39.スタートラインの遥か遠くで
『どうにかしたい』という想いが、『どうにかする』という決意に変わっても、それだけで事態が都合よく好転するわけではない。
そんな現実を神谷は日が完全に落ちた今現在、自室のベッドの上で痛感していた。
「はあ……結局あれからまともに話せてないし、チャットも既読無視だし……なんなのもー!」
昼休みからこっち、光空と全くと言っていいほど話せなかった。
こっちが踏み込む素振りを見せると用事があるとか言って逃げるし、部活が始まってしまえば押しかけるわけにもいかないしで、まともに相対させてもくれない。
「やっぱ無理矢理にでも休み時間に連れ出すなりすればよかったのかな……」
また臆病風に吹かれてしまったことに深いため息をつく。
決心したというのにこれでは園田に笑われてしまう。いや、彼女はそんなことはしないとは思うが。
ついさっきも光空が帰ってくるのを待ち伏せていたのだ。
だが疲れ切った様子で「ごめん、今日はもう寝たいから」と言われてしまってはどうにもできない。
光空もこんな気分だったのだろうか、と神谷は過去に思いを馳せる。
光空はどれだけ神谷に拒絶されても諦めなかった。
神谷が引きこもった殻を、効果があるとも知れないままで叩き続けていたのだろうか。
こんなどうしようもない想いを、今まであの子にさせていたのか――そんな後悔の海に浸っていると、いつの間にか神谷の意識も闇に沈んでいった。
鼓動の音で目が覚めたのではないかと思うほどに胸が脈を刻んでいた。
「ハァ……ハァ……うっわ汗だく」
控えめに言って最悪の気分だった。
少し前もこんなふうに目覚めたことがあったが、悪夢にうなされた前回と違い、今回は虫の知らせに近いような感覚があった。
「なんだろ……」
スマホで現在時刻を確認すると1時を回っていた。誰がどう考えても深夜である。
とりあえず喉がカラカラに乾いているので、食堂に水を飲みに降りることにした。
できる限り音を立てないように木製のドアを開ける。
当たり前だが、廊下は暗い。窓から差し込む月の光だけが視界を確保してくれていた。
部屋からそろりと足を出し左右を確認する。他の寮生を起こさないように、おっかなびっくり歩を進める。
と、そこで。
視界の端に、神谷の部屋とは別の開いたドアが見えた。
この寮は消灯時間を過ぎると、自室のドアの施錠が義務付けられている。それは今の神谷のように夜中に部屋を出る場合も同様で、基本的に開いたままということはない。寮生は一人残らず北条に厳しく言いつけられているからだ。
これは寮生の信用が無いという話ではなく、不要なトラブルを避けるためだ。例えば誰かが貴重品を紛失した際、他の寮生に窃盗の疑いがかかるのを避けるため、など。
だからまずこんな真夜中にドアが開いたままになっているのはありえないのだ。
しかし普段の神谷はそれくらいならスルーする。
誰だっていちいち鍵かけるのは面倒くさいし、たまにはそういうこともあるだろうと。
ただ、それが光空の部屋のドアだったなら話は別だ。
半開きになったドアの隙間から覗く部屋の暗闇が、嫌になるほど黒く見える。
どくん、と心臓が跳ねた気がした。
悪い予感がする。頭の中のサイレンが、輪をかけて赤く染まる。
光空の様子がおかしいこのタイミングで、ドアが開きっぱなしだというのが虫の知らせを助長する。
そっと覗いてみるとやはり誰もいない。とりあえず探すしかない。杞憂だという願望を胸に抱いて、神谷は1階へと続く階段を降りた。
どこにもいない。
寮の中のどこを探しても光空がいない。
「どうしよう、どうしよう、どうしたら」
うわごとのように呟きながら歩いていると玄関についた。
すぐ横の寮長室には明かりがついていない。
北条を起こすことも一瞬考えたが、それは最後の手段に取っておくことにした。
光空の靴箱を開けると、ローファーが入っていた。ただ、登校するわけでもないのにこれを履いて寮の外に出るとは思えない。
寮のどこにもいないなら、もう外しかない。
外出用のスニーカーを履いて神谷は玄関を出た。
「陽菜、こんな夜中なのにどこ行ったの……」
学校の外に出るには、まずグラウンドを通る形で経由して校舎の方へ行き、そこから出口である校門を目指すしかない。買い出しの時などは遠くて面倒だと神谷は日ごろから思っていた。
光空が学校の敷地内にいるならまだいいが、外に出ているという可能性だってあるのだ。捜索範囲は途方もなく広い。
どうしよう、と掠れた声を漏らす。
嫌な記憶が蘇ってくるのを必死で抑えていた。
またこんな風に、誰かが忽然といなくなってしまったらどうしよう。もし出て行った先で危ないことに巻き込まれでもしていたらどうしよう。事故に遭っていたらどうしよう。
そんな悪い想像が頭から離れない。そこまで心配する必要はないと理性が囁くのに、どうしてもネガティブな考えを捨てきれない。
だが。
結論から言えば、やはりそれは杞憂だった。
寮から続く林を通り、グラウンドについた神谷は果たして光空を見つけることができた。
グラウンドを囲む金網の外からその姿を見る。
ただ、その姿は神谷の想像を越えていた。
「――――――――なに、してるの」
光空は走っていた。
こんな深夜に、月と星の光だけを明かりにして。
練習着に身を包み、自分で引いたと思われる100mトラックを、ひたすらに、繰り返し繰り返し走っていた。
決まった距離を走り切るたびに立ち止まり、右手に握りしめたストップウォッチを確認すると、赤ん坊がいやいやをするように首を振り、また同じように走り出す。
地獄のようなシャトルランだった。
おそらく寮のみんなが寝静まった後にこっそり抜け出して始めたのだろう。
こんなことを、いつから、何度繰り返していたのか。
正気の沙汰ではない。
疲労が積もり積もった身体でそんなことをしても芳しい結果は得られないだろうし、そもそもオーバーユースで身体が壊れてしまう。最近は朝も昼も放課後も部活に行っていたからなおさらだ。
彼女もそれはわかっているはずなのに。
「……違う」
わかっていてもそうせずにはいられないほどに追い詰められていた。
それが事実だと、今も走り続ける光空が証明している。
そして。
そのことに神谷が今の今まで気づけなかったという現実もまた同様に証明されてしまった。
呆然としていた神谷は、ずしゃ、という音で現実に引き戻される。
光空が倒れていた。体力の限界に達したのだろう。
「わたしは……」
弾かれたように金網の扉を開き、グラウンドに踏み入る。
手が届くにはまだ少し遠い。
「……いつもいつも遅すぎる……!」
どうしようもない想いを抱えて光空へと駆け寄る。
後になってから気づくことばかりだった。
失敗に気付かず、取り返しのつかないところまで来てから後悔してばかりだった。
それでも、たとえ手遅れだとしても。気づいたときにあがくしかないのだ。
どれだけ見苦しくても、取り戻すために神谷はそうしてきた。
いつだって。




