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私の薬が夫の功績になっていたと知った日、白い結婚の終わりを選びました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第6話 一輪の花


 処方箋の束が、机の上で小さな山になっていた。──五年分の重さは、紙だけではなかった。



     ◇◇◇



 公聴会まで、あと三日。


 調合台の上に処方箋の写しを広げて、整理を続けている。五年分の配合記録と、薬局開業後の治療実績。全てを数字にする作業だ。


 マリアが隣で表を書き写してくれている。


 「セレスティア様──五年間の処方箋、総数が出ました。千二百四十三件です」


 「ありがとう。次は疾患別に分類するわ」


 千二百四十三件。五年間、途切れることなく調合を続けた数字。風邪薬から難病の特殊処方まで。三つの領地、それぞれの水質と標高に合わせた微調整。患者ごとの体質記録。


 全て、私の筆跡。私の頭脳。私の手。


 そして──薬局開業後の実績。一ヶ月半で、処方箋七十二件。うち、既存治療が効かなかった患者の新規処方が十一件。成功率は百パーセント。


 数字は嘘をつかない。


 「マリア、このデータを……」


 「写しを二部ですね。一部はギルドに、一部は公聴会に提出」


 「──ありがとう。先回りされると少し悔しいわ」


 マリアが笑った。珍しく、私も少しだけ笑えた。



     ◇◇◇



 午後。ギルドにデータの一部を届けに行った。


 受付でエルヴィンに書類を渡す。エルヴィンは中身を確認して、小さく口笛を吹いた。


 「千二百四十三件。──ヴァイス伯爵名義で出荷されていた時は、結局何件でしたっけ」


 「同数です。全て私が作成したものですから」


 「ですよね。──いや、改めて見ると凄い数字だ」


 書類を預けて、帰ろうとした。


 廊下を曲がりかけた時──エルヴィンの声が聞こえた。独り言だった。私に向けた言葉ではない。


 「ギルド長、今日もセレスティアさんの薬局の方角を見てますね」


 足を止めた。


 振り返ろうとして──やめた。聞こえなかったことにした。聞こえなかったことにしなければ、歩けなくなりそうだったから。


 (……薬局の方角?)


 ギルドの本館から東を見れば、セレスティア薬局のある東通りの方角だ。窓から見えるわけではない。距離がありすぎる。見えるはずがないのに──見ている。


 考えるな。今は考えるな。公聴会の準備がある。



     ◇◇◇



 公聴会の前夜。


 薬局に一人。マリアは二階で休んでいる。


 データの最終確認を終えた。明日の流れを頭の中で何度も繰り返す。──ディートリッヒが議長。レナートが傍聴席にいるだろう。質疑は薬効の実績データに集中するはず。カタリーナ侯爵夫人が反対票に回ってくれると、父からの手紙にあった。


 大丈夫。──準備はできている。


 蝋燭の灯りを一つ消した。もう一つも消そうとして──手が止まった。


 調合台の端。右手側。いつもクラウスの文献メモが置かれていた場所に──何かがあった。


 花だった。


 一輪の、小さな花。白い花弁に、ほんのわずかに青みがかった筋が入っている。細い茎を水に浸して小瓶に挿してある。


 ──知っている。


 この花を、私は知っている。


 ルミナリス・アルバ。魔力含有量の測定に使われる基準薬草の花。ギルドの資格試験の実技で、最初に手を触れる薬草。十年前──十年前の試験で、私が最初に手に取った薬草。


 クラウスが、十年前のあの試験の、試験官だった。


 「私の答案を読んだ日から」──あの人は、そう言っていた。


 そしてこの花は──先月、クラウスが薬局の開業祝いに持ってきた花束の中にも、一輪だけ混ぜてあった。他の花に紛れて、気づかない人には気づかない形で。私には──分かった。


 この花の意味を知っていて、花束に混ぜる人は──一人しかいない。


 いつ置いたのだろう。私がギルドにデータを届けに行った間か。鍵は──ギルド長は、管轄下の薬局の合鍵を持っている。管理上の理由で。


 (管理上の理由で──こんな花を、置いていくのか)


 指先で花弁に触れた。柔らかかった。摘みたてだ。──誰かが、育てていた。この冬に、温室か、ギルドの薬草園で。春に咲くはずのこの花を、冬の間に。


 薬草園で手に土がついていたクラウスの姿を思い出した。あの日──「冬越しの手入れだ」と言っていた。手入れしていたのは、品種管理の薬草だけではなかったのだ。


 蝋燭の灯りが揺れた。


 花が──小さく、揺れた。


 涙が落ちたのだと気づくまで、数秒かかった。


 泣いている。──私が。


 五年間、泣かなかった。レナートの隣で五年間、一度も。公聴会でも、離縁の夜でも。マリアの前でも、父の前でも。


 でも──花一輪で。名前も書かない。署名もない。ただ、花を一輪。十年前を覚えている人が、今夜のこの場所に。


 「……ずるい」


 声が掠れた。誰も聞いていない。聞いていなくていい。


 「ずるいですよ、クラウス」


 呟いた言葉が、蝋燭の灯りに溶けた。


 花を小瓶ごと持ち上げて、調合台の中央に置いた。明日──この花を見て、公聴会に行く。


 涙を拭いた。袖が少し濡れた。


 ──泣くのは、これで十分。



     ◇◇◇



 翌朝、マリアが教えてくれた。


 昨夜、ギルド長は日が完全に暮れてからようやくギルドを出たのだという。薬草園に随分長くいたと、エルヴィンが言っていたそうだ。


 「指先に、まだ乾いていない土がついていたそうですよ。爪の間にまで」


 マリアはそれだけ言って、少し微笑んだ。



     ◇◇◇



 同日の朝。宮廷議会。


 レナート・ヴァイス子爵が議会書記に一通の嘆願書を提出した。


 『宮廷薬師ギルド長クラウス・ヴェルナーと、同ギルド所属薬師セレスティア・ルーヴェンとの間に、不適切な関係が存在する疑いがある。ギルド長が個人的な感情に基づき薬師を不当に優遇した可能性があり、薬事規制法案の審議に先立ち、利益相反の審査を求める──』


 公聴会は、二本立てになった。

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