違うってんなら反論してみなさいよ!」
「だまれええええっ!」
その言葉を振り払うように、神谷はアカネへと殴りかかる。
握った拳はアカネの顔面めがけて振るわれ――しかしアカネは容易くそれを回避する。
そして、あまりにも綺麗なカウンターの拳が、神谷の顔面に突き刺さった。
「がっ…………」
衝撃に吹き飛んだ神谷は受け身もとれず倒れる。
口でも勝てず、喧嘩でも負けた。
完膚なきまでに叩き伏せられた。
「確かにあんたには辛いことがあったんでしょうね。見てるだけで嫌というほどわかるわ。でもね」
一転、静かな口調だった。もうお前に向ける感情は無いとでも言うように。
アカネは一度言葉を切り、神谷に背を向け歩き出す。
「たとえどれだけ辛くて悲しくても、それは他人をないがしろにしていいってことにはならないのよ」
夜闇に染みるようなその言葉は、倒れて動けない神谷の頭の中でしばらく巡り続けた。




