0.あの日のヒーロー
幼い少年は逃げていた。
駆け抜けているのは、来たこともないような細く薄暗い裏路地だ。
がむしゃらに走り続けていつの間にか知らない道に入ってしまっていたが、振り返って確認する暇すら少年には惜しい。
少年は走り続ける。しかし、幼い子供の限界は早かった。ふらふらになった足がもつれ、体が地面に投げ出される。再び立ち上がろうとするも、少年の足はすっかり疲労がたまっており、動かすことすらままならなかった。
もがく少年の背に一回り大きな影が重なる。
少年は恐怖を覚えながら恐る恐る後ろを振り返る。
そこには少年を追っていた、極道風の男。一人ではない。その男の両脇にも似た風貌の男が二人。合計で三人だ。
男らがじりじりと少年に詰め寄る。
「悪く思うなよガキ。俺らの取引んとこ見たやつぁ生かしちゃおけねーんだ。たとえそれが何モンでもなぁ」
男が何を言っているのか少年には理解出来なかったが、本能で殺されると感じていた。少年は逃げることも忘れ、命乞いの言葉も知らずに、ただただ涙を流していた。
真ん中の男がナイフを取り出し、振りかぶる。そしてそれはなんのためらいもなく、振り下ろされる。
少年はきつく目を瞑り、来る痛みをこらえようとするが、その痛みはいつまで待ってもおとずれることはなかった。
少年は不思議に思い視界を開くと、そこには見たこともない装いの人物と、その手に受け止められた男の腕があった。
謎の人物以外全員が驚いた表情を浮かべていたが、ナイフを持った男は掴んでいる腕を振り切り、後ろに下がる。
「てめえ、何モンだ。ふざけた格好しやがって」
言われた謎の人物の姿は確かに普通ではなかった。頭を覆う、紫と黄色の星を模した形のマスク。全身を覆うスーツもマスクと調和したデザインの物だ。まるでその姿はテレビに出てきそうなヒーローのようである。
「ふざけているのはどっちだ? こんな幼い子供を追いかけ回して」
路地に男の声が響く。ヒーローの声だ。声からして20代後半だろうか。
「こいつは知らなくていいことを知った、見ちゃいけねえもんを見た。世の中にはルールがあることをこのガキにおしえてやんのさ」
「お前らの行いそのものが既に社会のルールからズレてるんだよ。 ……こいつが見た麻薬の取引現場とかな」
その言葉に男らは目の色を変える。
「てめえッ…!! 見てやがったのか!?」
「正義の味方に隠し事は出来ないのさ」
「調子乗りやがってッ!! ブッ殺す!!」
ナイフを持つ男の隣にいた男が怒りで我を忘れ、ヒーローに殴りかかる。ヒーローは特に慌てた素振りもなくひらりとかわすと、隙だらけの背中に拳を叩き込む。
常人とは比べ物にならないほどの膂力で吹き飛ばされた男は、声を上げる間もなく吹き飛ばされる。そのまま壁に激突し、それっきり動かなくなってしまう。
その出来事を目の当たりに残された男二人が冷や汗を浮かべる。
「次はお前らだな」
ヒーローは冷たく言い放つ。
「ま、まさか、ノヴァ?」
三人目の男が怯えた声を出す。その声を聞いたナイフの男が三人目に詰め寄る。
「何なんだあいつは!?」
「く、詳しくは知らねえけど、正義の超人が影で動いてるって噂だ。そいつに目をつけられたら終わりだ、って」
「そういうことだ。さあ大分待ってやったぞ。覚悟は……出来たか?」
そう言ってヒーロー、ノヴァが腕を掲げる。すると、その掌に光が収束し、それは剣の形となった。その剣の等身は煌く紫色であり、握り手も星をモチーフとした特殊な作りになっている。
ノヴァが武器を構える。一瞬の静寂が一帯に立ち込める。それを初めに破ったのは三人目の男だった。ナイフを取り出し、ノヴァに襲いかかる。
「死にさらせぁぁあああッ!!」
叫びながら斬りかかる男をノヴァは同じように避けると、今度は蹴りを食らわせる。男はピンポン玉のように吹き飛ばされ気絶する。
その光景を目の当たりにした、男が歯を食いしばり、顔を苦渋に染める。
「ちっ、やるじゃねえか。仲間にしたいくらいだぜ」
ノヴァは即答した。
「愚問だな」
「そうか……じゃあ死ねよ!」
最後の一人の男はそう言い放つと同時に、懐から素早く取り出した拳銃の引き金を引く。
銃声が路地に響き渡る。
「へっ、馬鹿野郎がっ…!!」
男が笑みを浮かべて拳銃を下ろす。だが目の前のノヴァが倒れないことに気づいた男は、表情を恐怖に歪めて、がたがたと震えだす。
ノヴァに打ち込まれたはずの弾丸が、その指に挟まれていたのだ。常識では考えられない胴体視力と腕力によるものだ。
その現実を突きつけられた男の動揺はさらに激しさを増す。
その男を見下ろし、ノヴァが剣を振りかぶる。
「ま、待てッ! た、助けてくれええええええええええッッ!!!!」
「お前はそうやって命乞いしてきた人達を助けたのか?」
ノヴァは冷たく言い放ち、ためらいもなく脳天めがけて剣を振り下ろす。
その軌道は男の頭から真下に容赦なく描かれる。男は痛みのあまり絶叫し、白目を向いた。
一連の出来事を見ていた幼い少年が、怯えたようにノヴァを見上げる。
「その人たち、死んじゃったの?」
ノヴァは男らに一瞥だけくれて、視線を少年に戻す。
「あいつらは死んじゃいないさ」
「でも剣で切ったじゃん!」
ノヴァは短く息を吐き、男を親指で指す。
「見てごらん」
少年が怯えながらも切りつけられた男を見ると、不思議なことに出血は愚か、傷口さえなかった。
どうなっているのかわからない少年に、ノヴァは説明する。
「この剣は生きているものを切ることはできないんだ。だけど、痛みはあるし、それはその人の中の罪の重さで決まる」
そう言ってノヴァはしゃがみこんで、目線を少年に合わせる。
「怪我はないか、坊主」
少年は涙を拭って笑顔を見せる。
「そうだ、いい笑顔だ!」
「おじさんは誰なの?」
「おじっ!?」
少年の言葉にノヴァの頭ががくりと垂れる。ノヴァは首を戻し、咳払いを一つ。
「俺はまだお兄さんだ。そして、正義の味方『救世の星ノヴァ』だ」
少年が目を輝かせる。
「僕もノヴァになる!」
「はっは! ノヴァになりたいか! それなら一つ大事なことを教えてやろう」
そう言うとノヴァは立ち上がり、少年に背を向ける。そして頭だけ振り返ると同時、ノヴァの体から眩い光が溢れ出す。
「正義の心を忘れるな。そうすれば、ノヴァはまた現れる」
言い終わる頃にはノヴァの身体は光とともに消えていた。