プロローグ
その災厄は、冬の夜に起こった。
無残に散らばる瓦礫と燃え盛る炎。それらの隙間から、人間の手や衣服の端が無造作に覗いている。時折、何処からか爆発音や破砕音が響くが、人の声は全く聞こえてこない。
空からは鎮魂の花びらのように、ひらひらと白雪が舞い落ちてくる。しかし、炎の熱で儚く溶け、地上に届くことは無かった。
そんな、炎熱と黒煙が渦巻く混沌の中に、天宮玖音はいた。
まだ顔立ちに幼さが残る十一歳の少年の瞳に、歳相応の無邪気さは無い。まるで消えかけた灯火のように生気が欠けている。しかし、消えかけていようと、未来を望む光が残っているのは確かだった。
その光の源は、玖音の前に立つ一人の少女。微風に靡く長髪は金色に染まり、正面を見据える瞳もまた金色に輝く。歳の頃は高校生くらいに見えるが、彼女が放つ超然とした雰囲気は人間すら逸脱していた。
少女が見据える先は、この破滅的な状況を生み出した元凶。暗闇が人の形を成した〝何か〟は、その身から景色を塗り潰すような黒の奔流を溢れさせていた。
迸る黒の奔流は、周囲のあらゆるものを蹂躙していく。その勢いは滞ることを知らず、玖音の視界の果てまで黒く染まっていた。玖音達二人の周囲をドーム状に覆う光の防壁が無ければ、彼らとて無事では済まない。
しかし、金色の少女は光の膜で身体を覆い、果敢にも災厄の中心に向かって防壁から飛び出した。宙を滑り、瞬く間に〝何か〟との距離を詰めていく。
――だが、黒の奔流から突如湧き出た人型の異形が、少女の前に立ち塞がる。異形は少女の背丈より倍以上は大きく、大木の如き太い手足をもっていた。
異形は少女の姿を見とめると、その巨腕を彼女に向かって振り下ろす。ゴッ、と空を裂く音の後、異形の鉄槌が少女を押し潰した。
「月詩さん! 」
たまらず、玖音は少女の名を呼ぶ。しかしその声は、さらに続く鈍い音に掻き消された。
「ハハハハッ、ハ、ヒハハハハハハッ! 」
異形は歪に哄笑し、何度も何度も拳を振り下ろす。その姿は狂気の具現であり、玖音は恐怖を覚えずにはいられなかった。
「――うるさいよ」
しかし、確かに聞こえてきたその声が、玖音の恐怖を拭い去る。
押し潰されたかと思われた金色の少女――月詩は振り下ろされた拳を超え、異形の懐に立っていた。そして、とん、と異形に触れる。
直後、異形の身体から眩き光の柱が立ち昇る。強烈な閃光は異形を貫き、塵すら残さず霧散させた。
そして、障害を排除した月詩は〝何か〟の前に立つ。光の膜は綻び、身体の至るところに傷を負っていたが、それでも彼女の立ち姿には侵し難い神聖さが感じられた。
「さあ、いい子は寝る時間だよ」
言葉と共に、精緻な図形と文字で構成された紋様が〝何か〟を覆い尽くす。先の烈光とは逆に月光の如く穏やかに輝き、〝何か〟を包み込む球形に編まれた紋様は、まるで金色の揺り籠であった。
それは遥か昔、月の女神が成した奇跡。朽ちることの無い永遠の命と引き換えに、覚めることの無い悠久の眠りを与える、その神秘の名は――――
「【永久夢境の伴侶】」
音も無く、玖音の視界が金色に染まる。
それは、ほんの一瞬。光が収まって玖音が見た時には、〝何か〟だと思われる小柄な影が月詩の足元に倒れ伏していた。
直前までの苛烈さに反した、災厄の静かな終結。初めは呆然としていた玖音だったが、次第に実感が湧いてくる。終わったのだ――そう、思ったのも束の間。
「危ない! 」
玖音が叫んだ直後、月詩目掛けて矢のようなものが無数に降り注ぐ。しかし間一髪、月詩は後退することでそれを回避した。降り注いだものは本来の標的を捉えることなく地面へと突き刺さる。
玖音が安堵する間も無く、〝何か〟の傍に何者かが忽然と姿を現す。その人物はロングコートのフードを目深に被り、飾り気の無い仮面で顔を完全に隠していた。
「あなた……誰? 」
月詩が問うも仮面の男は答えず、〝何か〟に向けて手を翳す。すると、ひとりでに地に描かれた紋様から幾条もの鉄鎖が伸び、〝何か〟に幾重にも巻きついていく。
「やめろ!」
仮面の男に向けて、月詩が複数の光弾を放った。だが、男に届く直前、展開された不可視の防壁が光弾を阻む。
数瞬の間、見えない壁に咲く光の花々。
それらが散った時には、仮面の男と〝何か〟の姿は忽然と消えていた。
くっ、と悔しげに唸る月詩。しかしすぐにその表情を仕舞い、玖音の下へ戻ってくる。
「ま、何とかなったね」
月詩が笑う。見る者を安心させる朗らかな笑み。だが、髪と瞳を染める金色の輝きが、玖音の空しさを助長する。
「じゃあ、さっき教えた場所に行って。私の仲間が力になってくれるよ」
「月詩さんは――」
一緒に行かないのか。
玖音はそう問おうとしたが、声が震えて言葉を紡げない。
玖音の声にならない問いに、月詩は淡く微笑む。
「残念だけど、もう時間切れ」
――ノイズ。
突然、まるでデジタル画のように、月詩の姿が不規則にぶれる。その度に姿が透けていき、彼女の存在感が希薄になっていく。
――月詩は、まもなく世界から消える。
訊くまでもなく分かっていた。それでも訊きたくて、既に出ている答えを得てしまい、玖音の目から涙が零れる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
涙と共に、深い後悔の言葉が溢れ出す。
月詩がこうなったのは自分の所為だ。その抱えきれない罪悪感に、玖音は押し潰されそうになる。
しかし、俯く玖音の身体をそっと、温もりが包み込んだ。
「玖音君が泣く必要なんて無い。これは私が選んだ道の結末だから」
強張っていた玖音の身体から力が抜けていく。月詩の抱擁は、内から溢れようとする罪の意識を優しく押し留めてくれた。
「確かに、消えるのは怖かった。……ううん、今も怖い。けど、私は君を助けたいって一番に望んだの」
月詩の言葉を聞くことしか、玖音にはできない。
「自分がそれを一番に望んで、その意志を徹すことができた。だからこそ、私はこの結末を受け入れられるんだ」
「……俺には、分からない」
「ごめんね、私の自己満足で」
月詩が苦笑する。
「でも逆に、玖音君はもっと自分に正直になった方がいいかな。君の意志こそが君の本当の在り方なんだから。例え道に迷ったって、その意志が道標になってくれるよ」
月詩の言葉は、理想の詰まった夢物語のようだった。しかし、だからこそ今の月詩はこんなにも美しく、そして尊いのだろうか。
「……なーんて。神様らしく助言してみたけど似合わないね、我ながら」
月詩がおどけたふうに笑う。
気付けば、月詩と触れ合う感触すらほとんど感じない。玖音の視界に雪がちらつく。
ゆっくりと、月詩が身体を離した。
「あ……」
玖音の口から声が漏れる。
何か言いたい。何でもいいから、自分の言葉を伝えたい。
だが、そう思うほど、玖音は言葉を紡ぐことができなかった。
ゆっくりと、月詩が玖音の頭を撫でる。
「ありがとう」
――そう言って、微笑んで。
月詩は跡形もなく、夜の闇に溶けていった。
世界に残されたのは、玖音ただ一人。
自覚と共に孤独感が湧き上がり、それを誤魔化すために空を見上げた。
気付けば、果てしなく深い漆黒の中に、冴え渡る銀光を纏った満月が姿を現していた。その澄んだ月光は舞い落ちる白雪を輝かせ、玖音の視界を白銀に染める。その美しさに、再び玖音の目から涙が出そうになる。
しかし、視界の端には雪に混じって、未だ金色の光が瞬いていた。自分の不甲斐なさに今度は苛立ちを覚え、玖音はぎゅっと、強く目を瞑る。
――そして、再び開かれた彼の目には、銀月にも劣らぬ強い意志の光が燦然と灯っていた。