4.騒ぎの予兆
響希が教室に飛び込んだのは、始業のベルが鳴り響く中だった。荒い呼吸のまま教壇を見ると幸い担任の姿はまだなかった。
「ぎりぎり……セーフ!」
響希は疲労した身体を引きずり自分の席へと向かう。どっかりと腰を下ろし、大きく息を吐き出したところで、左からの視線に気づく。クラスメイトの平木和葉だ。その和葉が響希を見てケラケラと笑っている。
「なにかおかしいか?」
「響希ったらまた遅刻じゃない」
脱力しきった響希とは対照的に活発な喋り方をする和葉に対し、相変わらずだな、と響希は思う。
きりっとした目が印象の整った顔立ち。腰まで届く漆黒の髪はほんのり癖があるが、それが見るものにはふわりとした柔らかい印象を与える。
響希とは幼稚園からの付き合いであり、要するに腐れ縁である。
「先生は来てないから遅刻じゃないだろ」
「それは言い訳って言うんだよ」
相変わらず無駄に元気だなと思う。しかしそんな彼女の裏のない明るい笑顔に、響希もついつい釣られて微笑みを浮かべてしまうのだ。
「それにしても毎日毎日、君も本当に懲りないねえ。今日もお人好し活動してたの?」
「まあ、そんなとこ」
朝の出来事を思い出した響希は思わず溜息が出そうになるのを堪える。
「昨日も迷子の案内して遅れたし」
「また誰かから聞いたのか?」
「ふふっ、新聞部の情報網を甘く見ないことね。それよりも、あんまり遅刻してると成績に響いちゃうよ? 先生の好意にあやかれば良かったのに」
「そんなことまで知ってるのかよ」
響希の驚いた様子を見た和葉は自信満々に、控えめな胸を張る。
「自治会から感謝状貰うくらいなのに、特待も断るだなんて。本当にお人好しなんだから……」
「遅刻してるのは確かだからな。他の皆も文句言うだろうし」
「でもっ」
和葉はまだ何か言おうとしていたが担任が来たため、名残惜しそうにしながらも渋々前を向くのだった。
ホームルームが終わり、響希が横をちらりと見ると、和葉は何が楽しいのか鼻歌を奏でながら一時限目に使う教材を用意していた。
先程のことはすっかり忘れているようだ。彼女らしいといえば彼女らしいが。
響希も和葉から視線を外して教科書を取り出そうと鞄を漁る。目当ての物を机に置いたところで、目の前に誰かいることに気づく。それが誰かわかった響希は気づかない振りをして授業の準備を進める。
「って無視すんなよ!」
そうもいかないようで、目の前の人物、黒沢槇人に鋭い突っ込みを喰らう。
「はは、悪い悪い。つい面白そうで」
「つい面白そうで、人を無視すんなっつの」
槇人は男子の中では整った顔立ちをしているのだが、日頃の振る舞いからどうしても三枚目の印象が拭えない、残念なイケメンなのである。
「そんなことより響希クーン。宿題、見・せ・て?」
「やめろ気持ち悪い! それに宿題は自分でやってくれ」
くっつこうとする槇人を手で押し返しながら、響希はぺっぺっと唾を吐く振りをする。
「なんだよ冗談だってのに。それに、宿題もやってあるっての」
槇人の冗談癖は相変わらずだ。まともに付き合うとこっちが疲れる。
「へいへい」
「んだよ、面白くねーな」
「こっちは今朝から色々あったんだよ」
そう言って響希は頬杖をつく。思い出すのは朝の出来事。初日であれだ、これからを思うと頭が痛くなる。
「またお人好し活動か?」
和葉も槇人も他に言い方はないのだろうかと思ったが、多分二人の性格のことだ。まともに取り合ってくれないのは火を見るより明らかだ。
「そんなとこだよ」
「まあそう気を落とすなよ。そのうち美人を助けてお近づきになれるかもしれないぜ?」
その言葉を聞いて思い浮かぶのは無論、エミリアだ。誰もが振り返る美少女な上、謎の共同生活が始まったが、嬉しさよりは苦労の方が多いのが現実だ。
「そんなにいいもんでもないよ」
「マジかよ! 美人とコンタクトしてたのかよ!」
迂闊だった、と響希は悔いるが、時すでに遅しだった。槇人が見てるほうが気持ち悪くなるくらいの興奮の見せていた。
「いや、そんなんじゃないって……」
「今度会うときは俺も連れていけよ!」
聞いちゃいなかった。
「もう会わないって」
大嘘だが、ただでさえ手を焼くエミリアに槇人が加わるなど考えたくもない。
槇人はぶーぶー文句を言っていたが、まともに付き合っていてはこちらの身がもたない。傍から見ればそっけないかもしれないが、二人にとってはいつも通りのやり取りだ。
「ほらもう授業始まるぞ」
響希はしっしと槇人を追いやる。槇人は「またね響希クン」と気持ち悪い言葉を残して自分の席へと戻っていった。
やっぱり三枚目だな。
響希はそう思わずにはいられなかった。
そして、特に何事もなく授業が進み、昼休みまで後少しという時間。
教師の声とチョークの無機質な音だけが聞こえる教室で、響希はせっせとノートを書き込んでいた。
遅刻している分は取り返す。というわけでもないが、どうせやるならちゃんとやろうというのが響希の考えであった。
ふと、一息ついて顔を上げる。最前列の真ん中という教壇の目の前に位置する席には、居眠りをしている生徒の姿が。
槇人だ。もはや清々しいというか、堂々としすぎている彼は、案の定教師に叩き起されていた。夢の中では聞いていましたとかわけのわからないことを言って教師を怒らせては、周りを嘲笑などではない笑いで沸かせる。
槇人は、爽やかなマスクに人を笑顔にする才能。さらに授業は寝ているとはいえ、試験の出来はいつもトップレベルだ。少々ふざけ過ぎる性格さえ直せば、女子からもかなり人気が出るのではないかと響希は思う。だが、今の槇人だからこそ、響希にとって楽しい友だちと思えるのだろう。
お前はそのままでいてくれ、と響希は願う。
そして隣を見れば他の生徒と同じようにからからと笑う和葉の顔が。彼女もまた女子の中ではかなりの容姿をしており、明るく面倒みもいい。少々人にうるさいのがたまに傷だが。
響希の視線に気づいたのか、和葉と目が合う。和葉はこちらを見るなり、にかりと笑う。
槇人くんって本当に面白いよね、とでも言いたげだ。付き合いの長さからだろうか、和葉の表情で言いたいことはなんとなく分かるし、それは向こうもそうなのだろう。
それに引き換え、と思う。響希は自他ともに認めるかなりのお人好しだ。あまりに過ぎて痛い目に遭ったことも少なくはない。しかし、響希はどうにもこの性格を直す気にはなれなかった。
何か昔、響希は大事なことを教えられたような気もするが、いつ、誰からなのか、思い出せない。響希ほどの年齢にもなれば幼い頃の記憶など、ほとんど薄れてしまっているのだから無理もないと自分に言い聞かせる。
その時だった。窓際の生徒が何かに気付いたのは。
「校庭に女の子がいるぞ!」
校庭には体育の騒がしさはなかった。
その言葉に他の生徒、主に男子たちも何事かと窓に駆け寄る。勿論教師は席に戻れと叫んでいたが、効果はほとんどなかった。
槇人に至っては生徒の壁を必死に掻き分けて最前列を目指している。あまりのらしさに響希は自分の席に座ったまま苦笑する。
「んにゃ、響希は見に行かないの」
和葉に声を掛けられる。彼女も響希と同じように、自分の席に着いたままだ。
「いいんだよ」
「でもいいのー? 可愛い子みたいだし、響希だって男の子でしょ?」
和葉がニヤニヤと笑みを浮かべている。十中八九からかっている口振りだ。
「そりゃそうだけど、今更あの人だかりを掻き分けてまでは、な」
それに響希は昨日からその美少女に振り回されていたので、無意識に抵抗していたかもしれない。もうお腹いっぱいだと。
「まー、響希には私がいるものね」
「はい?」
和葉のいきなりの発言に響希が固まる。冗談と分かっていても顔が熱くなるのはどうしようもない。響希は高鳴る鼓動を隠して顔を逸らす。
「ふふーん……嬉しいんだ?」
響希をからかっているはずの和葉の顔も僅かに朱を帯びていた。冗談ではなかったのか。
なんだこれは? 響希の頭が混乱する。この腐れ縁の少女はこうやって響希を困らせるのだ。しかし、それが響希にとっては勿論嫌なことなどではなく。
響希がどうすればよいか分からず、二人の周りにピンクな空気が立ち込めかけてた時だった。
「髪の毛が銀色っていうのもかなりイイよな!」
興奮した様子の男子の声がやけにはっきりと聞こえた。思考が止まるのは一瞬だけだった。髪が銀色の美少女と言えば、思い当たる人物は一人しかいない。
「? どうしたの、響希」
不思議そうに首を傾げる和葉を横目に、響希は勢いよく立ち上がる。そして授業中だというのにそのまま走り出し教室を出る。
「ちょっ、響希!?」
「こら! 戻れ雄条!」
背中に和葉と担任の避難を受けるも、響希は振り返りもせずに走り続けた。