第2話 引き継ぎ事項:なし
帳簿を閉じる音が、五年分の沈黙に似ていた。
◇◇◇
翌朝から、私は動き始めた。数日をかけて、一つずつ準備を整えていく。
薬草室の調合台を拭き、道具を定位置に戻し、いつもと同じ朝を演じた。レナートは相変わらず朝食の席に現れない。リゼットの邸にでもいるのだろう。
──もう、気にならなかった。
「マリア」
侍女を呼ぶ。マリアは私より二つ年下で、嫁いだ日からずっと側にいてくれた人だ。
「はい、奥方様」
「一つ、お願いしたいことがあるの」
棚の整理をする手を止めた。振り向くと、マリアの明るい茶色の目がまっすぐこちらを見ている。
「私とあの方の寝室が──入籍の日から、一度も同じでなかったこと。あなたは知っているわね」
マリアの目が見開かれた。けれどすぐに、静かに頷く。
「……はい。存じております」
「それを、必要な時に証言してもらえるかしら」
何のために。マリアはそう尋ねなかった。五年間この家で何が起きていたか、この人はすべて見ていた。
「──奥方様」
「ええ」
「本当に、出て行かれるのですか」
出て行く。その言葉に、少しだけ胸が軋む。出て行くのではない。ただ、ここにいる理由がなくなっただけだ。
「お供させてください」
マリアが頭を下げた。深く、迷いなく。
私は頷いた。声がわずかに震えたかもしれないが──泣きはしなかった。
◇◇◇
薬草室に入る。
ここは五年間、私の世界だった。三つの領地に送る薬、宮廷に納める調合薬、季節の変わり目の予防薬。全てこの六畳ほどの部屋で生まれた。
処方箋の控えを回収する。
引き出しを開けるたびに、紙の束が増えていく。一年目、二年目──五年目。棚の奥、さらにその奥から、調合記録、配合比率の草案、効能の観察日誌。
「……こんなに、作っていたのか」
声に出して言って、自分で驚いた。一瓶ずつ、一枚ずつ。積み上げてきたものの嵩が、こうして並べると胸が詰まるほどだった。
(五年分の仕事。全部、あの人の名前になっていた)
感傷に浸る暇はない。処方箋の控えは一枚残らず梱包した。これは私のものだ。私の筆跡で、私の配合で、私の手が作った薬の記録。
帳簿の最終ページを開く。
次の月の納入予定欄。空白。その下の引き継ぎ事項欄──
ペンを取った。
「引き継ぎ事項:なし」
書いた。六文字。
なし、と書いたのは怒りではない。事実だ。この薬は私にしか作れない。配合も、薬草園の管理も、領地ごとの微調整も、全て私の頭の中にだけある。引き継ぐ相手がいない以上、引き継ぎようがない。
ペンを置いた。インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。
薬草園の向こうに、伯爵邸の塔が見える。五年間、毎日見た景色。
「奥方様がいなくなったら、この薬草室はどうなるのでしょう」
マリアが後ろで呟いた。
「それは──旦那様がお考えになることです」
自分でも驚くほど、声は平らだった。
◇◇◇
夕方、父に手紙を書いた。
『お父様。離縁いたします。ご迷惑をおかけしますが、しばらく実家に戻ることをお許しください。セレスティア』
これだけ。説明は後でいい。父には分かるはずだ。結婚に反対していたのは、他でもないあの人なのだから。
伝書鳥が戻ったのは、日が沈んでからだった。
父の字。父の紙。少し曲がった、力強い筆跡。
『迷惑ではない。五年間、よく耐えた。法的手続きは父に任せなさい。ヘルムート』
……短い手紙だった。
けれどその短さが、父らしかった。余計な言葉を足さない。心配しているのも、怒っているのも、筆跡の強さで分かる。
手紙を二度、読み返した。目の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
──泣かない。まだ、泣く場所ではない。
手紙を丁寧に畳んで、処方箋の控えと一緒に梱包した。これも、持って行くもの。
結婚初日の夜のことを、思い出していた。
あの日、レナートは穏やかに言った。
「薬のことは私がやる。君は家にいてくれればいい」
優しい言葉だと思った。当時の私は。薬学の素養がある夫が、家事に専念させてくれるのだと。
──違った。
「いてくれればいい」は、「黙っていてくれればいい」だった。私の薬を、私の名前を使わずに出荷するための、最初の一手だった。
初夜は来なかった。あの日もレナートの足音は私の部屋の前を素通りして、別の寝室に消えた。それが五年続いた。白い結婚。名前だけの夫婦。
必要とされていると思っていた。
薬を作ることで。この家の役に立つことで。
(……馬鹿みたいだ)
自嘲は一瞬。ペンを取り直して、離縁状の法的要件を一つ一つ確認していく。白い結婚の証拠──マリアの証言。それと、厰房の料理番ハンナ。あの人も五年間、奥方様の寝室に朝食を運んだことが一度もないことを知っている。証人は二人。処方箋の名義問題──控えの束。婚姻の実態なし──寝室の別。父の法的支援──確保済み。
一つずつ。一つずつ、調合の手順を踏むように。
離縁状の下書きが完成したのは、深夜を回った頃だった。
書類の横に、もう一つ。奥から出てきた古い紙──宮廷薬師資格試験の合格証書。十年前の日付。
「……ギルド長に、お礼を言ったことがあっただろうか」
あの日、試験官席にいた人。銀灰色の髪。名前は──まだ思い出せない。でも、あの人が付けた合格の印は、この証書に今も残っている。
合格証書を、処方箋の束の一番上に重ねた。
帳簿の最後のページ──「引き継ぎ事項:なし」。
ペンを置いて、窓の外を見た。月はもう沈んでいた。
明日は、あの人に離縁状を渡す。
もう耐える理由がなくなったのだから。




