1.七色の瞳
少年、雄条響希は、えらく美しい少女と目が合った。
時間はやや遡る。雪の降り始めた街を目的もなく歩いていた響希は、赤信号に従い横断歩道の手前で止まる。
空を見上げると、暗くなった空の奥から、細かい雪が溢れていた。しばらくその光景に目を奪われていた響希は首を戻し、信号を確認する。
信号はまだ赤色を灯していた。響希が溜息をつくと、白くなった呼気が夜の空気に溶け込んだ。響希は未だ変わらぬ信号から視線を離して、横断歩道の向こう側を見る。
そしてその瞳にひとりの少女が映り込んだ。儚い印象の銀髪の美少女だ。顔は黒いキャスケットの影に隠れて表情までは窺えないが、かなり整ったシルエットをいているのがわかる。首から下はゆったりとしたゴシック模様のケープとキュロット、そして黒タイツ。
雪の美しさなど霞んでしまうほどの美しさがその少女にはあった。
響希が思わず見とれていると、俯き気味だった少女の首が持ち上がる。ややツンとした印象を受けるが、その顔は予想を遥かに上回る美貌であった。
その視線が響希のそれと重なる。少女と目が合った響希はそのあまりの美しさに、まるで体が石になってしまったかのような錯覚を覚える。
美貌だけではない。不思議なことに少女の黒い右目とは対照的に、左目は七色に輝いているのだ。宝石のように輝きを変えるその瞳は、まさに芸術品と呼ぶに相応しい美しさに満ち溢れていた。
信号が青に変わる。それに合わせて歩行者が一斉に渡り始める。しかし響希だけは魂が抜けてしまったかのように、未だに立ち尽くしていた。その視線の先にはこちら側に渡ってくる少女の姿が。
そうしているうちに響希のすぐ隣を少女が通り過ぎようとする。その刹那だった。
少女は何かに気づいたように急に後ろを振り返る。
少女の視線の先には、いつの間にいたのだろうか、白いスーツ姿の男がいた。まるでどこかの国の特殊部隊のような威圧感を醸している。男は一人ではない。後ろに続くその数、十人程度といったところか。突然現れたその男たちは全員少女の方へじりじりと詰め寄る。それに合わせて響希の隣にいる少女も男らを睨み据えたまま一歩、また一歩と後ろずさる。
ただ事ではないと感じた響希が少女に声を掛ける。
「あのさ、ヤバそうな雰囲気だけど大丈夫?」
声をかけられた少女は視線を変えないまま言う。
「見ればわかるだろう。お前は何事もなかったように逃げろ」
えらく尊大な喋り方だが、目の前の状況の方が深刻なため響希の驚きは少ない。
「逃げたら君はどうなるのさ」
「私は大丈夫だ。一人で逃げきれる」
少女が一歩、下がる。それに釣られて響希も後退する。
「そんな風には見えないけど」
「鬱陶しい奴だな。お前などいたところで足手纏いにしかならない」
そう言われた響希は表情をムッとさせる。華奢な女の子に、言いたい放題言われて怒らないわけがない。
「性格上、鬱陶しいっていうのは言われ慣れてる。勝手に俺があんたを助けるから―――」
台詞の途中で響希はいきなり少女に押し倒された。直後、ひとつの銃声が広い道路に響き渡った。そして通りに設置されていた女神の彫刻が砕け散る。
突然の出来事に通りが騒然とする。人々が叫び、逃げ出す。先ほどまで平和だった街の一角が恐怖に染まる。
響希が彫刻に目を移す。それは先ほど響希が立っていた場所の後ろの位置にあった。それを知った響希の体は震え、心臓も鼓動を速める。もしこの少女が助けてくれていなければ、今頃自分があの彫刻のようになっていただろう。
しかし、少女は何故避けることができたのか。発砲があったのはもちろん、男が拳銃を構えたのも響希たちが避けてからだったはずだ。まるで少女はそうなることがわかっていたかのように動いていたのだ。
そして、響希はやたら近い少女の顔の美貌に思わず見惚れるのと同時、その虹色の瞳がやけに輝いていることに気づく。
「ほら見ろ。私に肩を貸したと思われているぞ」
少女が立ち上がる。既に瞳の輝きは元に戻っていた。
響希も素早く立ち上がると、少女の手を引いて走り出す。
「馬鹿! なんで逃げない!」
「目の前で人が困ってるのにほっとけないだろ!」
響希は少女の手を引きながら叫ぶ。
後ろを見れば先程の襲撃者たちもこちらに向かってきている。彼らが持つ拳銃は全てこちらに銃口が向けられていることに、響希の心臓はさらに暴れ、冷や汗も溢れ出す。
「奴らはそのへんのごろつきとは違う。お前にどうこうできるはずもなければ、逃げきれるはずもない」
少女の言っていることは正しい。凡人である響希にはなすすべがない。
「でも、あのままだったらあんたは殺されてただろ!」
響希の叫びに、しかし少女は冷めた表情のままだった。
「奴らは私を殺しはしない。それに私は捕まらない」
またそんな強がりを! そう言おうとした響希だったが、走りながら何度も叫んだためか、肺が苦しくなり声が思うように出なかった。
不意に響希の手が左側に引かれる。
「左だ!」
少女の声を背に、響希は仕方なくよろけた体制を直しつつ左側に寄る。いきなりの行動に響希が抗議の声をあげようとしたそのときだ。
響希の横を銃弾が掠めた。
恐怖を感じるとともに、まただ、と響希は不思議に思う。
襲撃者たちがこちらを攻撃するよりも早く少女は避けているのだ。響希が振り返り少女の顔をみると、やはり少女の瞳は強い輝きを放っていた。
あれが何か関係でもしているのか? そう思う響希の手がまた引かれる。今度は先ほどよりも引く力は弱い。響希は引かれた方へと体を移動させる。
次の瞬間、やはり響希のいた空間に銃弾が打ち込まれる。疑問は膨らむばかりだが、広い道路を逃げてばかりいてはこちらの体力が持たない。そう考えた響希は襲撃者を撒くために建物に挟まれた細い路地へと進路を変えた。
響希は少女の手を引いたまま、家屋が立ち並ぶ道をさらに右へ左へと進路を変えていく。普段は通らない裏道だ。撒け切れるかという不安が響希の足を鈍らせようとする。だが、追いつかれてはいけないという使命感がその足に鞭を打つ。
そして、また目の前に分岐が迫る。響希が直感に従い、右へ曲がろうとしたその時だった。
「こっちだ!」
少女がそう言って響希とは反対側へと進もうとする。すると必然的に体を引っ張られた響希は仕方なく体制を整えると、今度は少女に手を引かれる形で左の道へを足を踏み入れた。
響希が振り返り後ろを確認すると、響希が進もうとした道の奥から白いスーツの男二人が飛び出してきていた。先程の襲撃者たちだ。どうやらいくらかの班に分かれて響希たちを追っているようだ。
不利な状況に重圧を与えられた響希の足はまたも鈍ろうとするが、心がそれを許さなかった。響希は危機感に駆られながらも、自分の引っ張る手を少しの間見つめ、視線を前方へと移した。
響希は、そういえば前にもこんなことあったような気がするな、と思ったがよく思い出せなかった。
思い出せないもやもやを吹き飛ばすために、響希はやや失速した自分の足を強くはたいた。
結果として響希の不安は杞憂に終わった。
少女が選択する行き先に敵は一人として現れなかったのだ。
そして、二人はどこともわからない狭い路地の奥に座り込んでいた。響希が暴れる肺を懸命になだめながら隣を見ると、少女も同じように肩で息をしている。
「なんとか撒いた…のか?」
「恐らくな。やつらはまだその辺をうろついているだろうが、ここでしばらく息を潜めていれば大丈夫だろう。じきに引き上げるはずだ」
そういって少女は深い息をつく。
響希は少女の虹色の瞳を見ると、それに気づいた少女と視線が重なる。
「どうかしたのか?」
「あんたのその目は、未来が見えるのか?」
響希は一番気なっていることを訪ねた。
その言葉に少女は隠すでもなく、感心したような面持ちになる。
「ほう、馬鹿なお前でもこの力に気づいたか」
「そりゃあな、って馬鹿呼ばわりかよ」
馬鹿と呼ばれ、響希は思わず口をへの字に曲げる。
「ああそうだ、無駄に正義感に溢れたお人好しの馬鹿だ」
「絶対褒めてないよな」
「褒めてないからな」
少女の物言いに響希はさらにイライラを募らせ、頬を引きつらせる。
「あんた、一体何者なんだ?」
超能力者、異星人、サイキッカー。少女の正体をああでもないこうでもないと考える響希だったが、少女の口から出てきた言葉は、想像を遥かに超えたものだった。
「私は…そうだな、強いて言うなら、神だ」
響希の思考が一瞬止まる。こいつは一体何を言っているんだ? 走り過ぎで頭でもやられたのだろうか。
「お前、今とても失礼なことを考えているだろう」
「そ、そんなことねえよ!」
少女の突然の神様発言に驚いた響希ではあったが、確かにそうだと認めざるをいない部分もある。虹色の瞳だ。
未来が見える目というあるはずがないものが、今響希の目の前にある。しかし、にわかには信じがたいのも事実だ。
「お前、信じていないだろう」
そう言って少女が響希の脛に軽く蹴りを入れる。
「いってえ!?」
響希が突然の痛みに思わず声を上げる。いくら相手が美少女とはいえ、蹴られて黙っているわけにはいかない。
「何すんだよ! ってアレ?」
だが響希は少女の異常に気づく。
落ち着けようとしていた少女の呼吸は収まるどころか、むしろさらに荒くなり、顔色も悪くしていることに気づく。
「具合でも悪いのかよ!?」
響希はぐったりとしている少女の肩を支える。
「力を……使いすぎた……ようだ」
ついに少女の言葉も途切れ途切れになる。響希は突然のことに狼狽えていた。
「神様じゃないのかよ!」
「神だからといって……力は無限じゃない。それに……この仮初めのもの……なおさらだ」
「そしたら、あんたはどうなるんだよ」
やり場のなさを感じた響希が拳を握り締める。
少女はそんな響希を見て、呼吸を落ち着けるようにひとつ、長い息を吐いた。
「心配するな。休めばちゃんと回復するさ」
そう言って少女は気を失うように眠りに着いた。あれほど乱れていた呼吸も今はか細く、響きにはいつ止まってもおかしくないように見えた。
「俺、どうすりゃいいんだ……」
響希の呟きはいつの間にか雪の振りやんだ空に吸い込まれていった。