第4話 薬草園の午後
宮廷議会からの通知書は、朝の郵便に紛れていた。──また、紛れる形で来た。
◇◇◇
封蝋を割って、読んだ。
『宮廷議会通達。薬事制度の改正に関する法案が、本日付で正式に議会に提出されたことを関係各位に通知する。法案名:個人薬局営業認可制度の新設に関する件。概要:個人薬局の開業および営業継続について、従来のギルド長承認に加え、宮廷侍医団の認可を義務づける──』
最後まで読んだ。文面は事務的で、整然としていて、感情の入る余地がない。
けれど──この紙一枚の向こうに、誰かの意図が透けている。
「セレスティア様?」
マリアが私の顔を見ている。
「……法案が出たわ。個人薬局に宮廷侍医団の認可を義務づける、というもの」
「それは──セレスティア様の薬局も?」
「そうなるわね」
声は平らに保った。でも──通知書を持つ指先が、微かに白い。
ギルド長の承認だけでは不十分。宮廷侍医団の認可が必要。──つまり、ディートリッヒ・ホフマンの許可がなければ、個人薬局は営業できなくなる。
あの日、商人が言っていた噂が、形になった。
(やっと──手に入れた場所なのに)
通知書を机に置いた。薬草の匂いが漂う調剤室で、紙のインクの匂いが異質だった。
◇◇◇
昼過ぎ、父に手紙を書いた。
『お父様。薬事制度の改正法案が議会に提出されました。個人薬局の営業に宮廷侍医団の認可を義務づける内容です。法的な対抗手段について、ご助言をいただけないでしょうか。セレスティア』
伝書鳥を飛ばして、二時間。
父の返書は短かった。いつも通り。
『セレスティア。法案を確認した。採決は議会の多数決。侯爵級以上の貴族と宮廷関連ギルド長に投票権がある。──まず時間を稼げ。法案の審議にはギルド長の意見聴取が手続き上必要だ。そこで引き延ばしつつ、反対票を固める。カタリーナ殿にも連絡を取る。ヘルムート』
追伸が一行。
『無理はするな。だが──逃げるな』
父らしい。短くて、厳しくて、でも最後に一言だけ、余分な言葉がある。しかも命令形を二つ並べて、矛盾させるのが──ああ、この人は本当に。
手紙を畳んで、処方箋の束の隣に置いた。
逃げるな。──逃げない。
◇◇◇
翌日。
ギルドから連絡があった。クラウスが薬草園に来るように、と。
ギルドの薬草園は本館の裏手にある。高い石壁に囲まれた、静かな場所だ。薬草の品種管理のために一般のギルド員も立ち入りが制限されている。
門をくぐると──クラウスが先に来ていた。
薬草の畝の間に立っている。外套を脱いで、袖をまくっている。手に──土がついていた。
「……何をしているんですか」
「冬越しの手入れだ。この品種は根を深く張らせないと春に枯れる」
ギルド長が自分で薬草の世話をしているのか。庭師に任せるものではないのか。──でも、この人はそういう人だ。暖炉の火を自分で足し、看板の金具を自分で直す人。
「法案の件だ」
クラウスが腰を上げた。土のついた手を布で拭きながら──私のほうを向いた。
「読んだか」
「はい。父にも連絡を取りました」
「ルーヴェン子爵か。──仕事が早い」
石壁の際に古い木のベンチがあった。クラウスがそこに座り、私もその隣に──少し間を空けて、腰を下ろした。
「法案の背後にいるのは、宮廷侍医長のディートリッヒ・ホフマンだ」
「侍医長が──」
「ギルド薬師の台頭が気に入らない。侍医団の認可制にすれば、薬師の活動はすべて侍医団の管理下に入る。──権限の拡大だ」
なるほど。レナートが一人で仕掛けたわけではなかった。レナートの個人的な報復心を、ディートリッヒの権力欲が利用している。──いや、逆かもしれない。ディートリッヒがレナートを利用しているのか。
「カタリーナ侯爵夫人の孫を救ったのは、宮廷侍医が匙を投げた後だった」
クラウスの声が、少し硬くなった。
「あの時──侍医団に治療を任せるとの判断を下したのが、ディートリッヒだ」
「……それは」
「侍医長自身が見捨てた患者を、ギルドの薬師が救った。それが──あの男の逆鱗に触れたらしい」
石壁の向こうで風が吹いた。薬草の葉が揺れる音。乾いた、冬の終わりの音。
「……どうすれば」
「ギルドとしては、法案の審議の場でギルド長の意見聴取を求める。手続き上の権利だ。──そこで時間を稼ぐ」
「父と同じことを言うのですね」
少しだけ笑えた。
「それと──お前の薬の実績データが必要だ。五年分の処方箋記録と、薬局開業後の治療実績。全てを数字で可視化する」
「準備します」
「お前の判断で動け」
クラウスの声が──変わった。
「ギルド長として命じているのではない。──お前の薬を、お前の名前で守るのは、俺ではなくお前だ」
低い声だった。いつもの事務的な低さとは──違う。もっと深い場所から出ている。半音だけ低い。
あの声だ。
研究室で私の名前を呼んだ時の。カタリーナ侯爵夫人に「我がギルドの薬師だ」と紹介した時の。公聴会の廊下で「話がある」と言いかけた時の──。
「セレスティア」
──心臓が、一拍跳ねた。
他の薬師を呼ぶ声と、明らかに違う。エルヴィンを呼ぶ声とも、受付の青年を呼ぶ声とも。半音低くて、わずかに──温度がある。
(気のせい──ではない)
研究室で同じことを思った日のことを、覚えている。あの時は「気のせいだ」と流した。今は──流せなかった。
「……はい」
返事が少し遅れた。遅れたことを、クラウスは気づいただろうか。
「法案の対策は──」
「ええ。一人でやる必要は、もうありませんから」
言ってから、気づいた。
それは──あの日、クラウスが私に言った言葉だった。研究室で配合を失敗した夜。「一人でやる必要はもうない」。あの言葉を、今度は私が言っている。
クラウスの目が一瞬だけ大きくなった。覚えている、ということだ。あの夜のことを。
「ああ」
一言。短い。でも──声の温度が、さっきと同じだった。半音低い温度。
それ以上は何も言わなかった。薬草園の風が、葉を揺らす音だけが残った。
◇◇◇
薬局に戻る道を歩きながら、考えた。
法案の背後にディートリッヒ侍医長がいる。レナートが動いている。二人の利害が重なっている。──一人で戦うには大きすぎる相手だ。
でも──一人ではない。
クラウスがいる。父がいる。カタリーナ侯爵夫人がいる。エルヴィンがいる。マリアがいる。
薬局の扉を開けた。看板が目に入る。右側の金具が──新しく光っている。
「マリア」
「はい」
「忙しくなるわ。処方箋の記録を全て整理するの。五年分と──開業後の分と。全部」
マリアが頷いた。迷いなく。
深呼吸を一つ。窓の外を見た。薬草の鉢植えの芽は、まだ固い。
──春は、まだ先だ。でも、準備は今から始める。




