正
書き物リハビリ始めました
喫煙所でよく出くわす先輩。そのタバコを持つ右手には、何故か、細い油性ペンか何かで「正」の字が書かれていた。
くたびれたリクルートスーツ姿は彼女が就活生となって長い証であり、同時に未だに就活を続けている証でもある。口元はマスクで覆い、目元だけを化粧しているのは、今の生活に慣れてしまったのか、面倒くさくなってしまったのか。
そうした姿が見慣れてしまったからこそ、右手の「正」の字が気になった。真っ先に思いつくのは、数を表す為に書いたものだ。だとすれば画数的に5回。あるいは5つ。しかし、何を5回。
卑猥な想像に思い至った。5回、したのだろうか。ひとりと、それとも複数と。そう思い至ってしまうと、途端に先輩の顔を見る事が出来なくなってしまい、まだ先端に火を灯したばかりの煙草を思い切り吸い上げてしまう。
「これ、気になる?」
そんなこちらの考えを見抜いたものか、先輩は目元を柔らかくして笑うと、煙草を持った手をひらひらと振って見せた。卑猥な想像をしてしまった以上、真っすぐ問う事は憚られた。だから苦し紛れに、手にした煙草と結び付けてみる事にする。
「今日、朝起きてから吸った煙草の本数ですか。とすれば、今6本目ですね」
視線を逸らしつつの答えに、先輩は動きを止めた。どうしたのかと横目で見れば、驚いたような表情のまま固まる珍しい先輩の姿を見る事が出来た。
「あたり。すごいね。男の子連中に聞くと、絶対エッチな答えが返ってくるんだけれどね」
感心するような先輩の言葉に、嬉しくなるが、同時にもやもやともする。右手の正の字の事を男子連中に問うて回って、その度に卑猥な回答を受け取っているのかと思うと、ひどく嫌な気分になった。
「そうなのこれ。女で煙草吸っていると、どうにも面接官の受けが悪いのよね。男はいいのかよって感じでさ。やんなるよね」
フィルターを咥えて言いつつ、先輩は胸ポケットに刺したペンの中から細目の油性ペンを取り出して、正の字の隣に新たに「一」と書き加える。その一連の流れを見るに、禁煙への道はまだ遠いのだろう。
元々がヘビースモーカーであった先輩だ。手持ちの煙草をねだられた事も一度や二度ではない。加えて面接続きで内定が出ない、となれば、ストレスも相当なものだろう。心中察して余りある。
「キミも来年は同じようにひーひー言うんだぞ。文学部はただでさえ間口狭いんだから」
「先輩は心理学部でしたよね」
「もっと間口狭いの。一般社会にとっては」
たははと笑って吸殻をスタンド灰皿の中に放った先輩は、マスクの位置を直すとこちらに手を振って喫煙所を出て行く。これから学生課に出向いて求人票と睨めっこしに行くのだろう。先輩の背中に小さく手を振って頑張れと呟いた、その直後だ。
学生課の方からのしのし歩いてきた先輩の彼氏と、先輩がばったりと鉢合わせ。先輩は学生課へは向かわず、彼氏と連れ立ってどこかへ行ってしまった。
その後姿を追うこちらの視線は、傍からは羨まし気に映っただろうか。吸殻を灰皿の水の中に放って、箱からもう一本取り出し火を灯す。禁煙なんて、無理だ。