134.Battle-Outro
解放感というものを味わったのはこれが初めてのことだった。
神谷の拳を受けた瞬間、自らを戒めていた頸木のようなものが外れたような気がした。
完全に解き放たれたわけではない。しかし自分の中に居座り続けた使命に、わずかに抗うことができる――そんな感覚。
どうしてかはわからない。
奇跡というやつが起きたのかもしれないし、神谷の力が作用した結果かもしれない。
どうでもいいことだ、と思う。
今大切なのは、もう一度立ち上がるための力をもらえたということだ。
「……ありがとう、沙月」
仰向けに倒れるルナは、その視線の先に立つ神谷へと笑いかける。
きしむ身体を何とか裏返し、地面に両手を付けた。
残された時間はもう残り少ない。
それが終わる前にやるべきこと、できることをやらねば。
神谷たちの未来のために。
「接続。充填中止申請……『月の涙』発射中断シークエンス開始」
月全体が淡く光り始める。
注ぎ込まれたエネルギーが放出され、まるで蛍の光のように空中へ浮き上がっていく。
不毛の砂漠によく似た月面ではあるが――今この瞬間は、幻想的な風景が展開されていた。
「カガミさん……」
「沙月はすごいね。わたしが想像した、ずっと上を行ってくれた」
その言葉を神谷は否定する。
「わたしじゃないよ。みんながすごいんだ。みんながいたからここまで……、……っ!?」
異様な気配。
背中を温くべたつく何かで舐め上げられたような悪寒に、神谷は即座に振り返る。
おそらく数十m先……そこには『何か』がいた。
名状しがたい、生まれてこの方見たこともないような存在。
「なに、これ……」
口からこぼれたその言葉と共に、それを見上げる。
それは球体だった。
360°どの角度から見ても完全な真円を描く、歪みのない球体。
その色は虹色。オーロラのように刻一刻とその配色を変化させていく。
見とれるほどに美しく、しかし同時に――見ているだけで吐き気を催すような、不思議な印象を与えてくるその球体は、何も言わず空中に佇んでいる。
生物なのか――それ以前にこれは物体なのか。そのレベルで意味が分からない存在だった。
「やはり来たか……」
「……知ってるの……?」
こくり、と頷くルナ。
「これは人類の統合意志。人という種に横たわるひとつの意志……集合的無意識などと呼ばれることもある。そして……わたしを創り出した存在だ」
「……な」
言葉が出なかった。
なぜそんなものが今ここにいる。
なぜこうして形を成して出現する。
そんな問いが喉に詰まって出てこない。
「厳密にはわたしを生み出したのは違う世界の人類だから別個体だけどね」
「なんで、こんなところに……?」
その球体――統合意志を見上げる。
表面の虹色はうねり、伸び、渦を巻く。これ以上なくサイケデリックな光景が神谷の目の前に存在した。
「……そりゃあわたしを消すためだろうね。人類を滅ぼそうとしたわたしを排除しに現れたんだろう。普段は絶対表に出てくることは無いが……『月の涙』という、一挙に人類を消す砲撃がこいつを呼び起こしてしまった」
統合意志は、音もなく徐々に近づいてきている。
外見が異様過ぎて距離感が掴みにくい。
「で……でもカガミさんは今砲撃を中断してる最中で……!」
「そんなのは関係ないよ。細かい事情を奴は関知しない。『障害がいる』『だから消す』――それだけだ」
そんなことをされてしまえば、『月の涙』の発射の中断が阻止されてしまう。
空中に投げ出されたエネルギーは再び充填され、地球へ向けて放たれる。そうなればすべて終わりだ。
ならばするべきことはひとつ。
「……カガミさん。シークエンス完了まであとどれくらいかかる?」
「どれだけ頑張っても五分……まさか、沙月」
深く息を吸い、限界まで吐き出す。
上がらない腕を気力で構え、拳を握ると漆黒の闇が取り巻いた。
「こいつを倒す!」
「む――無理だ! 人類が一人でも残っている限りそいつは滅びない。仮に倒せたとしても、その時人類は意志を失い空っぽの人形になってしまう……!」
「だったら止める。時間を稼ぐ。それから――――」
例えそれが成功し、『月の涙』の発射が止められたとして、それでどうなるのか。
統合意志を滅ぼすことはできない。ならどうやってカガミをあの星へ連れて帰ればいい?
そんな考えを無理やり振り払う。
「――――後のことは考えない! カガミさんはできるだけ早く中断シークエンスを!」
「…………わかった、絶対に終わらせて見せる」
月面にそびえたつのは80億の人類。
この戦いに勝利は無く、正義も無い。
だとしても、と少女は声を上げる。
大切なものを諦められず、何を捨てても守りたい。
そんな神谷沙月の、最後の戦いが始まった。




