第3話 噂と、金具と、崩壊と
扇の向こうの笑顔は、前と同じだった。──懲りない人だ、と思った。
◇◇◇
マリアが市場から戻ったのは、昼前だった。
薬草の束を抱えて入ってきた顔が、いつもと違う。唇が薄く結ばれていて、買い物袋を置く手つきが少し乱暴だった。
「……何かあったの」
マリアは棚に薬草を並べながら、しばらく黙っていた。それから、振り向いた。
「サロンで──また、噂が流れているそうです」
「噂」
「リゼット・マルーア様が。──『あの薬師はギルド長と不適切な関係にあり、それで便宜を受けている』と」
ああ──またか。
扇の向こうで笑って、「聞いた話では」と前置きして、直接的な誹謗は避ける。あの手口だ。公聴会の前にも、同じことをしていた。
「それと──もう一つ」
マリアの声が少し低くなった。
「『身分を偽って薬局を開いている』とも。元伯爵夫人が平民のふりをして商売をしている、と」
身分を偽る。──私は子爵家の令嬢に戻っただけだ。偽っているのではなく、元に戻しただけ。
「噂は噂よ。事実が変わるわけではないわ」
声は平らだった。──でも、手が少しだけ強張っているのを、マリアは見ていたかもしれない。
やっと手に入れた場所。自分の名前の看板。それを、また誰かの言葉で揺すぶられている。
(……いい加減にしてほしい、とは思う)
思ったが──口には出さなかった。
◇◇◇
噂が潰れたのは、二日後だった。
マリアが市場で聞いてきた。
カタリーナ侯爵夫人がサロンに現れたのだという。リゼットが数人の令嬢に囲まれて、いつものように「聞いた話では」を繰り返していたところに。
カタリーナはリゼットには目を向けず、隣の令嬢に話しかけたそうだ。──セレスティア・ルーヴェンの薬が東第四区画の子供を救ったこと。自分の孫も救われたこと。そして、「孫の命を救った薬師と、その薬師を守るギルド長に対して、不貞の中傷をなさるの?──それは、私に対する侮辱かしら」と。
声は最後まで穏やかだったらしい。
リゼットが何を答えたかは、誰も覚えていないという。
──事実は、噂より強い。
この言葉の意味を、リゼットは二度学ぶことになった。
◇◇◇
三日後の朝。
マリアが薬局の裏口から入ってきた。手に工具箱──ではなく、空の手が少し落ち着かない様子だった。
「セレスティア様」
「何?」
「看板の──右の金具が、直っていました」
「……直っていた?」
「はい。今朝見たら。──金具が新しいものに替わって、しっかり固定されています」
心当たりがある。先日、クラウスが「右側の金具が緩い」と言っていた。
「業者を呼んだの?」
「いいえ。呼んでおりません。……それで、隣の花屋のおかみさんに訊いてみたのですが」
マリアが少し言い淀んだ。
「昨日の早朝──まだ薄暗い時間に、背の高い男の方が、工具を持って看板の前に立っていたそうです。銀色の髪の」
──。
「お一人で。黙って。金具を外して、新しいものに付け替えて。終わったらそのまま歩いて行かれたそうです。声もかけずに」
マリアの目が、まっすぐこちらを見ていた。
「前の旦那様は──お屋敷のことなど、何もなさいませんでしたからね」
短い言葉だった。でもその一言で──頭の中に、二つの映像が並んだ。
レナート。五年間、薬草室以外の場所で私と何かを共有したことが一度もなかった人。家のことは使用人に任せ、私のことは薬を作る道具として扱った人。
クラウス。薄暗い早朝に、一人で。工具を持って。看板の金具を直して。──何も言わずに、去った人。
比較する気はなかった。でも──比較してしまった。
(あの方は──管理の一環として、なのだろう。ギルドの管轄下にある薬局の看板が壊れていては困る、というだけの)
……だけの。
「ありがとう、マリア。──お茶を淹れましょうか」
話を変えた。変えなければ、顔に出そうだったから。
◇◇◇
午後、東通りの商人が薬を買いに来た。先日の頭痛の処方が効いた、という礼を述べに来てくれたのだが──帰り際に、一つ。
「そういえば、薬師さん。宮廷の方で、薬に関する新しい法律の話が出ているとか」
「法律?」
「ええ。個人の薬局に、もっと厳しい認可を──とかなんとか。うちの取引先の役人が言っていました。詳しくは分かりませんが」
薬事規制。
──まだ噂の段階だ。でも、噂が形になる前に動けるかどうかで、結果は変わる。
商人が去った後、調合台の前で考えた。
ギルドの承認だけでは不十分──つまり、ギルド長の判断を否定する動き。それは、クラウスの権限を削ることでもある。
(……誰が、こんな話を)
レナートの顔が浮かんだ。根拠はない。でも──あの人は、制度の抜け穴を見つけるのが得意だった。自分の名前で他人の薬を出荷する仕組みを五年間維持できた人だ。
窓の外を見た。看板が見える。右側の金具が、新しく光っている。
──この看板を、守れるだろうか。
◇◇◇
同じ頃。ヴァイス子爵邸。
俺は帳簿を閉じた。閉じたというより、投げた。
三人目の薬師が逃げた。
一人目は二ヶ月で辞めた。処方箋が読めなかった──あの女の筆跡で書かれた調合記録を、再現できなかったのだ。二人目は三週間。配合の複雑さに音を上げた。三人目は──昨日の朝、荷物をまとめて消えていた。書き置きすらない。
領地からの陳情書が、机の上で山になっている。薬の供給が止まっている。診療所が機能しない。オルテ領の住民が隣の領地に流出し始めている。
「……なぜだ」
帳簿の最後のページ──もう何度も見た。
「引き継ぎ事項:なし」
六文字。あの女が書いた六文字。
なし。引き継ぎようがない。あの女の頭の中にしかないものを、どうやって引き継ぐ。三つの領地の水質。標高ごとの薬草の配合比率。季節ごとの微調整。患者ごとの体質の記録。──全部、全部、あの女の中にだけあった。
(全てが──あの女だったのか)
いや。違う。俺が無能なのではない。あの女が異常だったのだ。一人で全てを担えるほうがおかしい。
──おかしいのだ。
リゼットからの手紙が、引き出しにある。『噂工作は失敗しました。カタリーナ侯爵夫人に潰されました。──次の手を、早く』
ペンを取った。ディートリッヒへの最新の報告書を書かなければ。法案の進捗を確認しなければ。あの薬局を潰せば、あの女は──
ペンが止まった。
潰して、どうする。あの女を連れ戻せるわけではない。処方箋は公聴会で全て「セレスティア・ルーヴェン」の名前に再登録された。今更──
(……今更、何を)
陳情書の山が、視界の端で揺れている。
薬草の匂いは、もうこの屋敷のどこにも残っていなかった。




