出陣前夜
北條陸奥守氏照墓、寺の西南にあたれる山の尾崎にあり。
高さ六尺ばかり。西の方に青霄院殿透岳宗關大居士、天正十八庚寅年七月十一日と掘り、裏に元禄二巳巳(原文ママ)天七月二日北條陸奥守氏照公現住信庵隻海音造とあり。これは百年追善のときいとなみしものとみゆ。
氏照天正十八年に小田原城下田村安栖が宅にて自害のとき、その屍はいづかたへ葬りしにや。
由木永林寺の伝えによれば骨はかの寺に葬りしとあり。いわんや百年に至りて始て墓をいとなみしなれば、ここへ帰葬せしとおもわれず。
(新編武蔵国風土記稿多摩郡七巻より)
薪が爆ぜ、火の粉が薄墨を流した空に舞った。
瞬過の光明は名残惜しさも見せずに虚空へと消えて行く。
生老病死の四苦を一瞬で終わらせる火の精霊達は何を思って生まれて来るのだろうか。
夜の帳も降りた八王子の曲輪内には、今日の為に設えられた能舞台の周りに幾台もの篝火が焚かれ火の粉を虚空に舞わせている。
その脇には曲を奏でる囃子方が居並び、貌を火明かりに映し出されていた。
演目が始まり囃子方の持つ笛の音、鼓の音が鳴り響く。それに身を預けるかのようにシテと呼ばれる主役がふわりと現れた。
舞台の対に設えてある観覧席には侍烏帽子に直垂姿で正装した幾人かの重臣たちが居並び、その中央には小姓に酒を注がれながら能を楽しむ氏照の姿がある。
また少々離れた所には、氏照正室や侍女、重臣の室の座も造られ、身分の軽い家臣の妻女も招待されているのは氏照が家中を労うための心づくしでもあった。
暗闇の中、能の演目と合わせるかのように木々の間で花を満開に咲かせた山桜が、ひらひらと花弁を舞い散らせる様は篝火に照らされ、美しい。
日暮れから始まった演目は翁からはじまるが、最後の五番目物となると打ち鳴らす太鼓の音も激しくなる。シテの動きも見る者を圧倒し、演者の表情となっている鬼の面が観覧する者を威圧していた。
天正五年に築城を始めた八王子の城。それは天正十八年の春になっても未だ普請中ではあったが、連日打ち続く北関東出兵の為に疲弊した家臣達の慰労のため、それと明朝、上方の軍勢と戦うために小田原城へ向かう氏照自身のために催された薪能は、娯楽の少ないこの時期には好評を博していた。
舞台の設えてある曲輪では城主である氏照や重臣達の座する席とは別に、舞台周辺を四方に開け放ち立ち見の席も造られている。このため身分の軽い足軽等はそこを所狭しと埋め、舞が進むにつれて観客達は声も無く見入っていた。
夜の帳の中、この山城に育つ木立のざわめきが稀に聞こえて来るのは、ましらが鼓笛の音に魅かれて枝を揺り動かしているのかもしれない。
城周りは山塊に囲まれて鬱蒼と暗かった。
甲武に境するこの山は、土地の者には深沢山と呼ばれており、麓には神宮寺村がある。このため山頂に築かれた城も別名として、神宮寺の城とも深沢山城とも呼ばれる八王子城に、今宵は麓の寝小屋から家中地下人までもが集まっていた。
山深い地理のため春まだ早いこの時期、日も落ちると次第に冬の凍気が漂い始めているが、集まった人々の目には篝火の明かりで映し出された数少ない娯楽を髄まで楽しもうとシテやワキの舞、囃子方の奏でる鼓の一音までをも見聞き逃すまいと咳の音すら立つことなく、舞台から遠く離れて警護にあたる足軽も明るく照らされる舞台をちらちらと覗き見ながら白い息を輝かせている。
暫し幻想的な時が流れ、床を踏み鳴らしたシテの足音が鳴り響いたとき、脇に控えていた男が目線を舞台に向けたまま氏照に声をかけた。
「殿、明朝はいよいよ小田原出仕でございますな」
氏照の座る厚畳から左に下がるところで能の舞を見ていた城代家老、横地監物吉信である。
今宵の宴が明ければ氏照は小田原へと向かう。その事を口の端に登らせた。
「うむ、今度の合戦は困難を極めるだろう。だが、この八王子の城と小田原の城がある限り望みはある。努々(ゆめゆめ)、守りを疎かにすまいぞ」
主の言葉を聞いた吉信は視線を舞うシテから外して深く頷いた。
「殿が心血を注がれたこの城じゃ、我が身に変えてもお守り致しましょう。殿も小田原の大途様(北條氏直)、御隠居様(北條氏政)共々、上方の者共に小田原の城門前で地団太を踏ませてやって下され」
氏照がうむ、と頷き、二人は声も無く笑いあった時、ふと隣から声をかけて来る者があった。
「なに、お二方のご心配には及びますまい」
二人の会話に合わせるように、氏照の右方に座っていた中山勘解由家範が言葉を滑り込ませた。
「この八王子の城、いまだ普請中とはいえ上方の右府公(織田信長)の城である安土城の趣向も取り入れた峻嶮な山城でござる。一万が十万の人数で押し入っても落とす事は叶うとも思われませぬ。小田原の城同様、上方勢が攻め来たった暁には向かいの松嶽城(浄福寺城)との挟み撃ちで迎え撃ち、城門前で地団太を踏ませてやりますわい」
「滝山も檜原も備えは万全であるしな」
三人がひとしきり笑ったところで舞が佳境に入ったらしく、一段と謡が響いて来たことを切掛けに三人は再び舞に目を向けた。
「しかし、今まで色々と、ございましたなぁ」
三人は盛んになる舞台から目線を外す事無く会話を続けた。
「うむ、監物にも勘解由にも、随分と世話になったものよ。」
「何を言われますやら。上方との戦が終わればこれからも随分とお世話申し上げましょう」
勘解由の物言いに、氏照は声を出さずに笑いながら盃を傾けて白酒を舐めた。
日頃の重責からか額には険が強く浮き出ている事が常の氏照だったが、何故か今宵はその険が取れて心底目の前の薪能を楽しめている自分が不思議でもあった。
「能は、良いのぅ」
ぼそりと言葉を吐く氏照の近くに侍っていた小姓が、演目拝観の邪魔をしないように颯っと腰を上げて手際良く空になった氏照の盃に白酒を注いでいる。
薪の明かりに映し出された朱塗りの銚子に白酒が目にも鮮やかに映えていた。
「我が父(中山家勝)が山内上杉家から退き、北條家へと仕官仕ったは父が持った縁ではござるが、こうしてそれがしと殿と、君臣水魚の交わりを持てた事は、いつの間にかそれがしに降り積もった仏果とも功徳とも思うてござる」
氏照は盃を舐めた。舐めながら微笑んだ。
「したが我が殿が秩父の弟君同様、打って出る事を是とせなんだは意外にございました」
このとき、舞のシテが舞台で跳ねた。
トン、と音が鳴り響き、観客の目が一斉に釘付けになった。
「……いや、儂もな、新太郎(北條氏邦)同様、籠城には反対だったよ」
吉信はここで、ほうと声を上げた。
「ならば何故。上方の軍勢は謙信、信玄の軍勢をも凌駕する数で攻め下るだろうと噂が出ておりまする。まぁ先君大聖院様(北條氏康)が囲まれた河越の管領軍ほどではありましょうが、戦は一歩でも他領に出て行うべきなのではとの思いもありまする」
「御本城の評定衆がな、幾日もかけて評定を重ねた末に御隠居殿の考えと同じゅうなった。と寄越して来た。尾張守(松田憲秀)の戯けめが無理を押し通したかも知れぬのよ」
「尾張守殿を戯け呼ばわりされるとは、殿はあまりこの籠城には乗り気ではないようですな」
「応ともよ」
氏照は少々語気を荒げた。
「籠城とは後詰があってはじめて成り立つものじゃ。それを兄上(氏政)が分からぬ道理があろうか。その後詰に家康殿を当てにする事ができなくなった今、奥州の冠者(若者の意:伊達政宗)のみ色良い返事をくれてはいるが、これは余り信が置けぬ」
舞台の上では笛の音が一段と激しく高鳴り、鼓も激しく打たれた。
演者の動きも激しくなり客である家臣達も魅入られたかのように演目を凝視している。
氏照も目線をちらりと舞台に戻した。
「伊達殿も我が方に付くとの事ならば、上方の猿面郎(秀吉)も長く小田原を囲む事もできますまい」
中山勘解由家範も氏照の言葉を受けて近頃上方から漏れ聞こえる秀吉の風貌を皮肉った呼び名を使ったが、その言葉に氏照はゆるゆると首を左右に振った。
「なんの、佐竹と宇都宮がその猿面郎と昵懇じゃ。伊達も思う様に我らに兵を送る事はできまいよ」
「佐竹と宇都宮がまたぞろ邪魔立て致しまするか。下野の合戦(沼尻合戦)を思い出しますのぅ」
吉信が遠くを見つめる眼差しとなったのは、天正十二年に起った下野は沼尻・岩船山付近での北條家対佐竹・宇都宮陣営の長期に及んだ合戦を思い起したからなのだろう。
この合戦は上方での羽柴秀吉、徳川家康間で起こった小牧の役、長久手合戦の関東版とも云われた合戦である。
そもそもは織田信長が本能寺で横死後、関東管領として厩橋
(前橋)城に入っていた滝川一益の軍勢を北條氏邦率いる鉢形衆が主力となって、後世神流川合戦と呼ばれる戦いで追い払うと北條家は上野全土と信濃の一部にまで勢力を伸ばす事になった。
滝川一益が去った後に眼前に広がっていたのは、広大な旧武田領だった空白地帯である。
これを我がものとする為に北條家、徳川家、上杉家が互いに侵攻し、各地で戦火が上がった。
しかし当然ながら三家の間に境界争いが発生し、相互に合戦を仕掛ける事態が発生すると在地の諸勢力までが合戦に参加しはじめた広範囲な戦役となってしまった。
甲斐一乱(天正壬午の乱)である。
各地で起こる合戦に継ぐ合戦が四カ月も続くと流石の三家も疲弊して来る。このために北條・上杉間及び、北條・徳川間でついに講和を結ぶ事になった。
ここに、四カ月に及ぶ乱が収束を向える。
講和の条件は甲斐・信濃の国は徳川の切り取り次第とし、上杉家は信濃北部四群、北條家は上野を切り取り次第にするという条件である。
太守の実力から云えば北條家の方が各上なのだが、割譲される領地が少ない条件でも呑まざるを得なかったのは、先の乱で捗捗しい戦果を上げる事が出来なかった事と、悲願である関東制覇が優先された為でもあった。
この乱が収束してやっと平穏が戻ったかに思えた頃、北條家の伸張に不安を煽られた佐竹・宇都宮両氏が北條家属領でもあった由良国重、長尾顕長の二人を調略する事件が起こった。
そして翌年、由良国重が小泉城(群馬県邑楽郡大泉町)の富岡秀高を攻めた。
この報を聞いた小田原では、小泉城を救援するために氏政・氏直親子が軍勢を率いて出陣・後詰に入ると、別働隊を率いて長尾顕長の足利城(両崖山城:栃木県足利市)の攻撃を始めた。
だが同じ頃、佐竹・宇都宮連合が北條領である祗園城(小山城:栃木県小山市)を取り囲んだ事が切っ掛けとなって両陣営が睨みあう沼尻合戦に発展したのである。
結果、沼尻合戦は双方引き分けとなるのだが、北條家としてはこの合戦に早めにけりを付けて小牧の役・長久手合戦で秀吉と対峙する家康の後詰として向かう予定だったものが、思わぬ長期戦となったため家康の後詰が出来ず仕舞いとなっていた。
「ならば我が方は苦戦必至と云う事でござろうか」
吉信が苦い思い出に溜息を吐いた。
「ただ、な。関東の北を伊達が引き受けてくれるならば我らは西の箱根を押さえれば良いことが救いじゃ」
氏照の持つ盃に、幾度目かの白酒が小姓から注がれていた。
沼尻合戦を思い出したせいなのか、場が重い雰囲気になりかけたものを一掃しようと、家範が山中城の話題を持ち出した。
「箱根と言えば昨年、山中の城を氏勝殿が縄張りを始めたようでござるが、どの程度まで進んだのか気になりますなぁ」
「うむ、知らせに拠れば曲輪も増えたらしい。随分と攻め辛き城になったと聞く」
「それは心強い」
「上方勢はすでに大坂を出たとの事じゃ。東海道を城中に抑えた山中の城ゆえ、氏勝も玉縄の兵を引き連れて随分と気を張っていることであろうよ」
この頃、上方の秀吉は軍勢を三手に分けて大坂を出陣していた。秀吉の率いる本隊約一万六千が東海道、東山道を進む北国勢が三万五千、伊豆を迂回して小田原へと直接海上を進軍する水軍二万。合わせて七万一千の軍勢が三方からひたひたと押し寄せていたのだ。
また山中城と足柄城に向けては徳川家康、池田輝政を始め、丹羽長重、堀秀政、豊臣秀次等の六万八千余を差し向け、伊豆の韮山城には蒲生氏郷を始め、織田信雄、細川忠興、福島正則等を差し向ける構想を練っている所でもあった。
「殿は上方の軍勢が箱根路をやって来るとお思いか」
「間違いなく箱根を通って小田原にやって来る。だが一方からのみやって来る訳ではあるまい。おそらく北からも牽制の軍を分けてやってくる」
「人数に物を言わせるのでござるな」
能舞台の上を緩い風が流れると、燃え盛る薪を再び幾度か爆ぜさせた。
はじけた火の粉が一瞬、美しく夜空を飾った。
「まず西は氏勝が山中の城、氏規が韮山の城で上方勢を迎え撃つ」
中山勘解由家範は能舞台に向けていた目をふと主、氏照に向けたのだが、篝火の薄明かりの中では主人の表情の機微が今一つ分からなかった。
「この八王子までは、どちらが参りましょうか」
「分からん」
氏照の声に抑揚が無くなった気がした。
どこか、上方の大軍を籠城で堪えねばならなくなった悔しさが隠れているのだろうか。
「したが、山中の城に上方勢が取り付いたならば小田原から人数を繰り出すのでござるか?」
「いや、山中・韮山の両城は生半な攻めでは落ちぬ。攻めあぐねた猿面郎が軍勢を小田原に向けたときこそ」
「足柄を含めた四城で包み討ちにする腹にござりますな」
「応さ」
自らの言葉の景気づけの為か、手に持った盃をぐいと呷り一息に白酒を呑みこんだ。
「しかし、兄上の腹の虫が治まらぬのも無理は無い。秀吉めは我らを虚仮にしておるとしか言いようがない」
「我が方に見せる事のない秀吉の配慮、でござるな」
追従した横地監物の言葉に勘解由は唸った。確かにその通りなのである。これは北條家臣の間では既に噂となって広がっている事であった。
「関東の太守である我が北條家には聊かも配慮を見せず、我が方の配下となっていた徳川殿には血肉(妹:朝日姫)を嫁にやる程の配慮」
この言葉の裏には、徳川家と北條家が同盟した黄(木)瀬川での会見の時、酒井佐衛門尉が家康に言った言葉として伝わる『北条家の旗下に御成被遊たると世上に於て取沙汰可仕は必定に候』(駿河土産)がある。
現代語にすれば『世間では徳川殿は北條家の旗下になったと取り沙汰されますよ』と云う事なのだが、この黄瀬川の会見以降、正に北條家臣団はそう思っていた事に由来する。
「うむ。それにやつは散々我らに上洛を迫っておったが、いざ上洛してみると思いもかけぬ程の手酷い扱いであったと氏規が嘆いておったわ。爵位の上下で我らが徳川殿のみならず、上杉家の跡取りであった弟景虎(北條氏秀:三郎)を討って上杉家を専横した景勝を上に見て平伏せねばならぬなど言語道断」
「朝廷と結んだ秀吉めの公儀、と云う事にござろう」
氏照はさも悔しげに口を鳴らした。
「兄上の叙爵は従五位下じゃ。」
「まさに。氏規様も従五位下。正一位関白である秀吉は致し方ないとしても、従二位(正三位か)権大納言、左近衛大将となった家康殿、果ては直近までの仇であった景勝(従三位参議)までをも上に頂き遥か後方で平伏せねばならぬのですから、これは我らが公儀(氏政)が腹に一物を抱えるのも道理」
氏照はここで一度大きく息を吸い込んだ。
熱の入った身を冷やそうとしたのか、溜息が長かった。
「……秀吉は景勝を引き入れてからは北條家を潰す腹であったのは間違いない」
溜息が止み、注がれた酒をじっと見ながら独り言のように呟いた。
「何か、ありましたな」
緩い風が再びそよぎ、闇の中の梢を揺り動かしている。
その風に煽られた篝火からの白煙がゆらゆらと渦を巻き虚空に消えて行った。
「景勝めが秀吉と誼を通じた時な、取り交わした誓詞に『景勝が北條に対して存分があるのなら、儂は氏政と絶交する』そう書いておったと風魔から知らせがあった」
横地監物、中山勘解由は共に絶句した。
しばし硬直したが、揺らぐ風に乗った鼓の音に我に帰ったかのように身をびくりと震わせていた。
「ならば始めから我らが上洛しても上杉の好きなようにされてしまうではありませぬか」
中山勘解由の言葉に、そうだ。と云う様に氏照が言葉を吐く事も無く頷いて見せた。
「それが先年の氏規の上洛で明らかになったよ。氏規が、我が北條の立ち位置は家康殿よりも上。その家康に御骨肉を結ばれ、あまつさえ三州(三河国)に大政所を差し向かわせた。その礼を以て兄上を向かえるならば穏便に上洛するだろうと交渉したのじゃ」
「それがこの始末でござるか」
「端から穏便に済ます気などない猿めは上州の一件を臆面も無く公儀に歯向かった等と言って寄こしおった」
そう言った氏照は手にあった盃を握りつぶしそうになるほど力を籠め、怒りが双眸を充血させ始めていた。
「名胡桃城を力づくで奪った等と言い掛りをつけおって。そもそもは真田が譲り状をもって我が方に引き渡したものではないか。兄上や大途の弁明すら聞く耳を持たず、恥を忍びながらも上洛を急いでいた兄上の立場を足蹴にした猿面郎の関東惣無事令などは我が北條を縛り上げるための方便に過ぎなかったのじゃ」
一気に吐き捨てた氏照の額には、秀吉からの宣戦布告状を思い出したのか怒りによる癇筋が膨れ上がっていた。
「昌幸(真田)と秀吉にうまうまと乗せられてしまいましたなぁ」
横地監物は前半に差していた扇を抜き取り腹の前でそれを開け閉めしていたが、中山勘解由と氏照の会話を聞きながら溜息を吐いた。
「節操のない真田を使って秀吉が罠を仕掛けたのじゃ。何が『我意にまかせ狼藉の条、是非に及ばず』じゃ! 誰も攻めておらぬ城が勝手に落ちたと申すのか、笑わせおる!」