1.少女
Sequence.1
「君を覚えていない世界」
Story.1
「少女」
目が覚めるとそこは森の中だった。暖かな木漏れ日が心地よく、目が覚めたばかりなのに、もう一度眠ってしまいそうなほどだ。
頭の中はぼんやりとしていて、自分が何者なのかも、ここがどこであるかも、よく分からない。
身体を動かそうとすると、鋭い痛みが体中に走った。おかげで眠気も覚めたが、今度は体中の傷が痛むせいで苦しくてたまらない
自分の体をよく見てみると切り傷やら打ち身やらで全身がボロボロになっていた。着ている服も布切れ同然で切り裂かれ、焼けたように焦げた部分もあるせいで、使い古された雑巾のようだ。
「くそ……、誰か……、助けてくれ」
喉から出てくるのはしゃがれた声だけだった。とてもじゃないが、叫べない。そんな事をすれば声帯が千切れてしまう。
なんとか身体を動かそうとするが、本当に自分の身体なのかと疑ってしまうぐらい手足は自分の言うことを聞いてくれない。立ち上がろうと力を込めれば、痛覚がそれを否定する。立ってしまえば身体がバラバラになってしまうぞ、と脅されているかのように、身体が震えて力が出ない。
かと言ってこのまま黙って寝ていても死んでしまうことに変わりはない。俺は何とか自分の身体をひきずって今の場所から動こうと懸命に地面を這った。
傷が擦れて痛いがそんな事を言っている場合ではない。なんとか人に発見してもらえるような大きな道に出なければ目が覚めたばかりなのに永遠の眠り着いてしまうという冗談にもならない冥土へのみやげ話が出来てしまう。
「はぁ……っ……はぁ」
しかし、必死の努力もむなしく、俺の意識は少しずつ暗闇の底に消えていくようだった。視界が霧がかったように霞んでいき、身体を動かす度に感じていたはずの激痛も感じない。消え行く意識の中で「死」という言葉だけが脳内にこびりついて離れなかった。死にたくない、と思う思考とは裏腹に瞼の重みには逆らえない。
「……、だいじょ……ですか!? し……かり……ください!」
消え行く意識の中で、聞いたことのない他人の声が聞こえた気がした……。
再び目が覚めると今度はちゃんと天井のある家の中だった。
もしかしてここは死後の世界か何かと思ったが身体を動かすときちんと身体が痛い。どうやらまだここは現実のようだった。
「どこなんだ、ここは……?」
木造の家、というよりは小屋に近い。部屋は狭く自分が寝ているベッドが窓辺にあって後はドアと机や椅子といった基本的な家具が置いてあるだけの殺風景な部屋だった。
あれからどれくらい時間が経ったのかは分からない。ただ、窓から見える星空は今が夜である事を物語っていた。窓の外の様子だと、ここはまだ森の中のようだった。
身体には包帯が巻かれていて、服も清潔な物に取り替えられていた。麻布で出来た簡素な服だが、あのボロボロの服に比べれば大分マシだ。起き上がろうとするとまだ身体が痛いのだが、何とかベッドから出る事ができた。
とにかく部屋の外に出ようと一歩踏み出すと、足が上手く動かず派手に倒れてしまった。
「痛い……」
倒れた衝撃で傷が開いてしまったのか腕に巻かれている包帯から血が滲んでしまっていた。目が覚めても相変わらず身体のあちこちが痛くベッドから出たことを早くも後悔する。
憂鬱な気分になりながら再び身体に力を込めると、ドアが開いて1人の少女が入ってきた。
「な、何やってるんですか! 大人しくしていて下さい! ほら、手を貸しますから、ゆっくり起き上がって下さい」
「あ、ああ。すまない」
一目見て、綺麗な少女だと思った。美しく腰の辺りまで伸びている金髪に、碧い瞳。目鼻立ちが整っていて肌も雪のように白くて、服の上からでもはっきり分かる女性らしい体つき。肩を貸して貰って立ち上がると少女の甘い匂いが俺の鼻孔をくすぐった。
しかし何より目についたのは、少女の尖った耳だった。
「もう、折角傷が塞がっていたのに……。包帯を取り替えますから、じっとしていて下さい」
そう言うと少女は隣の部屋から包帯を取ってくると手早く包帯を巻き直していく。手馴れているのか、
あっという間に包帯は取り替えられてしまった。
「ありがとう。もう死ぬかと思っていたから、君は命の恩人だな」
「あんなに大怪我している人を放っておくことなんてできません。全く、暫くは絶対安静ですからね」
「分かったよ……。ところで君は何者なんだ? えらく怪我人の扱いに慣れてるみたいだけど」
「別に……。あなたには関係のないことでしょう? 今、ご飯を作っていますから、大人しく寝ていてください」
「あ、ちょっと……」
呼び止める声も届かず、少女は部屋から出て行ってしまった。見た目の割にキツイ性格をしているらしい。
する事も無ければ身体は自由に動きもしない。俺は少女の言う通り大人しくベッドに寝転がって、天井と睨めっこをする事にした。
分からない。何もかもが、分からない事だらけだ。自分の事も分からなければ、ここがどういう世界なのかも分からない。何より不便なのは名前も思い出せないという事だ。あんなに傷だらけだったのだから、ひょっとすると俺は誰かから命を狙われているのかもしれない。そして命からがら逃げてきたのかもしれない。
そんな益体もない妄想だけがぐるぐると頭の中を回っていくのだが、これっぽちも自分の記憶というものが思い出せない。せめて自分の名前ぐらいは思い出したいところだが、困ったことに見当もつかない。
何もかもが空っぽで何もない人間。それが今の自分だ。
「ご飯、出来ましたよ」
ぐだぐだと下らない事を考えていると少女がお盆をもって部屋に入ってきた。非常に美味しそうだ。お盆を持っている少女の無愛想な顔とは裏腹にものすごく食欲をそそられるご飯である。
「ありがとう。それは何ていう食べ物なんだ?」
「シチュー、ですよ。知らないんですか?」
「すまない……。記憶喪失らしくてさ、自分の事もよく分からないんだ」
「そう、ですか。いえ、謝る必要はありません。私の方こそ気遣いが足りませんでした」
「驚かないのか?」
「別に、それだけの傷を負っていれば珍しいことでもありませんよ。そういう人は、見慣れています」
淡々と語る少女の顔は無表情だ。それが当然であるかのように、そしてそれがどうしようもない事実であると諦めきった顔だった。見た目は10代といったところだが、一体この少女はどれだけ過酷な人生を歩んできたのか俺には想像もつかない。
少女は机と椅子をもって俺の傍までやってくるとスプーンでシチューをすくって俺の口元まで持ってきた。とろりとした白いスープに野菜がたっぷりと入っていて美味しそうだ。
「えっと、ありがたいんだけど、流石に自分で食べれるよ」
「恥ずかしがらなくて結構です。あなたは怪我人で私は看病しているだけですので」
「いや、でもほら、手は動くから……っ」
「傷口が開いたのを忘れてしまったのですか? ほら口を開けて下さい。冷めてしまいます」
「う……。じゃあお言葉に甘えて……」
結局、俺は少女に食べさせてもらうことになった。少女の作ったシチューはとても美味しくて、いくらでも食べられそうだった。それに何より、ホッとできた。手料理の温かみ、というやつなのだろうか。どこか懐かしい味がして、泣きそうになってしまった。少女が何者で、俺はどこの誰であるかなどどうでもいい。今はとにかくこのシチューを食べることが重要だ。
それから俺は夢中で食べ続けてあっという間に皿の上にあったシチューは空っぽになってしまった。食べさせてもらわなかったら、喉に詰まる勢いでかきこんでいたことだろう。
「いやぁ、美味かったよ。君は料理も上手なんだな」
「これぐらい普通です……」
褒めると照れているのか目を逸らして、縮こまってしまった。強気なだけに見える彼女もこうしてしおらしい姿をみると可愛く思えてくる。
「それでも、美味しかったよ。ありがとう」
「どう、いたしまして。お皿を下げるので、もう今日は休んで下さい」
そういうと少女はさっさと部屋を出て行ってしまった。もう少しからかって遊んでみたかったが仕方がない。
名前とか、どうしてこんな森の中で住んでいるのか、とか色々聞きたいことはあったけど、それは明日でもいいだろう。お腹いっぱいご飯を食べて安心したせいか今はひどく眠たい。心地よい眠気に襲われて俺はベッド身体を預けてゆっくりと眠りについた。
◇
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「おかげさまでね。身体も楽になったよ」
昨日までの身体の痛みが嘘みたいに身体の傷はふさがっていた。包帯を外して身体の隅々を確認しても傷跡すらない。自分が真っ当な人間なのか少し不安になるほどの回復力だ。
「あなた、亜人か混血か何かですか? 普通じゃないですよ、あんな大怪我が一日にして治るなんて」
少女の作った朝食は昨日のシチューに負けず劣らず美味しかった。パンにスープにスクランブルエッグにサラダ。質素だが腹を満たすには十分だ。
「さぁな。正直自分が人間であるかどうかなんてこの際どうでもいいんだけど」
そんな事よりも自分がどこの誰で何をして生きてたのか、そっちの方が気になる。生きる理由も、目的も無い人生なんて、苦痛でしかない。
素直に俺がそういうと、少女の顔から一切の表情が消えて、平坦な声でしゃべり始めた。それは無愛想でも、無表情でもない、その顔にはただ色濃い諦観だけが刻まれているように見えた。
「どうでもよくなんて、ありませんよ。この世界は、種族でその人の価値が決まるんですから」
「その人の価値が決まるなんて、随分大袈裟だな……」
「大袈裟でも何でもありませんよ。記憶が無いから忘れてしまっているのだったら思い出させてあげますよ。この世界の残酷さを」
少女の声には一切の感情がこもっていない。目に生気がなく、ただ淡々と言葉を喋っているだけの人形のような歪さで少女は俺に語りかける。
「思い出させてあげるって……、この辺りに何かあるのか?」
「いえ、ここはただの森ですよ。ですから飛ぶんです。私の聖術を使って」
「飛ぶ……? 聖術……?」
「説明するより、見たほうが早いでしょう。少し準備をしますから、ご飯を食べて待っていて下さい」
そういうと少女は自分の食器だけ台所に持って行って自分の部屋に行ってしまった。せっかくのご飯を残すのも勿体無いので、俺は大人しく朝飯を食べることにした。おそらく少女も人間ではないのだろうがそれにしたって過剰に反応しすぎなんじゃないかと思う。
少女の種族は何か特別な差別でも受けているのだろうか。そうでもなければあそこまで過剰に反応したりはしないだろう。もしかしたらトラウマでも抉ってしまったのかも知れない。
そんな事を考えていると少女はマントを羽織り、ローブを被って全身を服で覆った格好で俺の前に現れた。率直な感想を言えば不審者か何かにしか見えない。
「あなた、今失礼な事考えませんでした?」
「そ、そんな事はない! それより聖術とかってやつで街まで行くんだろ? 早く行こう!」
「誤魔化された気もしますが、まぁいいでしょう。では私の手を握って、目を閉じて下さい」
俺は言われるがままに少女の小さな手を握って目をつぶる。少女の手は瑞々しく、華奢で小さい。力を入れてしまえば手折れてしまう百合のようだと、ふと思った。
目を閉じてすぐ、少女が何事かつぶやき始めた。さっきとはまるで違う言葉のようで何を喋っているのか俺には全く分からなかった。
ただ、少女が言葉を発する度に少しずつ身体が軽くなっていくようだった。重力から開放され、この世界のどこにでも行けるような錯覚を感じるほどだ。
不思議と恐怖は感じない。むしろ全てから解き放たれるという安心感が俺を包んでいた。
『聖なる名よ、我が命によって呼び起こせ。
束縛を解放、重力を空に、記憶を辿り道を開く
転移魔法-縮尺移動-展開!』
少女が最後の一言を発したのと同時、さっきまでの浮遊感は消え、急に狭い箱に閉じ込めらたかのような、身体が見えない何かに潰されるかのような奇妙な感覚がした。
「――――っ!!」
言葉も出ない。いますぐにでも逃げ出さないと内臓が口から飛び出てしまうのではないかと思うほどの圧迫感と閉塞感。だけど自分の手は何かに掴まれているかのようにそこから動くことができないでいた。
それは、少女の手に違いない。一体あの華奢な手にどれだけの力があるのかと不思議になるぐらい少女の手は俺の手を掴んで離さなかった。
そのうちに少しずつ意識も消えていく、透明な壁が迫ってきて身体を潰すように、自分の意識もやがて潰されてしまうのだろう。
永遠にも等しい時間を感じたような気がしたが、実際それは一瞬の出来事でしか無い。意識が途切れたと思った次の瞬間には俺はもう、少女の家には居なかった。