第10話 ただの、薬師です──これからも
薬草の匂いが、いつもと同じ朝を告げている。──でも、今日はどこか、甘い。
◇◇◇
公聴会から三日が経った。
薬局は──何も変わらない。朝が来て、薬草を量り、調合して、患者が来て、処方して、夕方になって、灯りを落とす。
何も変わらないことが──今は、嬉しい。
「セレスティア様、午前の分の乾燥が終わりました」
「ありがとう、マリア。棚に並べてくれる?」
「はい。──それと」
マリアが少し笑った。
「今朝も、リーゼちゃんのお母様がいらしていましたよ。お礼のお菓子を」
「また? もう十分いただいているのに」
「『あの薬師さんに助けてもらった』って、ご近所の方にも毎日のように話されているそうです」
午前中に患者が来た。風邪薬の老人。東第四区画から歩いてきた若い母親──リーゼの話を聞いて来たのだという。
問診をしながら思った。──噂は、下町から広がる。名前も、信頼も。
午前が終わって、薬草棚を整理していたら──扉の鈴が鳴った。
「セレスティア様、お客様です」
マリアの声に、少しだけ──いつもと違うものが混ざっていた。何だろう。からかいのような、嬉しそうな、そんな温度。
調合台の前から顔を上げた。
──クラウスが、立っていた。
私服だった。
ギルド長の外套ではない。シンプルな黒の上着に、灰色のシャツ。首元に紋章もギルドの印もない。ただの──クラウス・ヴェルナーとしての姿。
「……いらっしゃいませ」
「客ではない」
「では、何の御用ですか」
「……」
クラウスが──言い淀んだ。この人が言い淀むのを見るのは、初めてかもしれない。いつも言葉が少ないのは、言い淀んでいるのではなく、必要な言葉しか言わないからだ。でも今は──言いたい言葉があって、出てこない。
マリアが──気配を消して二階へ上がっていった。足音も立てずに。あの人は本当に、こういう時だけ恐ろしく有能だ。
◇◇◇
二人きりになった。
調合台を挟んで向かい合っている。窓からの光が明るい。春の光。冬の間は白っぽかった陽射しが、少し黄みを帯びている。
クラウスの目が──こちらを見ていた。灰色の、静かな目。でも今日は、静かなだけではない。何かが奥で動いている。
「セレスティア」
名前を呼ばれた。半音低い声。──もう、気のせいだとは思わない。
「はい」
「俺は──言葉が、足りない人間だ」
「知っています」
「暖炉の火を足すことはできる。文献を調べることもできる。看板を直すことも。──だが」
声が詰まった。聞いたことのない音だった。この人の言葉が、途中で止まる音。
暖炉の火。文献メモ。看板の金具。花の一輪。十年間の記録の保持。──全部、言葉の代わりだった。この人にとって、行動は言葉より正直だ。
でも今──この人は、行動ではなく、言葉を選ぼうとしている。
「十年前から」
低い声が、薬草の匂いの中に落ちた。
「──ずっと」
一呼吸。
「お前の答案を読んだ日から。あの試験で、お前が最初にルミナリス・アルバを手に取った時から。──他の受験者は教本通りの順番で薬草に触れた。お前だけが──自分の鼻で嗅いで、自分の指で触って、自分の順番で並べた」
知らなかった。──そんなところまで、見ていたのか。
「あの瞬間に──この人は本物だ、と思った」
クラウスの声が、少しだけ震えた。この人の声が震えるのは──あの日、扉越しに「逃げない」と言った時以来だ。
「五年間──資格が使われないまま、記録だけが残っていた。歯がゆかった。才能が埋もれていることが。──才能ではない」
言い直した。
「お前自身が。──お前自身が、埋もれていることが」
目が合った。灰色の目の奥で──何かが、決壊しかけていた。
「薬師として尊敬していた。──それだけなら、十年前で終わっていた。でも──終わらなかった。資格の記録を毎年更新するたびに、薬品管理官の注記を読むたびに、お前の処方箋が別人の名前で出荷されるのを見るたびに──」
声が止まった。長い沈黙。
薬草の匂いだけが、二人の間に漂っている。
「──好きだ」
短かった。
十年分の言葉が、たったそれだけに圧縮された。この人らしかった。
「……半音低い声で呼んでくださっていたのに」
声が震えた。──私の方が。
「ずいぶん、時間がかかりました」
「五年だ」
「十年です。──あなたが気づいたのが十年前なら、私が気づくのに十年かかった」
「……俺は、待つのは得意だ」
「もう待たなくていいです」
調合台を回った。クラウスの前に立った。
近い。──こんなに近くに立ったのは、初めてだ。
薬草の匂いがする。この人からも。ギルドの薬草園の土と、乾燥させた薬草と、インクの匂い。そして──ルミナリス・アルバの、ほんのわずかに甘い香り。
クラウスの手が、ゆっくりと上がった。頬に触れた。──指先が、まだ少し荒れている。土を触る手。薬草を育てる手。看板を直す手。
「いいのか」
「……さっきも同じこと訊きましたよ」
「確認だ」
「はい。──いいです」
唇が触れた。
静かだった。
薬草の匂いの中で。春の光の中で。窓辺のルミナリス・アルバが満開に咲いている部屋で。
長くはなかった。でも──十年分の沈黙が、溶けた。
◇◇◇
午後のお茶を、二人で飲んだ。
調合台の端に並んで座って──この配置、マリアが見たら何を言うだろう。いや、二階の窓から見えているかもしれない。
「……これからの、ことだが」
「はい」
「ギルド長と所属薬師の関係は──公に問題がないと裁定されたが、配慮は必要だ」
「そうですね。──私はここで薬を作り続けます。あなたはギルドを運営する。それぞれの場所で、それぞれの名前で」
「ああ」
「……でも」
「何だ」
「たまには──看板の金具を見に来てください」
クラウスが──目を逸らした。耳が赤い。
「…………必要があれば」
「必要なくても」
「……検討する」
笑った。声を出して笑った。──幸せだと思った。この人の隣で、薬草の匂いの中で、笑えることが。
◇◇◇
夕方。
クラウスが帰った後、薬局の前に立った。
看板を見上げた。
「セレスティア薬局」
右側の金具は──しっかり固定されている。あの日、クラウスが直した金具。傾きもなく、真っ直ぐに。
東通りを人が行き交っている。馬車の音。子供の声。商人の呼び声。──王都の日常。その日常の中に、私の看板がある。
窓辺の鉢植えを見た。ルミナリス・アルバ。白い花弁に、ほんのわずかに青みがかった筋。──満開だった。冬を越して、春を迎えて、小さな白い花が全て開いている。
二階の窓から──マリアが顔を出した。微笑んでいた。何もかも分かっている顔で、口は一文字に結んで、でも目が笑っている。
「セレスティア様──夕食の支度ができましたよ」
「ええ。──今行くわ」
扉に手をかけた。
振り返った。もう一度だけ、看板を見た。
私の名前。私の場所。──そして今は、訪ねてくる人がいる場所。
「ただの、薬師です」
呟いた。──あの日と同じ言葉。でも今は、続きがある。
「これからも」
扉を開けた。薬草の匂いが迎えてくれた。
──明日も、薬を作る。
私の名前で。この場所で。




