107(-1095).世界は月に穿たれる
あたしの名前は初瀬紅音。
特筆すべきところのない、どこにでもいるような中学生だ。
……そんなふうに自称していたのは何年前のことだっただろうか。
一般家庭に生まれたあたしはその頃、何不自由のない生活を送っていた。
ママと、パパと、お姉ちゃん。それとあたし。
幸せな四人家族。
当時のあたしはそれを幸福だと感じていなかったが、当たり前のものは失って初めてその大切さに気付くようにできているらしい。残酷ではあるがそれも当然だ。誰が常日頃から失うことにおびえて生きなければいけないのか。
だがそれは実際に起こった。
あきれるほどにあっけなく、全ては失われた。
家族も、友人も、仲間も、未来で出会うかもしれなかった人たちでさえも。
あの世界に残ったものは何もない。
あたししか――いない。
これは、今へと至る物語。
あたしが全てを失うまでのバッドエンドチャートだ。
中学に入学したあたしは、毎日が楽しかった。
起きて、ママの作った朝ご飯を食べて、朝の支度をして。
そうしたらお姉ちゃんに髪を結ってもらう。長めの黒髪をふたつ結び。以前お姉ちゃんに「似合ってるよ」と言われてからお気に入りの髪型だ。
登校もお姉ちゃんと一緒。あたしの中学校とお姉ちゃんの高校で場所が違うから、途中まで。
五つ年上のお姉ちゃんはあたしにとても優しい。
成績優秀、スポーツ万能。クラスのまとめ役で、しかも生徒会長までやっているとか。
そんな絵にかいたようなお姉ちゃんは、あたしの自慢だった。
いつかこんなふうになりたい――そんな願いを胸に抱きながら、二人並んで登校する。
だがその時間は突然の出来事によって断たれた。
《こんにちは、人類のみんな》
いきなりそんな声が聞こえた。
どこから……というのはわからない。上でも下でも前でも後ろでも右でも左でもない、強いて言うなら自分の頭の中から直接響くような、そんな声。
同時に、目の前に白い少女が見えた。背丈はあたしより小さく、幼い印象を受ける。白い髪に、白いワンピース。金色の瞳は宝石のようだった。
不思議なことに、目を開けようが閉じようが視線を逸らそうが、その少女はずっと目の前に見えた。まるで網膜に焼き付いているようで凄まじい違和感だ。
だがあまり嫌悪は感じなかった。なぜならその少女は途轍もなく美しかったから。
この世のものとは思えない超然とした雰囲気を纏っている少女は、まるで神がオーダーメイドしたかのような完璧な外見をしていた。
その少女は落ち着いたソプラノで続ける。
《わたしはヒトという種を滅ぼすことにした》
「…………え?」
耳を疑った。
この状況もわけがわからないが、言っている内容も理解できない。
困惑しながら隣のお姉ちゃんを見ると、彼女にも同じ現象が起こっているのか、耳を抑えながらまばたきを繰り返していた。
《これは決定事項だ。覆ることはない》
はっきりとした口調で白い少女は続ける。
表情から感情が読み取れない。どういった意図なのか全くわからない。
あたりからざわざわとした声が届き始める。同じ声を、他の人も聞いているのだろう。
《と言っても信じる者はいないだろう。だから手始めに”こうする”ことにした。目を閉じてみるといい》
言われたとおりに目を閉じる。するとあたしは気づけば別の場所にいた。空に立ってどこかの海を見下ろしている――と思ったが違う。これは映像だ。どういう仕組みなのか、目蓋によって塞がれた視界に別の場所が映っている。
よく見ると、近くに白い少女が浮いていた。
足場のない空中に、当たり前みたいに浮かんでいる。
おもむろにその少女は右の手のひらを上に向ける。
何を始めるのか――そんな疑問はすぐに氷解する。
少女が手のひらから巨大な剣を生み出したのだ。
「なにこれ……」
少女が小さく見えるほどの巨大さ。cmでもmでもなく、kmで表現しなければいけないのではないかと思えるほどの長大な刀身。
少女は適当な調子で、触れることなく剣を振り下ろし。
直後、海が割れた。
見える範囲の海が真っ二つになったのがはっきり目視できた。
小学生のころ本で読んだモーセの所業を思い出し、しかし足元に伝わる揺れが確かな現実感を訴えかけてくる。どこの海かは知らないが、この映像のどこにも陸地が見えていない以上、どう考えても近海ではないだろう。それなのに衝撃がここまで伝わってきた。
あの少女はどれだけの力を持っているのだろう。そう考えると身体が震えた。
こんな力を振るわれたら、人類は簡単に滅んでしまう。
《――――さて……わたしの力はわかってもらえたかな》
映像が途切れ、少女が目の前に戻ってくる。
思わず後ずさったが少女との距離は変わらない。目を逸らすことは、やはりできないらしい。
《君たちは自由にすると良い。最後の時を粛々と過ごすも自由。わたしに立ち向かうも自由……その場合はきちんと団結するのをお勧めするけどね》
慈愛に満ちた口調――しかし言外にあたしたちを見逃す気はないという意志が伝わる。
どれだけ抵抗しても無駄なのだと宣告されたような気がした。
《ああそうだ、自己紹介を忘れていた。わたしの名前はルナ。君たちが『お月様』と呼ぶ存在で……言わば神だ》
その言葉を最後に少女の姿は消え、声も聞こえなくなった。
幼少のころから寝物語に聞かされていた『お月様』の伝承――争い事を許さない神のような存在。
それが自分だという。
動揺で立ち尽くしていると、手が温かいものに包まれた。
驚いて隣を見ると、お姉ちゃんがあたしの手を握ってくれたのだとわかる。
「……大丈夫。紅音ちゃんのことは、何があっても私が守りますからね」
いつもの頼もしい笑顔――しかしお姉ちゃんの手は少し震えていた。
これが、あたしの日常が崩壊し始めた瞬間だった。
それでもこの時のあたしは無邪気にもどうにかなると信じていた。
この世界には数え切れないくらいたくさんの人間がいる。そのみんなが手を取り合えば、きっと神様だって何とかできるのだと。
しかしそうはならなかった。
人間の醜悪さを、これからのあたしは嫌というほど思い知ることとなる。
それはもしかしたら、ルナと名乗った女神よりも恐ろしいものかもしれない。




