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私の薬が夫の功績になっていたと知った日、白い結婚の終わりを選びました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第8話 あの薬師を信じろ


 公聴会の扉を開ける時、私は──もう、一人ではなかった。



     ◇◇◇



 宮廷議事堂の円形広間。石の壁に声が反響する場所。


 前回の公聴会──あの時は傍聴席から証拠を出す側だった。今度は、中央の証言席に立つ。


 議長席にディートリッヒ・ホフマン。白髪を撫でつけた五十代の男。宮廷侍医団の紋章が入った法衣。声は低く落ち着いていて、権威を塗り固めてある──そういう種類の低さだった。クラウスの声の低さとは全く違う。あちらは飾らない。こちらは塗装してある。


 傍聴席にレナートの姿が見えた。目が合った。──合わせてきた。視線を外さなかった。私も外さなかった。


 その隣──クラウスが、ギルド関係者の席に座っていた。


 目が合った。合ったのは一瞬だった。でもその一瞬で──昨日の扉越しのやりとりが全部、浮かんだ。


 「逃げない」。短い言葉。──忘れていない。


 「開廷します」


 ディートリッヒの声が広間に響いた。



     ◇◇◇



 第一議題。薬事規制法案の審議。


 ディートリッヒが説明を始めた。声は完璧に整えてあった。


 「個人薬局の増加に伴い、薬品の品質管理が困難になっている現状があります。ギルド長の承認のみでは、宮廷の医療水準を担保できません。──宮廷侍医団による認可制度の導入は、国民の安全のためです」


 国民の安全。──響きのいい言葉だ。


 「反論を許可します。──セレスティア・ルーヴェン薬師」


 立ち上がった。


 手には処方箋の束と、数字をまとめた報告書。マリアと二人で仕上げたデータ。千二百四十三件の重み。


 「薬事規制の必要性についてお話しいただきましたが、品質管理が困難であるという根拠を──具体的な数字でお示しいただけますか」


 ディートリッヒの眉が微かに動いた。


 「品質管理の不備は──」


 「ございましたか。──具体的に、どの薬局のどの処方箋に不備があったのでしょうか」


 沈黙。短い沈黙。


 「個別の事例ではなく、制度全体の──」


 「では、私から具体的な数字をお示しします。──審理官殿、資料の提出をお許しいただけますか」


 許可が出た。報告書を配布する。


 「ヴァイス伯爵家在任中の五年間で作成した処方箋は千二百四十三件です。全て魔導筆跡鑑定により私の手によるものと確認済みです。服用後の有害事象はゼロ。効能報告書の回収率は九十八パーセント」


 広間がざわめいた。数字が──響いている。


 「薬局開業後一ヶ月半で、処方箋七十二件。うち、既存治療が奏功しなかった患者への新規処方が十一件。成功率百パーセント。──この中には、宮廷侍医団の治療を受けられなかった患者も含まれています」


 最後の一文で──ディートリッヒの指が、僅かに動いた。机の上の書類を押さえる動作。けれど手が止まった。


 「品質管理が困難とのことですが──この実績を持つ薬局に、追加の認可が必要でしょうか」


 ディートリッヒは答えなかった。答える代わりに、議題の転換を提案した。


 「──第二議題に移りましょう。利益相反の審査です」



     ◇◇◇



 第二議題。ギルド長と所属薬師の不適切な関係の審査。


 レナートが傍聴席から発言の許可を求めた。


 「ギルド長クラウス・ヴェルナーは、所属薬師セレスティア・ルーヴェンに対し、通常と異なる便宜を図っています。開業届の即日承認。往診依頼の優先的な割り振り。ギルド費用による治療費の負担。──これらは、個人的な感情に基づく不当な優遇です」


 声は滑らかだった。社交界で磨かれた、完璧に調律された声。──でも、私にはもう分かる。この人の声が滑らかであればあるほど、中身は空だ。


 「ギルド長の証言を求めます」


 審理官の声。


 クラウスが立ち上がった。


 ギルド関係者の席から中央に向かって歩く。足音が規則正しい。背が高い。表情は──いつも通り、読めない。


 証言席に立った。


 「クラウス・ヴェルナー。宮廷薬師ギルド長」


 声が──硬かった。いつもより、もう一段。


 審理官が質問した。


 「開業届の即日承認について。通常の処理期間は」


 「三日です」


 「なぜ即日に」


 「セレスティア・ルーヴェンの資格は十年前に取得済みであり、処方箋の実績は千二百四十三件。──新規開業の審査で確認すべき事項は、全て公聴会の裁定で確認済みです。追加の審査は不要と判断しました」


 淡々と。事務的に。


 「往診依頼の割り振りについて」


 「ギルド所属薬師の中で、小児の魔力阻害症例に対応可能な薬師は限られています。実績と専門性に基づく適正な配分です」


 「治療費のギルド負担について」


 「ギルドの福祉規定第十七条。──ギルド長の裁量により、公益性の高い治療に対してギルド費用を充当することができる。該当する規定です」


 全て──法と規定に基づいた回答。一つも感情が入っていない。完璧な答弁。


 レナートの顔が強張った。


 「しかし──個人的な感情が判断に影響した可能性は」


 「ありません」


 クラウスの声が、一段低くなった。


 「十年前から彼女の才能を知っていました。資格試験の答案を読んだ時から。──それは事実です」


 広間が静まった。


 「ですが、ギルド長としての判断に私情は入れていません。資格を休止扱いにして十年間記録を保持したのも、ギルドの規定に基づく措置です」


 一呼吸。


 「──あの薬師を信じろ」


 声が変わった。事務的な硬さが、一瞬だけ剥がれた。


 「俺が信じているから正しいのではない。あの薬師の薬が、千二百四十三件の処方箋が──事実として証明している。それを信じろ」


 傭聴席の衣擦れが止まった。誰もが息を止めていた。


 事務的な答弁の中に、一瞬だけ──一瞬だけ、生の声が混ざった。それは告白ではなかった。宣言だった。薬師としての彼女を信じろという──宣言。


 (──クラウス)


 胸の奥で、何かが確定した。名前のつけられない何かではない。もう──名前は分かっている。



     ◇◇◇



 審理官が議題を整理した。


 「利益相反の審査に関して、追加の確認をいたします。──カタリーナ侯爵夫人のお孫様の件について」


 広間の空気が変わった。


 「カタリーナ侯爵夫人のお孫様が難病を発症された際、宮廷侍医団はどのような判断を下しましたか」


 記録係が書類を読み上げた。


 「宮廷侍医団より『治療困難』の所見が出され、侍医団としての治療を終了した旨の記録があります」


 「この判断を下した責任者は」


 沈黙。


 「──宮廷侍医団長、ディートリッヒ・ホフマンです」


 ディートリッヒの顔が──初めて、変わった。


 表情ではない。顔色だ。白い肌に、薄い赤みが差した。一瞬だけ──一瞬だけ、視線が泳いだ。


 「宮廷侍医団が治療を断念した患者を、ギルドの薬師が救った。──この事実について、侍医団長としてのご見解を」


 ディートリッヒが口を開いた。閉じた。また開いた。


 「……あの時点での医学的判断として、治療困難との所見は──」


 「質問を変えます。──侍医団長ご自身が治療を断念した患者を、薬師が救った事実がある状況で、『薬師の品質管理が困難』と主張される根拠は何ですか」


 沈黙が落ちた。


 石造りの広間に反響する沈黙。──この沈黙の種類を、私は知っている。公聴会の時にもあった。レナートが薬学の質問に答えられなかった時の、あの沈黙。


 事実の前で、権威が崩れる音。音はしない。──でも、確かに聞こえた。


 「本日の審議はここまでとし、採決は明日に持ち越したいと思います」


 ディートリッヒの声が──初めて、滑らかではなかった。



     ◇◇◇



 広間を出た。廊下は高い天井で、足音がよく響く。


 クラウスが──少し先を歩いていた。


 追いついた。並んだ。


 何も言わなかった。彼も何も言わなかった。


 ただ──並んで歩いた。足音が二つ、石の廊下に響いている。規則正しいクラウスの足音と、少しだけ速い私の足音。


 議事堂の出口で光が差し込んだ。冬の夕日。低い太陽。


 「──ありがとう、ございました」


 「何がだ」


 「信じろ、と」


 クラウスが──少しだけ、目を逸らした。


 「事実だ」


 それだけ言って、歩いていった。


 背中を見送った。──大きな背中だった。不器用で、寡黙で、自分の感情を「事実だ」の一言で済ませてしまう人の背中。


 明日。──明日で、全てが決まる。


 ルミナリス・アルバの花を思い出した。調合台の上で、まだ咲いているだろうか。


 ──咲いていてほしい。明日が終わるまで。

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― 新着の感想 ―
この人以外の個人薬局も全部入れた数字じゃ無いと、法案に対するデータとしては足りて無いのではないだろうか。
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