108(-943).歪みゆく世界
ルナと名乗る女神が、まさに神と呼べる力で次々と人間を薙ぎ払い――とはならなかった。
肩透かしなことに、あれ以降音沙汰が無くなってしまったのだ。
あたしも特に大きく生活が変わるわけでもなく、朝起きて学校に行って帰ってくる、そんな毎日をしばらく過ごしていた。
だが。
テレビやネットはルナの話題で持ち切りで……少しずつ世界が変化してきているように感じた。
漠然とした不安が、徐々に人間を蝕む。
しばらくすると、『買い占め』という単語がメディアを染めることになった。
食料品や生活用品を買い占める人々がだんだんと増えてきたのだ。いつか来るであろうルナの侵攻に備え、できるだけ長く他人より生きていきたい――そんな考えを持った人たちが増えた。例え他人から奪ってでも。
『○○ 買えない』『○○不足』といったワードがSNSのトレンドに上がることも珍しくなくなり、気が付けばそれが当たり前となっていた。
同時に犯罪発生率も増えた。
数字上だけではなく、実感として。
その内容は様々だ。ひったくりに強盗、放火に殺人まで――それがテレビの向こうだけでなく近所で起こったと聞いたときは震えあがった。
もっとも実感が湧いたのは、ママから小学生低学年以来の防犯ブザーを渡された時だ。
冷たく硬いプラスチックの感触が、時代の変化をあたしに感じさせた。
罪を犯し捕らえられた人たちの言い分で一番多かったのは「どうせ終わるなら……」というものだ。つまり、明確な滅びを前にして自棄になってしまった、ということだろう。
共感はできないが、正直言って理解できる。これまで当たり前にあるものだと思っていた未来が断たれようとしているのだ。そういった歪みが生じるのも頷ける。
そして。
そんな歪みはまた別の歪みを生む。
倒産する会社も増えた。
自暴自棄を起こす人々が予想以上に増えた。生きることを諦めてしまった人たちが。
社会を知らないあたしには上手く言えない。
だけど確実に世界が悪い方向に向かっているということは理解できた。
「お姉ちゃん、これからどうなっちゃうの?」
「大丈夫ですよ。お姉ちゃんがついてますからね」
あたしが不安を漏らすたび、お姉ちゃんは「大丈夫」と繰り返した。
その言葉は力強く心に響いた。
今から思えばお姉ちゃんもきっと不安だったのだ。自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返していたのだろう。だけどあたしに対してはそんな素振りはついぞ見せることはなかった。
あたしがもっと強ければ――そう思ったこともある。しかし全ては後の祭りだ。
学校生活も少し変わった。
六限あった授業はひとつ減って五限目までになり、部活は全面禁止。下校時刻が大幅に早められた。入りたてのラクロス部を退部することになってしまったのは少し悲しかったが、そこで作った友達がいなくなるわけでもない。
早く帰れるからお姉ちゃんとの時間が増えることがちょっとだけ嬉しかった。
だが、こんな以前とはまるで違う生活を、当たり前に受け入れつつあることに自覚のないまましばしの時が流れ――それは起こった。
とある先進国が、開発途上国と戦争を開始したのだ。
戦争なんてものが起こるのを見たのは生まれて初めてだった。
何十年も前に起こったきり、世界のどこもそんなことはしていなかったそうだから。
聞いた話でしか語れないところが、戦争というものの馴染み無さを象徴していた。
戦争といっても二つの国には力の差が大きかった。
先進国が派遣した軍隊が、開発途上国を蹂躙する――それがその戦争の実態だった。
テレビの向こうでは、金属の塊を抱えた大人たちが群れを成して闊歩した。
大きな鉄の塊が、砂煙を撒き散らしながら大地を走る。
空には何機もの戦闘機。そこから豆粒のような何かが次々に投下されていく。
略奪としか言いようのない光景だった。
この戦争は資源を奪うことが目的、だそうだ。それは物的資源に限らない。人という資源――つまり奴隷だとか、植民地だとか……そのあたりであたしは見ているのが辛くなってテレビの電源を消した。
いつの間にか、本当に気づかないうちに人間同士で争いが始まっていた。
ルナと名乗るあの女神は、今どうしているのだろうか。
この現状をみて、何を思っているのだろうか。
これを狙っていたとしたらあまりに悪辣だ。
このままでは、神の手で滅ぼされる前に――我々自身の手で人類の歴史の幕が閉じられる。




