第7話 逃げないでください
ギルド長室の扉が、初めて閉まっていた。──私に対して。
◇◇◇
朝一番でギルドに向かった。公聴会の最終打ち合わせのために。
受付のエルヴィンが──いつもと違う顔をしていた。笑顔がない。
「セレスティアさん。──ギルド長に会う前に、一つ」
「何ですか」
「……ギルド長から、伝言です。『今後の薬事規制に関する連絡は、エルヴィンを通すように』と」
意味が分からなかった。昨日まで直接やり取りしていたのに。
「エルヴィンを──通す?」
エルヴィンの目が少し伏せられた。
「それと、公聴会の打ち合わせは、ブリギッテと行ってほしい、と」
クラウスが──私を避けている。
「理由は」
「……不適切な関係の審査が入ったからです。公聴会までの間、ギルド長と薬師が二人きりで会うのは──疑いを深める行為になると」
そうか。──そういうことか。
レナートの嘆願書が受理された。私とクラウスの関係が公的に審査される。その審査が終わるまで──クラウスは、距離を取ることを選んだ。
「分かりました。──ブリギッテさんはどちらに」
「会議室に。──セレスティアさん」
「何?」
エルヴィンが何か言いかけて、やめた。それから──小さな声で。
「ギルド長は──苦しそうでしたよ。今朝」
その一言だけ残して、受付に戻った。
◇◇◇
ブリギッテとの打ち合わせは淡々と進んだ。
薬事規制法案の反論要旨。薬効データの提示方法。質疑への想定回答。ブリギッテの準備は完璧で、私が補足することはほとんどなかった。
「それと──不適切な関係の審査についても、準備が必要です」
ブリギッテの声は事務的だった。
「ギルド長が薬師を優遇した事実があるかどうか。──具体的には、開業届の承認速度、往診依頼の割り振り、ギルドの費用負担などが問われる可能性があります」
開業届の即日承認。往診依頼を私に回した判断。リーゼの治療費のギルド負担。
──すべて、クラウスの判断だった。
「反論の余地はあります。開業届の承認はギルド長の裁量権の範囲内。往診依頼は実績に基づく適正な配分。費用負担はギルドの福祉規定に該当します。──法的には問題ありません」
法的には。──でも、社会的には。
「ブリギッテさん」
「はい」
「クラウスは──どうするつもりなんでしょうか」
ブリギッテの眼鏡の奥の目が、一瞬だけ揺れた。
「ギルド長は──『俺の私事で彼女の評判を傷つけるわけにはいかない』と。だから、公聴会が終わるまで接触を断つ、と」
彼女の評判を傷つけるわけにはいかない。
──ああ。
この人は、また。
自分の感情を押し殺して、私を守ろうとしている。看板の金具を直して何も言わなかったように。文献メモを署名もなく置いていったように。花を一輪、名前も書かずに。
全部──全部、「黙って守る」。
それが、この人の優しさの形。
でも──
(それは──優しさではない。逃げだ)
椅子を引いて、立ち上がった。
「ブリギッテさん。ギルド長室は──今、施錠されていますか」
「……はい。ですが──」
「すみません。少し、失礼します」
◇◇◇
ギルド長室の前。
重い樫の扉。ノックした。
返事がない。
もう一度、ノックした。
「──面会は後にしてくれ」
声が聞こえた。扉越しの、くぐもった声。低くて、いつもより──少し疲れている。
「セレスティア・ルーヴェンです」
沈黙。長い沈黙。
扉の向こうで、椅子が動く音がした。足音が近づく。──でも、扉は開かない。
「今は──会えない」
「会えない。……会えないのですか。それとも、会わないのですか」
沈黙。
「……お前のためだ」
「私のため」
声が震えた。──震えていることに気づいて、拳を握った。
「私のために、私を遠ざけるのですか。私のために、一人で看板を直して、一人で文献を調べて、一人で花を育てて──そうやって全部一人でやって、最後は一人で距離を取るのですか」
扉の向こうが静かだった。
「看板の金具を直したのは、あなたです。文献メモを私の利き手側に置いたのも。昨夜の花もあなたです。──全部知っています。私は鈍いですけれど、五年間も鈍かった分、もう騙されません」
声が大きくなっていた。──ギルドの廊下に響いている。誰かに聞こえているかもしれない。構わなかった。
「逃げないでください」
言った。
言ってしまった。
「あなたが私を守るために私から離れようとしているのは──分かります。分かりますけれど──」
息を吸った。目の奥が熱い。
「私を守るために、私から消えないでください。──五年間、透明だったのは私です。あなたの隣にいる時だけ、名前がある私になれたのに。その人に、消えろとは言わないでください」
沈黙。
長い、長い沈黙。
扉の向こうで──息を呑む音が聞こえた。低く、小さく。聞いたことのない音だった。この人が揺れている音。
鍵が回る音がした。
扉が──薄く、開いた。
隙間から見えたクラウスの目。灰色の、静かな目が──揺れていた。
「……逃げているわけではない」
「逃げています」
「──公正性を守らなければ」
「公正性は、ブリギッテさんが守ります。法的には問題がないと。──あなたが距離を取る必要は」
「俺が近くにいれば、お前の評判が──」
「私の評判は、私の薬が守ります」
声が、まだ震えていた。でも──泣いてはいない。昨夜の涙で十分だ。
「明日の公聴会で、薬事規制の反論も、不適切な関係の審査も──私は全部、受けて立ちます。でも、あなたがいない公聴会で勝っても──」
言葉が詰まった。
「……意味がないとは、言いません。でも。──あなたが背を向けたままでは、私は」
扉がもう少し開いた。
クラウスの手が見えた。扉の縁を握っている。指先に──まだ、薄く土が残っていた。
「……分かった」
声が低かった。いつもの事務的な低さではない。もっと深い場所から出ている声。
「逃げない」
短い言葉。それだけ。
でも──その短い言葉に、この人の全てが詰まっていた。
◇◇◇
薬局に戻る道を歩いた。
足音が早い。心臓がまだ速い。
(あんなこと──言ってしまった)
「逃げないでください」。廊下に響く声で。誰に聞かれたか分からない。──聞かれていたら、それこそ「不適切な関係」の証拠になるのではないか。
(……いや。知ったことか)
自分の言葉に驚いた。知ったことか、なんて──五年前の私は絶対に思わなかった。レナートの隣にいた頃の私は、声を荒げることすらなかった。
変わった。──変わったのだ。
マリアが薬局で待っていた。
「おかえりなさいませ。──大丈夫ですか」
「大丈夫。……明日の公聴会、二本立てになるわ。薬事規制と、不適切な関係の審査と」
「まあ──」
「大丈夫よ。──もう、逃げないと決めた人がいるから」
マリアが首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。
◇◇◇
同じ夜。ヴァイス子爵邸。
俺は窓の外を見ていた。
領地の陳情書。今日は四通。昨日は五通。一昨日は三通。数えることすら馬鹿らしくなった。
代替薬師の募集をかけたが、もう応じる者はいない。オルテ領の評判が知れ渡ったのだ。「薬師が四人逃げた領地」。──誰が来る。
住民が流出し始めている。隣のブレーメン侯爵領に。あちらにはギルドの支部がある。薬が手に入る。
リゼットの手紙を読み返した。
『カタリーナ侯爵夫人に潰されました。噂工作はもう無理です。法案が通るのを待つしかありません。──レナート、あの薬師を潰せなかったら、もう終わりよ。私たちは』
「私たち」。──いつから俺たちは「私たち」になった。
リゼットがいなければ──いや。いてもいなくても、結果は同じだ。
便箋を机に置いた。ペンを取ろうとして──やめた。
帳簿を開いた。空白のページ。薬草の仕入れ欄が──もう三ヶ月、何も記載されていない。
五年間、毎日のように数字が並んでいたページ。毎月の薬草の仕入れ量。配合済み薬品の出荷件数。効能報告書の受領数。──全て、あの女が一人で回していた数字。
「引き継ぎ事項:なし」
あのたった一行が──結局、全てだった。
窓の外は暗い。明日は公聴会だ。俺の嘆願書が受理された。不適切な関係の審査。──あのギルド長と薬師を引き離せば、薬局は弱体化する。法案が通れば、営業許可が奪える。
そうすれば──
(そうすれば──どうなる)
あの女が戻ってくるわけではない。処方箋は戻らない。領地の薬事は──
考えるのをやめた。考えても、帳簿の空白は埋まらない。
蝋燭を消した。暗い書斎で、目を閉じた。
薬草の匂いを──探したが、もう、どこにもなかった。




