城見物
好評を博した能興行も終わり、一足先に座から腰を上げた氏照は中山勘解由家範と横地監物吉信、それと重臣のひとりであった金子三郎右衛門家重の他にも氏照の養子となっていた源三を引き連れ御主殿と呼ばれた深沢山の麓にある曲輪へと歩を進めていた。
供回りに足元を照らされながら追手登城道を歩き、左手にある太鼓曲輪を見上げると、ちらほらと見える篝火の合間の夜空に満天の星が煌めいている。
「今宵は、まことに良い星じゃのぅ」
秀吉への怒りも治まり、酒も良い加減に入っていた氏照は滅多に見せる事のない気安さで夜空を誉めた。
宵闇の奥では山に降り注いだ雨が長い年月をかけて染みだし、伏流水として沸き上がっている。山腹の岩の隙間から地上に現れた湧水が寄り集まって流れる清流の声が実に心地よかった。
歩を進めている直ぐ脇からは滝の音も柔い夜風と共に流れ聞こえて来る。
深沢山の山腹から流れ来た清流は途中で岩場を削りながら流れてゆくのだが、それが御主殿のある曲輪の麓に滝を造る事からその小瀑は御主殿の滝と呼ばれていた。
「さようでございますなぁ。山に映えた星はまた一段と煌びやか」
吉信が追従しながら星見物を続けているうちに城山川に架かる曳き橋に差し掛かった。
滝はその橋桁の下、下矢倉の脇にあった。
水汲み場にもなっているそこは城で生活を営む女達にとっては憩いの場でもある。
炊事洗濯、山上曲輪に置かれている水甕への補給など、様々な理由を付けては老若男女皆ここへやって来て世間話の華を咲かせているのだ。
星空を見上げながら進む氏照一行の足元には松明の明かりが煌々と届き、暗闇の不自由さはなかった。
砂地となっている登城道を、足音を響かせながら曳き橋まで進んだ。
渡る先には月夜の薄闇の中、篝火に映し出された石塁と、その上に拵えられた土塀が浮かび上がっている。その奥にはあるのが質素ではあるが重厚な造りの館である。
「もう少しでこの城も完成じゃ。はよう小田原の城と肩を並べて関八州を睥睨する城をこの目で見なくてはのぅ」
顎に手を当てながら氏照は一人、頷いていた。
と、氏照はそのとき、供として従っていた若者数人に声をかけた。
「三介、兵衛、五郎次郎、お主ら先に館へ行って、これから持って行くものを用意しておけ」
氏照の後方で松明を掲げていた三人の供は、はっ、と返事をすると、小走りに橋を渡り切り一息に主殿へ向かう石段を駆けあがって行った。
速い。流石に若いうちの筋力とは衰えを知らぬものらしく、見ている者に体の重さが伝わらない走り方をするものだ。
「速い速い。あの石段をものともせずに走り上がって行ったわ」
闇夜に沈んでいた石段の上を、三人が持つ松明の明かりが尾を引いて登って行くのが見える。
金子三郎右衛門家重も、はははと笑って手を打っていた。
「なに、我らも倅どもに負けてはおられませぬぞ。これから上方との大戦にござるからな」
勘解由の一言で四人は豪快な笑い声をあげた。
こういった笑い声は虚勢であったとしても、供の者、館で傅く者には心強く響くものなのだが、それは勘解由の計算であったのかどうか。
足元では曳き橋がきしりと音をたてている。これは有事の際に焼き落す為に簡易に造られている証なのだが、忍がこの橋を渡るときにも音が鳴る。忍避けの造りでもあった。
氏照一行が活々と歩を進めている曳き橋のたもとには長屋矢倉があり、その入り口を潜ると主殿へと続く道が石塁で固められるのだが、先ほど三人の供が駆けあがって行った石段を越えた先には主殿入口にあたる鏑木門が見る者に覆いかぶさって来るように、ずしりとした威容を見せていた。
その内側には、まだ縄張りの途中ではあったが趣向をこらした庭園が拵えられている。
庭園の到るところに今夜の為の篝火が焚かれ、白い玉砂利が浮かび上がる様はここが山城の一部であるとは俄かには信じがたいような、一幅の風景画のような趣を見せていた。
黒白の山水画の風景を進んだ一行は、豪奢ではないが北條軍の常陸下野方面軍総大将の館としてはそれなりの趣向と規模を誇る間口に到着した。
松明を持った小姓が間口手前で腰をかがめ頭を垂れ、もう一人の小姓が戸を開いている。
「さて、これから一仕事じゃ」
そう言った氏照の目には、仄暗い筈の間口の内側がやや白んでみえた。
はて、と思いながらも足を踏み入れると、そこには八王子城主である氏照の妻が侍女を幾人か従えて傅く姿があった。
「御台ではないか。この様な所でどうした、まだ能舞台の方に居るとばかり思うておったに」
宿直の児小姓が座っているのかと思っていた館の上がりには比佐が出迎えているのだ。
しかし驚く氏照をよそに比佐は口元を袖で隠して静かに笑った。
「わたくしもお前様より一足先に館に戻っておりました。今宵の能見物のお礼を申さねばなりませぬゆえなぁ」
「礼などはよい。早めに戻ったのであれば奥で休んでいても良かったのだぞ」
口元を隠しながら頷くような仕草を見せた比佐だったが、そういえば、と言葉を変えた。
「先程お供の小姓が三人程ここにやって参りまして酒樽を運び出してゆきましたが、これはお前様が山上の曲輪にいる者に差し下すお心算で持たせたのでございますのか」
比佐はなかなかに感が良い。その言う通り、氏照はこの後直ぐに主殿裏手の径から山上曲輪(一の曲輪)まで上がり、そこから其々家臣が籠る曲輪に向かおうと思っていたところだった。
「いかにもさようじゃ」
「別れの挨拶、に出向かれますか」
比佐の目には細い笑みがあった。
聞くものが聞けば只の小田原出張の挨拶なのだが、つい氏照は本音が出た。
「別れなどと縁起でもない事を申すな。明朝小田原に出立した後はこの城にもいつ帰れるか分からぬ故な、名残惜しむために家臣達に酒をくれてやろうと思ったまでよ」
氏照は自分で言った言葉が比佐の言葉を否定していない事に気がついたのか、言い終わった後に苦笑していた。
「面白い事」
比佐は悲しげにふっと笑みを溢した。
「面白うございますが、お前様がそれほどまでにお勤めならば妻であるこのわたくしも、呑気に寝て等はおられませぬ」
「よいよい、御台は寝ておれ。まさか儂の後についてこれから山を登ろうと言う訳でもあるまい」
比佐がころころと笑いだした。静かに、聞く者に不快な感覚を与えない笑いだ。
「さすがにわたくしがお前様について山登りは致しませぬが、お前様と、それその後ろにおる家範殿と吉信殿、それと家重殿のお三人共々お戻りになられたら、お酒の御用意をさせて頂こうと思うたまで」
比佐が口元を隠しながら笑う姿は火皿から漏れる淡い明かりのためか妖艶なものだ。
「そうか、酒か。気が利いておるな」
「で、ございましょう。でもそれだけではありませぬ。色々と話しとう事もございます故、早めに館にお戻り下さいませ」
比佐が目を伏せがちに頭を下げた。
夫の出陣前に夫婦の睦言を求めた比佐の思いが込められていたのだが、それに気付いた氏照は家臣の手前、鷹揚に構える素振りを見せたがどこか気恥ずかしさが滲み出ているようで、監物と勘解由の苦笑を誘った。
「うむ、ならば早速にも山に登って参ろう。館裏側の径を登れば直ぐに一の曲輪に出られる故、酒樽を持った小姓達より早く行けるじゃろう」
気恥ずかしさを誤魔化すかのように声をあげて笑いながら、氏照は三つ指を付いている比佐の座る上がりの脇で手を三つほど打ち叩いた。
すると籠一杯の荷を抱えた侍女が現れ、氏照の目の前に荷を置くと少し下がって傅いた。
「これは、なんでござろう?」
勘解由は下がった侍女を横目に見ながら目の前の籠に山盛りとなっている笹の包みを見て首を傾げている。見ようによっては熊笹をちぎって籠に入れ、これから焚火でもしようかといった風情なのだが、ただ、その葉は青い。
「小姓に持たせた酒はあるが肴があるまい。皆に焼き味噌をくれてやるつもりじゃ」
氏照は口の前で親指と人差し指をまるめ、酒を呑むかたちを作って見せた。
「あぁ、焼き味噌にござるか。それは結構な肴にござる」
「さて、では行くか。御台も戻ったら声をかける故、それまでは奥で休んでおれ」
「はい、そうさせて頂きます」
笑みを浮かべた比佐は、続けて氏照の後ろに居た源三に声をかけた。
源三とは氏照の兄、氏政の子である。氏照には子がいなかった。いや、いたにはいたのだが、女子を一人儲けたのみで、その娘もつい先年嫁ぎ先で没していたために跡継ぎがいない。そこで子沢山でもあった兄から一人養子をもらっていた。
名を直重と言った。だが、始めの養子である直重は縁組後まもなく千葉家に送られたために改めて養子をもらった。それが源三である。名も氏照の通称であった源三を名乗らせていた。
余談なのだが、最初の養子であった直重は千葉邦胤の跡を継いで千葉氏第三十代の当主となっている。先代の邦胤は二十九歳で死んだためだ。
邦胤の死因は千葉家臣の桑田万五郎に腹を刺された事が原因なのだが、この桑田万五郎が凶行に走ったのは屁がもとだった。
屁で殺されてはたまらないが、事の起こりは天正十六年の新年祝賀会のこと。佐倉城の書院で行われる祝賀会の配膳係りの一人として桑田万五郎が務めていた。
このとき家臣一同に膳を配っている最中、万五郎がうっかりと屁を放った事があった。
はじめ邦胤は顔を顰めたのみで済ませたようだが、再び善を持って現れた万五郎が場所もあろうに、今度は邦胤の近くを歩いていた時に屁をたれたのだ。
場所柄を弁えぬ再度にわたる放屁を腹に据えかねた邦胤はその場で万五郎を手ひどく叱りつけた。
ここで万五郎が神妙に畏まるふりでもしておけば大事にならずにすんだのだが、この万五郎も正月の家臣一同が集まる席で何の臆面も無く屁をひる男だけに、自らの主人に食ってかかった。
「卒爾の失錯は庸常有之べき事なるに、かかる曠なる座中に於て形の如く顔面に辱を蒙る條、つれなき仕合なり」
しれっとした表情で抗弁したかと思うと反省する素振りも無い。
今でいえば『うっかり屁をひることは何時でもある事なのに、この様な満座の祝賀の席で怒鳴るとは、自分に恥をかかせるようで思いやりがないことよ』と言う事なのだが、そう自らの主人に向かって放言する事は、反対に主人を辱めることだと考えが及ばぬ性格だったのだろう。
この言葉を聞いた邦胤は一層激怒し万五郎を蹴り倒して手討ちにしようと太刀に手をかけたが、側近たちが万五郎を引き立てて危うく事なきを得た。
だが一方的に恥をかかされたと思いこんだ万五郎はその後、邦胤の隙を狙い続けて七月四日、とうとう凶行に及んだのだ。
その事件がもとになり、氏政の命で直重は千葉家の家督を継ぐため氏照の養子を解消させられて千葉家に入ったのである。
代わりに氏照の元へやって来たのが源三だった。
「源三、山登りの足元には充分気を付けるのですよ。自分だけでは無く父上の足元も」
言い終わるや比佐は、意味ありげな顔で声を出さずに笑っている。
「畏まりました。父上も良いお歳でございます故、それがしが足元を見て差し上げます」
「なんじゃ二人して、儂が年寄りだとでも申すのか」
氏照は口の両端を下げて見せた。見ようによってはすね者の様な表情が面白い。
「父上も今年、五十一歳におなり遊ばす。あと九年もすれば還暦にございます故」
「なんの、古希までならばまだまだ十九年もあるわい。しかしここに居ては年寄り扱いされそうでいかん。さっさと曲輪に出かけようかい」
氏照はすね者の顔のまま、そそくさと館を出て行った。
荷物を背負った氏照一行は館の裏側にある径、殿の道と呼ばれる道を登って行った。
城周辺の木々は全て切り払われているため昼ならば城下まで一望できる山道となっており、至る所に石を並べて防塁と土留を拵えている。
その石の間を抜けるように山肌を踏みしめながら進む一行の背には淡く輝く月が登っていた。
「急だな」
氏照は笑った。
土の間から突き出した岩がむき出しになった斜面を草鞋で踏みしめる事が何故か楽しくてしかたがない。
所々手をつかなければ登れない場所も堅固な城の構えを現している事を感じる。
手塩にかけた我が城を、闇夜に登っている自分に奇妙な感覚を覚えるのがひたすら可笑しかった。
途中の曲輪には何時もであれば数人が籠っているのだが、今宵は薪能を観覧した後は山の曲輪に行けとの城主からの命があったため人が居ない。
防塁と板塀がひっそりと立っている夜の曲輪は少々寂しくも見えるが、強固な守りが不落の城と映り力強く感じる。
急な坂道を登る最中にも腹の底から湧いて来る得体の知れぬ可笑しみのなか、山頂付近にある曲輪に近付くと兵どもが大勢が集まってなにやら騒いでいる声が聞こえて来た。
「皆、うかれておるのぅ」
「酒が先に届いておるのでございましょう」
額に軽く汗を光らせた勘解由家範が、氏照が見せた酒を呑む仕草を真似ていた。
板塀が張り巡らされている曲輪の一郭を潜り、構えとなっている枡形虎口を抜けるとそこは狭いながらも簡易な館が建てられ、一面に寝小屋と呼ばれた足軽達が寝起きする掘立の小屋が並んでいる。
その中央にあった簡易な館から騒ぎ声が聞こえているようだ。
勘解由が氏照の先に立ち館の戸を引くと、やはり先に小姓達が到着していた様で酒樽が並んでいる。
戸が開いた事で中にいた男達の何人かは一瞬戸口に視線を向けて来た。
「皆、ちと静まれ。殿のおなりじゃ」
勘解由の声が館の中に響くと、酒樽にかぶり付いていた者も皆一斉に戸の方に顔を向けたのだが、その中の一人があっと声を上げると転び出るように戸口に走り寄って来た。
「これは殿、先ほどの薪能、我らも観覧させて頂けるとは、ただただ忝のうございました」
男の顔は既に酒で焼けていた。
届いたばかりだと言うのに、早くも酒に酔った赤ら顔を篝火に照らされていたのは平井無辺であった。形は頭を垂れるようにしており腰は低い。
「無辺か、その方もここに居ったか。楽しめたのなら何よりじゃ」
「ささ、こちらへお入り下され」
無辺は氏照の手を取る様に館の中へと招き入れた。
この男は築城術に長け、八王子城の縄張りを任された普請奉行の一人でもある。氏照からの信頼は厚いのだが少々酒癖が悪く、また周囲からは小利口と陰口を叩かれる事もあったが、当の本人は一向に気にする素振りも無い。
その無辺に案内された館の中では、詰めの兵達が酒樽を中心に据えて床に車座になりながら酒盛りが始まったところだったようだ。
「皆、殿が参られたぞ」
酒樽から離れて平伏しようとしていた者達は入口に立つ氏照一行を見たとき、一瞬奇妙なモノを見る目つきになったのだが、無辺の声を合図に、直ぐに全員が頭を垂れた。
「皆、今宵は心行くまで飲んでくれ。じゃが酒だけでは明日の障りになる故、肴を持って参った」
そう声を上げた氏照を含め、背中に大荷物を背負った重臣達が居並んでいるのだ。館に居た者達が奇妙なモノを見る様な眼をしたのも致し方のないことでもある。
だが、主人が背負った荷を床に下ろしたことで合点が入ったようだ。
手近に座っていた者を手招きして手伝わせ、荷物を解いて笹包みをそこに居合わせた者達に配って行くのだが、その手元からは香ばしい味噌の香りが立っている。
「なるほど、これは良い肴」
手にした者から歓声があがってゆく。
城主からの思いもかけなかった差し入れであった。
先を急ぐため未だ配りきらない笹包みを氏照手ずから配り始めると、受け取る兵達は畏まって急ぎ床に膝をつき、頭の上で押し戴こうとするのだが氏照はそれを止めた。
「よいよい、そのままそのまま。ぬしらは儂の代わりにこの城を守る者たちじゃ。今宵は景気づけに無礼講と行こうではないか」
呵々と笑いながら氏照は全員に笹に包まれた焼き味噌を配り続けている。
「殿御手ずからの肴、有難く頂戴いたしまする」
最初の頃に受け取っていた誰かの一言が響くと氏照は一つ、大きく頷いていた。
「うむ、今宵はすごせよ」
そこにいる全員に焼き味噌を配り終えると、笹包みが未だ半分以上入った荷物を再び背負って辺りを見回した。目線の先には館の内に氏照を引きいれたことで役目を終え、再び酒樽に向かっていた無辺の姿があった。
「無辺」
氏照が声を上げた。が、どうした訳か当の無辺は酒に夢中で耳に声が届いていないらしい。
これには隣に並んでいた中山勘解由も苦笑いをした。
「無辺殿はどうにも酒には目がないお人のようでございますなぁ」
呆れたような物言いである。
再び氏照は声を上げた。
「無辺、これから案内をせい。曲輪に詰める者共にこれを……」
そう言って再び背負った荷物に指を差して見せた。
「配らねばならぬ故、城の縄張りをしたお主に道先案内を頼む」
やっと声が聞こえた無辺、驚いた様にはっと振り返ると、そのまま「ははっ」と神妙に頭を垂れた。が、やはり酒に未練があるようで、視線が物欲しげに酒樽の方に向いていた。余程酒が好きな男なのだろう。
ちなみにこの酒は伊豆の韮山あたりで造られていたもので、早雲庵がそれを江川酒として全国的に広めた銘酒でもある。
江川酒とは北條家が伊豆入りする前から土着していた氏族、江川氏(清和源氏宇野氏流)が製造していたとされている。
そして明応二年(一四九三年)当時、まだ伊勢の新九郎と名乗っていた早雲庵宗瑞が堀越御所に雲上人の端くれとして坐していた茶々丸を討って韮山入すると、すぐに地頭格の江川氏からこれを献上された事があった。
風味豊かなその味わいに感激した早雲はそれまで無名だった酒に『江川酒』と命名し、様々な武家に贈答品として使ったとされる酒なのである。
始祖早雲のみでなく、それは北條家代々が贈答品として使っていたようで直近では氏政が織田信長に武田討伐の戦勝祝賀の献上品として送った事もあった。
「無辺、酒が飲めずに残念であるなら、それ、これに入れて行けばよい」
氏照は苦笑しながらも館の入口あたりに掛けられていた瓢を手に取りそれを放り投げた。
ひょうと投げられた瓢を受け取った無辺は酒が飲めるのが余程嬉しかったと見え、目尻が垂れ下がって口の端に届くかと思える程に笑顔を作っている。
その奇妙な笑顔のまま酒樽に向かい、柄杓を使っていそいそと詰め替える姿は意外なほどに滑稽で周りの者達の笑いを誘った。
氏照主従の苦笑はいつか、その場の皆の大笑いに変わって行くのに時間はかからなかった。
八王子の城は広い。山上の尾根を掘平した山城ではあるが、山自体が大きく広大な為に平城の規模と殆ど変る事がない。急勾配が続く為に感覚的には平城よりも広く感じるほどなのだ。
その広大な八王子の城を、松明の明かりを頼りに無辺の案内で進むと山上曲輪から馬冷やしの山上辻を抜けた。
途中には上方勢との合戦を想定し、大天守への登城道の南に石を新たに積んで石塁としている。石塁から下は木々が全て伐採された剥き出しの地面が広がり、裾野までの険阻な山肌を露わにしていた。その頂上が詰めの城と呼ばれた大天守である。
そこには常時の番が二、三人居る程度なのだが、今日以降はそれから更に西に向かった尾根続きにある富士見台矢倉と合わせて四、五十人程を詰めさせていた。
八王子の西の守りはこの富士見台矢倉で終わる。
氏照から直接は見えないように遠慮していた無辺が大事そうに抱えた瓢から酒を呑み呑み案内をしていたが、ようやく引き返す所まで来た頃には瓢が空になっていたのは無辺が余程の酒好きだったか、それとも行脚の工程が長いのか。
空になった瓢を名残惜しげに眺めているのが何とも滑稽であった。
さて、酒がきれて素に戻った無辺が再び案内を始めると、氏照一行は再び駒冷やしから来た道とは別に分かれる水平道を通って主殿径に繋がる曲輪に出た。
そこからは坂落としになる細道に数々造られた腰曲輪の脇を抜けて御主殿曲輪まで降りて来るだけだ。来た時と少々異なるのは幾人かの詰めの兵達が戻っており、頭を垂れて見送ってくれた事だった。
氏照一行が再び館に戻ったとき、比佐が女達を使って甲斐甲斐しく酒の用意をしており、広間には膳が整えられていた。肴が幾つか乗っているだけの質素なものではあったが、なにもこれから夕餉を取る訳ではないからこれでも随分と豪勢なものとも言える。
「お疲れにございましたろう」
言葉をかけて来た比佐は夫の手にある盃に酒を注いでいる。
共に膳を囲んでいる横地監物、山中勘解由、金子三郎右衛門、それと源三には児小姓達が傅いて酌を始めていた。
また膳の上の肴の他にも、先ほどまで山上曲輪で氏照が配って歩いた笹包みの焼き味噌と同じものが侍女達の手によって並べられている。
『儂が山に登っているあいだに御台め、味噌を焼いておったか』
味噌を焼く。たったそれだけの事なのだが、比佐の心遣いが嬉しかった。
「これで心おきなく小田原へ参れまするか」
氏照の視線を感じたのか、膝もとへ銚子を置いた比佐が氏照に言葉をかけて来た。山上曲輪での家臣共への挨拶の事を言っているのだろう。
「うむ、主だったものを全て小田原へと連れて行くことになるが、我が腹心である横地監物、中山勘解由、金子三郎右衛門……」
氏照は居並ぶ皆の顔を見ながら名を連ねた。比佐との会話を耳にしていた四人も視線を氏照に向けている。
「今は山上曲輪に居るが狩野一庵に、太鼓曲輪に詰める檜原の平山綱景、下野の榎本から馳せ参じた近藤出羽守も居ったな。これだけの剛の者を置いて行くのだ。聊かも心配は無いよ」
言葉の途切れた瞬間。ほんの一瞬ではあったが、別れの寂しさが漂った。
「……いささか、歳が嵩んでおりまするがの」
湿気の籠りそうになった場の雰囲気に風を入れようとしたのか、横地監物の言葉に、居合わせた皆から笑いが漏れた。
「なに、そこが良いのさ。亀の甲より歳の功とは云うぞ」
「ちとひっかかりまするなぁ」
とは中山勘解由だった。
「歳の功も結構にござるが、しかしそれがしはまだ四十三。一庵殿や監物殿ほど老けこんではござりませぬぞ」
老臣達を見回し、口角をあげながら盃を持っている。戯けているのだろう、その目は笑っていた。
「なにを言う。四十も齢を重ねれば立派に隠居じゃ。それを三つも過ぎたのじゃ、諦めて我ら老人の仲間に入れ」
「そうよ。お主も照守と言う立派な跡継ぎがおるではないか。家督も譲った方がよかろう」
横地監物と金子三郎右衛門の言葉に合わせて氏照も笑っていた。
「そうじゃな。助六郎(中山勘解由)、この際倅に家督を譲って、我等と共に爺になろうではないか」
「殿までそのような……」
皆の笑い声の中、中山勘解由は渋い顔をしていたが、焼き味噌を一つまみ取り、酒で流し込むと一人合点が入ったかのようにうむ、と頷いた。
「主命では致し方ござるまい。この助六郎、腹を決めましてござる。今日限り家督は倅、照守に譲りましょう」
「そうか。ならばこれで我らは全員、爺となったな。儂はその爺の首魁として小田原に赴くが、お前達、どうか北條家の行く末を、この八王子の城で守ってくれ」
氏照はこの時、家臣に深く頭を垂れた。
「たのむぞ」
横地監物、中山勘解由、金子三郎右衛門、源三の四人は頭を下げる氏照に驚いたが、その声が重く響くなか、直ぐに手に持った盃を膳の上に置くと全員が氏照に対して床に手を付いていた。