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私の薬が夫の功績になっていたと知った日、白い結婚の終わりを選びました  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第5話 棄却


 ──終わったはずの話が、再び書面となって届いた。



     ◇◇◇



 訴状の紙は厚かった。


 高級な羊皮紙。丁寧な筆跡。封蝋にはヴァイス家の──いや、もう子爵家の紋章が押されている。


 『原告:レナート・ヴァイス子爵。被告:セレスティア・ルーヴェン。請求:ヴァイス伯爵家在任中に作成された処方箋の帰属権に関する確認。原告は被告と共同で調合研究を行っており、処方箋は共同成果物である。よって、被告が単独名義で再登録した行為は不当であり──』


 最後まで読み終える前に、息を吐いた。


 共同研究。


 ──あの人が、私と共同で何かをしたことが一度でもあっただろうか。薬草室に足を踏み入れたのは、完成品を持ち出す時だけ。配合比率を尋ねたことすらない。三つの領地の水質も標高も知らない人が、共同研究。


 (……馬鹿なことを、と言いたいけれど)


 法の世界では、馬鹿なことでも書面にすれば手続きが動く。訴状が受理された以上、審理は開かれる。


 マリアが心配そうにこちらを見ていた。


 「大丈夫。──こうなることは、予想していたわ」



     ◇◇◇



 ギルドの法務担当は、小柄な眼鏡の女性だった。名前はブリギッテ。書棚の奥から分厚い判例集を引き出す手つきが、薬草を扱う私の手つきと少し似ていた。


 「結論から申し上げます。勝てます」


 ブリギッテの声は明瞭で速かった。


 「根拠は三つ。第一に、先の公聴会における裁定が既判力を持っています。魔導筆跡鑑定の結果は確定済みで、同一の争点で再審理を求めることは法的に認められません」


 判例集のページを開いた。


 「第二に、宮廷薬品管理官が処方箋受領時に残した注記があります。──『本処方箋の配合パターンは、先にセレスティア・ルーヴェン名義で提出された処方箋と同一の特徴を有する』。これは独立した第三者による記録です」


 あの注記。──いつ記録されたのか、私は知らなかった。ギルドに処方箋を初めて納入した時に、薬品管理官が何かに気づいて注記を残した、とだけ聞いていた。


 「第三に──」


 ブリギッテが眼鏡を押し上げた。


 「原告に薬学の基礎知識がないことは、先の公聴会で公的に記録されています。共同研究を主張するなら、最低限の専門知識がなければ成立しません」


 三つの根拠。いずれも、既に存在する証拠と記録だけで構成されている。新しい物証は一つも必要ない。


 「ただ──」


 ブリギッテが少しだけ声を落とした。


 「審理の場で、裁定官が原告に確認の質問をする可能性があります。公聴会と同じ種類の質問を。──答えられなければ、それ自体が棄却の根拠になります」


 覚えている。あの公聴会で、監察院代表がレナートに訊いた。解熱薬の基剤は何か。配合手順の最初の工程は何か。オルテ領の粘膜保護薬草の増量比率は何割か。


 ──何一つ、答えられなかった。



     ◇◇◇



 審理は三日後に開かれた。


 場所はギルドの会議室ではなく、王都の民事裁定所。石造りの建物の中は冷たくて、足音がよく響いた。


 裁定官は五十代の男。灰色の法衣。表情は読めない。


 レナートが向かいの席に座っていた。社交界用の柔和な笑みは──もう、なかった。代わりにあるのは、硬い顔。顎が少し上がっている。見覚えがある仕草だった。追い詰められた時の、あの人の癖。顎を上げて、自分を大きく見せようとする。


 「審理を開始します。──原告、訴えの趣旨を述べてください」


 レナートが立ち上がった。


 「処方箋は伯爵家の薬草室で作成されたものであり、伯爵家の資産です。妻と共同で研究を──」


 「原告に確認します」


 裁定官が遮った。声に抑揚がない。


 「『共同研究』とのことですが──原告はどの工程を担当されていたのですか」


 沈黙。


 「……全体の監修を」


 「監修。具体的には」


 「配合の方向性を──」


 「では一点、確認させてください」


 裁定官が書類を一枚めくった。


 「最も一般的な風邪薬の配合において、蒸留工程の後に行う魔力安定化の手順を説明してください」


 基礎中の基礎。ギルドの薬師であれば、試験を受ける前に暗記している手順。私が伯爵邸で一人でやっていた時には省略していた工程──クラウスに指摘されて初めて正しく学んだ、あの工程。


 レナートが口を開いた。閉じた。また開いた。


 「……それは──具体的な技術の話であり、監修者が──」


 「お答えいただけますか」


 答えられなかった。


 公聴会と同じだ。同じ質問。同じ沈黙。同じ結果。


 裁定官が書類を閉じた。


 「本件について裁定を下します」


 声は平坦だった。それが──かえって、重い。


 「先の宮廷公聴会における裁定は確定済みであり、魔導筆跡鑑定の結果は覆りません。同一人物による執筆は認定済みです。また、宮廷薬品管理官の独立した注記記録も、被告の主張を補強しています。原告が共同研究を主張するに足る専門知識を有していないことは、本審理においても確認されました」


 一呼吸。


 「本訴えは証拠不十分かつ既判力に抵触するため、棄却します。──以上」


 棄却。


 たった一言で、終わった。


 レナートの手が──机の上で、強く握られていた。白くなるほど。


 私は何も言わなかった。立ち上がり、一礼して、退出した。振り返らなかった。



     ◇◇◇



 裁定所の廊下を出た。


 足が──少しだけ、頼りなかった。壁に手をつきたかったが、つかなかった。


 (終わった。──終わったのだ。今度こそ)


 あの処方箋は、もう二度と争われない。五年分の仕事が、完全に私のものとして確定した。公聴会の時とは違う。あの時は「返してもらった」。今度は「守りきった」。


 ギルドに戻ると、クラウスが研究室の入口に立っていた。


 「結果は聞いた」


 短い。いつも通り。


 「ありがとうございます。ブリギッテさんの準備が完璧でした」


 「ブリギッテは優秀だ。──だが、証拠を五年間積み上げたのはお前だ」


 クラウスの手に、書類の束があった。


 「薬事規制法案の審議日程が出た。公聴会は二週間後だ。──ディートリッヒが議長を務める」


 書類を差し出された。受け取ろうと手を伸ばした時──


 指が触れた。


 クラウスの指先。硬くて、乾いていて、少しだけ──温かかった。


 一瞬だった。一瞬だけ──クラウスの指が、引かなかった。書類を渡す動作の中で、ほんの零点何秒か、指が重なったまま止まった。


 それから──何事もなかったように、手を引いた。


 「お前の判断で動け」


 声は事務的だった。完璧に。


 でも──指先に残った温度は、事務的ではなかった。


 「……はい」


 返事が、また少し遅れた。


 書類を胸に抱えて、研究室に入った。


 二週間。──ディートリッヒが議長を務める公聴会。レナートの訴訟は退けたが、本当の戦いはこれからだ。


 書類を調合台に広げた。右手側に──あの文献メモがまだ挟んであった。クラウスの筆跡。


 指先が、まだ少しだけ温かい。


 (……考えるのは、後にする。今は──公聴会の準備を)


 窓の外が暗くなり始めていた。

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