41.繋がる金の環
『どろどろだからシャワーだけでも浴びてきて。脱いだものはわたしが洗濯機につっこんどいてあげるから』
そう言った神谷に素直に従った光空は、シャワーヘッドから出る水流を脳天から浴びてうな垂れていた。神谷が来てくれたことで現金にも少しだけ体力が戻り、こうしてシャワーを浴びることで意識もはっきりしてきた。
ただ、それがいいことなのかどうかはわからない。
「ど、どうしよう……えらいこと言っちゃったかも……」
あなたが他の子と仲睦まじくしていたから面白くなかったのだ、なんて子どもじみた情念を丸ごとぶつけてしまった。しかも当の本人に向かって。
一度口にした言葉がどうやっても取り戻せないことの恐ろしさを、今まさに光空は嫌というほど体感していた。
だが、それで神谷が自分を見捨てることは無いだろう、とも思う。
「わかりあおう」とさっき言ってくれたから。本当に、唯一の幼馴染が神谷だというのが奇跡のようだった。
しかし、もしかしたら捨て置かれた方が楽だったかもしれない。なぜならこれから嫌というほど正面から向き合わねばならないのだから。
「はい裸の付き合いセカンドー!」
「うわーーーー!! デジャブ!?」
すぱーん、と勢いよく浴場の引き戸を開けて現れたのは素っ裸の神谷沙月だった。
「な、なんで沙月も……?」
「わたしも汗かいちゃったし。砂埃もそこそこ」
などと言いながら適当な調子で鼻歌を歌いながら椅子に座り、レバーをひねってシャワーを出している。
しばらく沈黙が降りる。
なにを話せばいいのだろうか。先ほどの発言を謝るしか思いつかない。しかし意思に反して光空の口は逃げる方向に向かって動く。
「……さっき言ったの全部嘘だから」
向き合うのが怖い。無かったことにしたい。そんな臆病な考えがその言葉を口にした。
神谷はうつむいたままの光空を一瞥すると、小さくため息をつく。
「いやさすがに通らないよ。全部本音でしょ」
「なんでわかるのさ」
「だって嘘ついてるとき、陽菜ってこっち見ないもん」
「うそっ」
そんな癖があったのか。自分でも気づいていなかったことに動揺し、顔じゅうぺたぺたと触る。
そんな様子がおかしかったのか、神谷が吹き出した。
「あはっ、うっそー。癖なんかないけど陽菜の嘘ってすっごくわかりやすいんだよ。前も朝練無いって嘘ついてわたしのとこ来てたでしょ」
「うぐ」
騙されたことと、嘘がばれていたことへの羞恥で耳まで真っ赤に染まる光空。
そんな様子を神谷は愉快そうに見守っていた。
「――――だから、これから嘘ついてもわかるからね」
だが、その言葉を皮切りに神谷の声色は平坦になる。表情も同様に、神妙なものへと変化していた。
それから読み取れるのは、怒り。そして悲しみだろうか。
「ねえ、今日みたいなこと、今までもしてた?」
深夜の走り込みを神谷は指している。
光空は少しだけ黙ったあと、口を開いた。
「……ううん、今日が初めて」
つまり、まさに今日、光空の精神が限界を迎えたのだ。
例え身体が限界でも動かし続けねばならないほどに。
「……そう」
短くそう言ったかと思うと、椅子の上で座り直し、光空の方を向く。
「心配したんだよ、ほんとに」
「うん……」
「身体は大事にしなきゃだめだよ。もし怪我したり病気になって、どれだけ辛くてもわたしは代わってあげられないんだから」
いつの間にか神谷の声音は優しいものへと変化していた。
いたわるような、古傷を優しく撫でるような口調だった。
「陽菜が辛いとわたしまで悲しくなるからさ。だか、ら……」
抑揚が不自然に跳ねたかと思うと、神谷の黒い瞳は一滴の雫を落とす。
ぽた、と小さい音を立てて涙は床のタイルで弾けた。
「わたしは泣き虫かもだけど……泣くのが好きなわけじゃないんだよ……」
愕然とした。
こんな風に身を案じてくれる存在を、自分は傷つけてしまったのかと。
『――――あのね。もしどうしようも無くなりそうだったら……わたしのこと、頼ってよ。友達なんだからさ』
神谷はこう言ってくれていたのに。
結局、『言えるわけない』という保身で蓋をしていたのか。
自分の心を守るために、神谷を傷つけてしまっていた。
「ごめんなさい……」
結局、こうなってしまっては素直に謝るしかない。それが誠意を示すことだ。
親しき仲にも礼儀は必要なのだ。
「ん。いいよ、わたしも気づけなかったから。ごめんね」
軽く洟をすすった神谷もまた意を示す。
申し訳なく思っているのは光空だけではない。
神谷もまた、光空の苦悩に気づけなかった。
気づいているつもりだった。だがここまでだとは想像できなかった。
『つもり』では駄目だったのだ。
だから腹を割って話すと決めた。
「……わたしもさ、陽菜と同じようなこと思ったことあるよ」
「……同じって?」
「他の人と仲良くしてるの、いやだなーってやつ」
途端、光空の頬がぼっと火を噴く。
さっき吐き出した思いを蒸し返されて、恥ずかしいことこの上なかった。
だが神谷もまた同じように顔を赤くしていた。
彼女としても本来は言うつもりの無かったことで――しかし光空と向き合うために自分の内面を開いて見せた。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。クラスメイトとか、部活の人と仲良くしてるの見てて……実は前から思ってた。結局わたしなんて、たくさんいる友達のひとりに過ぎないんだろうなーみたいなことをね」
「そんなこと……!」
神谷が自分のことをそんな風に思ってるなんて、光空は考えたこともなかった。
以前の神谷はずっと壁を作っていたから、自分のことを疎ましいとすら思っているのではないか、と。
「うん、陽菜はそんなこと思ってないよね。今ならわかるよ。……さっき同じって言ったけど、ちょっと違うかも。わたしは自分から距離取ってたから諦めてたけど、陽菜は違うもんね。いきなりわたしがみどりと仲良くし始めて……混乱するはずだよ」
その通りだった。
本当に、突然だったのだ。
「でも、わたしはもうみどりと友達になった。陽菜もそう。わたし以外にいっぱい友達がいる。だからもうそれを切り捨てることはできない。お互いだけを優先することもできない。だから宣言するよ」
光空を見つめる瞳は、澄み切っていて――迷いが無いように見えた。
「これからどんな人と知り合っても、誰と親しくなっても、わたしにとって陽菜はずっと特別なひとりだよ。それは変わらないから……だからもう心配しないで」
何があっても、たったひとつなのだと。
エンゲージリングのような言葉を、神谷はためらいなく言い放つ。
そんなものに根拠なんてないことは彼女にもわかっているはずだ。なのにそこまで言い切られては、光空はもう何も言えなかった。
『先あがるね』と浴場を出て行った神谷を見送った後、シャワーを浴び終えた光空は自室に帰ってきた。
「……感服、って感じ」
「何が?」
「うわぁっ」
思わず声を上げた後、慌てて口を抑える。現在2時過ぎ。深夜である。
光空の部屋にいるはずのない人物がそこにいた。
新しいパジャマに着替えた神谷がマイ枕を抱きしめたままベッドに横たわっている。
「な、な、なんでここにいるの」
「一緒に寝ようと思って」
「いやだからなんで」
「……だって、見張ってないとまたあんなことするかもしれないし」
あんなこと、というのは先ほど光空が敢行していた深夜の地獄シャトルランのことだろう。
だがそれはさっき解決したはずではなかったのか。そのために話し合ったのではないのか。
「もうしないって……」
「頭ではわかってるけど、それでも不安なんだよ。わたしから信用を奪った自分を呪ってね」
軽く悪態をついた神谷は身体を起こすと両腕を広げた。
おいで、のポーズだ。
これはもう梃子でも動かなそうだった。それにこれ以上押し問答をする体力が光空には残っていない。
神谷は身体が小さいから、ベッドのスペースをそこまで取ることもない。
「わかった、わかったよ……」
半ば倒れ込むように抱きしめられながらベッドに寝転ぶ。
どっと眠気がやってきた。
「明日はいっしょに学校休もうね」
「んーー……」
「疲れたでしょ。明日はお昼までぐっすり寝て、ひさしぶりにご飯を一緒に食べよう」
「うーん……」
何かいろいろ言っているが、頭に入ってこない。
睡眠欲に勝てない。本当にぎりぎりの状態だったのだろう。
張りつめていたものが、今まさにぷちんと切れたように思えた。
「わたしがいるからね」
隣に体温を感じる。
(あったかい……)
誰かと寝るなんていつぶりだろう。慣れない感覚だった。
だけど心が安らいでいくのがわかる。
光空は、久々にゆっくり眠れるような気がした。
「――――おやすみ、陽菜」




