第9話 以上です──もう一度
最終弁論の席に立った時、不思議と緊張はなかった。──言うべきことは、もう全て決まっていた。
◇◇◇
宮廷議事堂。二日目。
昨日と同じ円形広間。同じ石の壁。同じ反響。──でも、空気が違う。
傍聴席の顔ぶれが、昨日より多い。カタリーナ侯爵夫人の姿があった。父ヘルムートの姿も。──来てくれたのか。事前に連絡はなかった。
ディートリッヒが議長席に座っている。昨日より──顔色が悪い。声の余裕が、一つ剥がれている。
レナートは傍聴席の端にいた。昨日と同じ場所。──でも、顎の角度が少し下がっていた。
クラウスはギルド関係者の席に。目を合わせた。──昨日と同じ、一瞬。でも今日は、微かに頷いてくれた。
◇◇◇
「最終弁論を許可します。──セレスティア・ルーヴェン薬師」
審理官の声。
立ち上がった。証言席の木が、手のひらの下で温かかった。──大勢の人が、ここに手をついてきた温かさ。
「薬事規制法案について、最終的な意見を述べます」
声が通った。石の壁に反響して、広間の隅まで届いた。
「個人薬局の品質管理が困難であるとのお話でした。しかし──私が昨日お示ししたデータは、千二百四十三件の処方箋と、薬局開業後七十二件の治療実績です。有害事象はゼロ。成功率は百パーセント」
広間は静かだった。
「この法案は、品質管理の問題を提起しています。ですが──品質を管理する手段は、宮廷侍医団の認可だけではありません。ギルドの薬師資格制度、魔導筆跡鑑定による処方箋の帰属管理、薬品管理官の検査──既に機能している制度があります」
ディートリッヒの目が、書類の上に固定されていた。こちらを見ていない。見られないのだろう。
「薬事規制の名の下に、既に機能している制度を否定し、新たな認可権限を一つの機関に集中させることは──公益に資するとは考えられません」
一呼吸。
「私はただ──薬を作り続けただけです。それを必要としてくださる方がいる限り」
息を整えた。
「以上です」
あの言葉。あの日の公聴会でも言った言葉。同じ強さ。──でも今回は、あの時より少しだけ、軽い。あの時は最後の砦だった。今は──ただの事実だ。
◇◇◇
採決。
審理官が法案への賛否を求めた。侯爵級以上の貴族と、宮廷関連ギルド長が投票権を持つ。
反対票が、一つずつ積み上がった。
カタリーナ侯爵夫人。──予想通り。
ブレーメン侯爵。──レナートの領地崩壊で隣接領に住民が流入している。薬師の規制は自身の利害にも反する。
リンドグレン公爵。──王都の薬局を利用している大貴族。実績を見た上での判断。
宮廷薬師ギルド長。──クラウスの反対票。
賛成票は五票。反対票は十二票。
「本法案は反対多数により──廃案とします」
廃案。
肩から力が抜けた。──抜けたことに、自分で驚いた。力が入っていたことに、今初めて気づいた。
◇◇◇
続いて。不適切な関係の審査。
審理官が書類を整えた。
「ヴァイス子爵の嘆願に基づく、ギルド長と所属薬師の利益相反審査について裁定します」
レナートが背筋を伸ばした。
「ギルド長の判断は──開業届の承認、往診依頼の配分、費用負担のいずれについても、ギルドの規定および裁量権の範囲内であることが確認されました。利益相反には該当しません」
一呼吸。
「また、本嘆願の根拠となる『不適切な関係』について──提出された証拠は、嘆願者の主観的な主張のみであり、客観的な事実の裏付けはありません」
もう一呼吸。
「本嘆願は、証拠不十分により──棄却します」
棄却。──二度目。
レナートの手が、膝の上で握られた。白くなるほど。
そして──審理官が、もう一つ。
「なお──ヴァイス子爵が先の公聴会の裁定後も、確定済みの争点について繰り返し訴えを起こしていることは、宮廷への虚偽申告に準ずる行為と判断する余地があります。──本件について、追加の審議を発議します」
広間がざわめいた。
追加審議。──レナートの子爵位に関わる審議の可能性。
レナートの顔から、血の気が引いた。
「──最後に。ディートリッヒ侍医長」
審理官がディートリッヒに向いた。
「昨日の審議において明らかになった、カタリーナ侯爵夫人のお孫様の件について。侍医団としての事後検証を──」
「その必要はありません」
ディートリッヒが立ち上がった。声は──滑らかさを取り戻そうとしていた。でも、塗装が剥がれた跡は隠せない。
「──宮廷侍医団長の職を、辞任いたします。後任の選定は陛下のご裁可に委ねます」
広間が静まった。
辞任。──自ら、退いた。追い詰められたのではない、と見せたいのだろう。最後のプライドで、自分から退くことを選んだ。
でも──ここにいる人間の多くは、きっと知っているだろう。退く以外の選択肢がなかったことを。
ディートリッヒが法衣を正して、退出した。足音は最後まで正確だった。整えた靴で、整えた歩幅で。──声が崩れても、足音だけは崩さない人。それが──この人の、最後のプライドなのだろう。
◇◇◇
全てが──終わった。
広間を出る。廊下の光が、昨日の夕日より強い。午後の陽射し。冬の終わりの、少しだけ温度のある光。
カタリーナ侯爵夫人が声をかけてくださった。
「よくやったわね。──あなたの薬に救われた者として、当然のことをしたまでよ」
「ありがとうございます」
父ヘルムートが隣にいた。何も言わなかった。──ただ、一度だけ、深く頷いた。それで十分だった。
マリアが議事堂の外で待っていた。目が赤い。──また泣いたのか、この人は。
「おかえりなさいませ──」
「ただいま」
エルヴィンが走ってきた。
「セレスティアさん! 廃案です! 棄却です! ディートリッヒが辞任──!」
「知っています。──中にいましたから」
「あ。そうでした」
笑った。──声を出して、笑えた。
◇◇◇
夕方。
薬局に戻った。
調合台の上に、ルミナリス・アルバの花がまだ咲いていた。小瓶の水は少し減っていたが──花弁は開いたままだった。待っていてくれたのだ。
マリアが二階に上がった後、一人で調合台の前に立っていた。
扉が開いた。
足音。重くて、規則正しくて、一歩一歩が正確な──。
「クラウス」
振り向いた。
彼は──私服だった。ギルド長の外套ではない。シンプルな黒の上着。初めて見る。──いや、あの時とは違う。
「……終わったな」
「はい。──終わりました」
少しの間、二人とも黙っていた。調合台の花が、窓からの夕日に照らされている。
「クラウス」
「何だ」
「……答えは」
一歩、近づいた。
「春を待たなくても──もう、決まっています」
彼の手を取った。
大きな手。硬くて、乾いていて、爪の間にまだ薄く土が残っている手。この手が看板を直し、文献メモを書き、花を育てた。十年間──ずっと。
クラウスの手が──震えた。見たことのない震え方だった。
「……いいのか」
「はい」
「俺は──不器用だ。言葉にするのが──」
「知っています。──だから」
握った手に、力を込めた。
「言葉でなくていいです。──あなたはずっと、言葉以外で伝えてくれていましたから」
クラウスの指が──ゆっくりと、握り返してきた。
強く。確かに。十年分の重さで。
窓辺の鉢植え──ルミナリス・アルバの鉢植えの方を、ふと見た。
──白い蕾が、一つ、開きかけていた。
春が──来ている。




